第15話 夜が終わる前に
目を閉じても、頭の中がずっとざわついていた。
カラオケのモニターの光。
笑い声。
水越さんの歌声。
ひとつひとつが、耳の奥でまだ鳴っている。
時計の針は、とっくに深夜をまわっていた。
ソファに身体を沈めても、まぶたの裏に彼女の横顔が浮かぶ。
気づけば、ため息がこぼれていた。
(……寝れねぇ)
仕方なく、天井を見上げる。
白い照明の光が、ぼんやりと視界を照らしていた。
向かいのソファでは、水越さんが静かに眠っている。
歌っている途中から、少しずつまぶたが重そうで――。
ほんとに、無防備だなと思う。
上司とふたりきりのカラオケで、そんなにあっさり寝られるものか。
いや、信頼されてるってことなんだろうけど。
そのぶん、変に意識してしまう。
寝顔を見ないように、視線を逸らす。
けれど、見ないようにすればするほど、意識はそっちへ引き寄せられる。
今日の彼女は、いつもと違って見えた。
仕事中の彼女は、落ち着いていて、どこか余裕がある。
でも今夜は、年相応に笑って、ちょっと子どもっぽくて。
歌っているときの真剣な顔も、照れて笑う顔も、全部が妙に印象に残っている。
思い出すたびに、胸の奥がざわついた。
眠れない理由は、それだ。
単純に――意識してしまったのだ。
そう気づいた瞬間、頭の中で警報が鳴る。
(いやいやいや、ちょっと待て俺)
落ち着け。
後輩だ。部下だ。
職場の仲間で、それ以上でも以下でもない――。
……そう言い聞かせても、鼓動は収まらない。
カラオケに誘われたとき、正直、驚いた。
まさか水越さんのほうから「もう少し、なにかしませんか」なんて言うとは思わなかった。
あのときの街灯の光が、彼女の横顔を照らしていた。
その光景が、頭から離れない。
(どうして、あんな顔で誘うんだよ)
ほんの少し勇気を出した、みたいな表情だった。
断る理由なんて、あるわけがなかった。
――むしろ、その一言が嬉しかった。
そんな自分が、いちばん厄介だ。
寝返りを打つ。
エアコンの低い音だけが響いていた。
リモコンを置いた手が、ソファの端から落ちかけている。
それをそっと拾ってテーブルに戻す。
たったそれだけで、心臓が跳ねた。
(俺、どうかしてるな……)
ほんの少し前までは、ただの“頑張り屋の後輩”だったのに。
今は、笑い方ひとつで心がざわつく。
あの声も、目の動きも、全部が頭に残って離れない。
――どうして、こんなことになったんだろう。
眠気は、まったく来ない。
代わりに、静かな焦りだけが積もっていく。
(こんなんで、来週からちゃんと顔合わせられるのか?)
考えたくなくても、考えてしまう。
ソファの上で丸くなって眠る水越さん。
その隣で、眠れずにいる自分。
こんな状況、冷静でいられるわけがない。
「……ほんと、寝れねぇな」
小さくつぶやいた声が、夜の空気に溶けた。
外では、ビル風が看板を鳴らしている。
遠くで聞こえる街のざわめきが、やけに現実離れして感じた。
窓の外が、わずかに白みはじめている。
夜が終わる気配。
空調の音が一定のリズムで響いている。
眠る気配はまったくなくて、ただ、ぼんやりと天井の模様を見つめていた。
――そろそろ帰る支度でもしようか。
そんなことを考えて、腕時計に目をやる。始発までは、まだ一時間近くある。
このままここで過ごすか、それとも……。
そこで、ふと頭に浮かんだ。
(あれ? 水越さん、前にデート行ったんだよな)
あのとき、確か――。
夕方のオフィスで、「今日は予定あるので」って言っていた。
冗談みたいな調子で「デートですっ」なんて言ってたっけ。
あの言葉、ずっと気になっていた。
けど、そのまま流れて、深く聞くこともなく終わった。
彼氏がいるなら、まあ普通のことだ。
そう、普通なんだけど――。
(だとしたら、今のこれは、だいぶマズくないか?)
上司とふたりでカラオケに来て、深夜まで過ごして、今は隣で寝ている。
いや、何もしてない。もちろん何も。
でも、もし相手がいたら、説明できるような状況じゃない。
思えば今日だって、飲みの帰りに「もう少し行きませんか」なんて言われて、流れでここに来た。
こっちが断るべきだったのかもしれない。
彼女に悪気がないのは分かってる。
けれど、無邪気に誘われるほど、こっちは冷静じゃいられなくなる。
頭を抱えたくなる。
(この子、ほんとにわかってんのか……)
ふと視線を向けると、水越さんはまだ静かに眠っていた。
髪が少し乱れて、頬にかかっている。
それを見て、また余計なことを考えてしまう。
どこまでが“後輩”で、どこからが“ひとりの女”として見ているのか。
その境界が、もう自分でもわからない。
たぶん、きっかけは小さなことだった。
展示会の準備で残業して、夜遅くまで一緒に資料を作ったとき。
「先輩、もう少しで終わりますから」って言って、肩越しに見せてくれた画面。
その近さにどきっとした。
でも、そういうのは一瞬だけで、すぐに仕事に戻った。
――はずだったのに。
気づけば、彼女の頑張り方や、ちょっとした気遣いに目が行くようになっていた。
疲れてるときにくれる缶コーヒーとか、出張前に何気なく整えておいてくれる資料とか。
そういう小さなことが積もって、今の“眠れない夜”に繋がってる気がする。
(結局、俺が勝手に意識してるだけか……)
自嘲気味に笑う。
窓の外は、まだ夜の色をしていた。
けれど、その暗さの中にうっすらと灰色が混じっている。
夜明けが近い。
スマホを手に取り、時間を確認する。
午前四時二十二分。
そろそろ、始発の時間が見えてくる。
静かに立ち上がって上着を整えたとき――。
「……ん、先輩?」
小さな声がした。
寝起きの水越さんが、ゆっくりと体を起こしていた。
髪が少し跳ねていて、まだ半分眠そうだ。
「あ、ごめん。起こした?」
「いえ……。あれ、もう朝ですか?」
「うん。そろそろ始発出る時間だと思って」
そう答えると、彼女は瞬きをして、ぼんやりと窓の外を見た。
夜明け前の淡い光が、ビルの間からこぼれている。
その横顔に、なんとなく見惚れてしまう。
「……寝ちゃってましたね、私」
「まあ、昨日けっこう飲んでたし」
「先輩、寝てました?」
「いや、全然。俺は……眠れなかった」
「え、なんでですか?」
無邪気に首を傾げる。
それが妙に刺さる。
理由なんて言えるわけがない。
「いや、なんとなく。環境変わると寝づらいタイプで」
「なるほど……。すみません、先に寝ちゃって」
「いいよ。全然気にしてない」
そう言いながら、視線を外す。
まだ少し、胸の奥が落ち着かない。
さっきまで頭の中でぐるぐるしていたことが、また蘇りそうになる。
「先輩、コーヒー飲みます?」
「……ああ、もらおうかな」
彼女がドリンクバーから戻ってきて、紙コップを差し出す。
受け取ったとき、指先が一瞬だけ触れた。
その小さな感触が、やけに鮮明に残った。
(落ち着け、俺)
自分に言い聞かせながら、ぬるいコーヒーを口に運ぶ。
ほろ苦さが舌に広がって、ようやく現実に戻る気がした。
「……そろそろ行きましょうか」
「ですね。寝顔、見られてないといいなあ」
「いや、バッチリ見てたよ」
「えっ、うそ、ほんとに!?」
慌てて頬を押さえる水越さんに、思わず笑ってしまった。
その笑い声が、夜明け前の空気に混じっていく。
ビルの外はもう、朝の色をしていた。
◇
駅までの道。
まだ人の少ないホームに立つと、冷たい風が頬をかすめた。
水越さんが小さくあくびをして、マスクを整える。
それだけの仕草が、妙に自然で――少し、寂しくもあった。
「今日はありがとうございました」
「いや、こっちこそ。……無事に帰れよ」
「はい。先輩も、ちゃんと寝てくださいね」
そう言って笑う顔を見て、少し胸が痛んだ。
たぶん、自分が勝手に線を越えそうになってる。
そう思いながら、ホームに入ってきた電車を見送った。
彼女が乗り込んで、ドアが閉まる。
車両の中で、軽く手を振る姿が見えた。
それに小さく手を上げて返す。
ガラス越しの彼女の姿が遠ざかっていく。
夜が明けきった街に、静かな朝日が差し込み始めていた。