第14話 その声に、落ちていく夜
入ったのは、駅前のカラオケチェーンだった。
焼肉屋の赤い提灯が遠くに揺れている。
「もう少し、なにかしませんか」と言ってしまったあの瞬間から、胸の奥の鼓動が止まらない。
店内は想像より明るく、受付のカウンター越しに漂うポップコーンの甘い匂いが、妙に浮ついて感じられた。
だけど、隣に立つ野宮先輩の姿があるだけで、全部が少し特別に見えた。
「この辺、確か一軒あったよ」
そう言って先輩が自動ドアを押す。
その背中を追いながら、私は心の中で何度も深呼吸をした。
――本当に来ちゃった。
あんなに勇気を出したのに、「やっぱり冗談です」なんて、もう言えない。
先輩の笑顔が思いのほか自然で、それがまたくすぐったかった。
受付を終えて案内されたのは、二人用の個室。
狭いテーブルと、向かい合うソファ。
壁にかかったモニターにはカラフルな曲リストが流れている。
他の部屋から漏れる歌声が遠くで響いて、ここだけが小さな世界みたいだった。
「……結構、狭いですね」
「二人だから、こんなもんでしょ」
野宮先輩はそう言って軽く笑う。
その笑い方が落ち着いていて、逆に私のほうがどぎまぎした。
カラオケに行くのなんて専門のクラスの打ち上げ以来で、
まさかこうして“先輩と二人きり”で来る日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ドリンク、何にする?」
「えっと……コーラで」
「了解」
そう言って立ち上がった先輩が、ドアの向こうに消える。
その瞬間、張りつめていた呼吸が一気に抜けた。
――うわ、どうしよう。緊張で喉が乾く。
座ったまま両手をぎゅっと握りしめる。
今さらながら、「カラオケ」ってすごく距離の近い場所なんだと実感した。
もし沈黙が続いたらどうしよう。
もし音痴だったらどう思われるんだろう。
そんな取りとめのない考えが頭の中をぐるぐる回っているうちに、ドアが開いた。
「お待たせ。コーラで合ってる?」
「はい、ありがとうございます」
グラスを受け取ると、先輩の指先が一瞬触れた。
それだけで、心臓の鼓動がまた跳ねる。
「そういえばさ、水越さんって、どこの学校だったの?」
「え? えっと、○○専門学校です」
「うわ、マジで? 俺もそこだよ」
「えっ、ほんとですか!?」
「うん。学科違ったのかな? 全然会った記憶ないけど」
「たぶんそうですね……。私デザイン系だったので」
「俺は情報処理。そりゃ接点ないわけだ」
先輩が楽しそうに笑う。
その笑い声が妙に柔らかくて、緊張していた胸の奥が少しずつほどけていく。
「でもなんか、そう考えると不思議ですね。
同じ学校にいたのに、職場でこうして話してるなんて」
「だね。……縁ってそういうもんかも」
そう言って、軽くグラスを合わせた。
小さな乾いた音が鳴って、胸の奥がじんわり熱くなる。
「じゃあ……最初、どっちが歌う?」
「えっ、あ、えっと……」
リモコンを手にしたまま、言葉が詰まった。
視線を合わせるのが怖くて、テーブルの隅を見つめる。
「こういうときって、どっちから歌うもんなんでしょうね」
「さぁ。俺も久しぶりだし……水越さん、行ける?」
「い、行きます! ……たぶん」
声が少し裏返る。
自分でも笑ってしまって、誤魔化すようにコップのストローを噛んだ。
外から誰かの歌声がかすかに聞こえる。
でも、この部屋の中だけは、鼓動の音がやけに響いていた。
――落ち着け、水越。普通にしてればいい。
これはただの、仕事終わりの“打ち上げ”。
そう言い聞かせながらも、胸の奥は熱を帯びていた。
勇気を出して選んだリモコンのボタンを押す。
画面にタイトルが表示され、イントロが流れ始めた。
「じゃあ……聴いててくださいね」
そう言ってマイクを持った手が、わずかに震えていた。
曲のイントロが流れ出した瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
手の中のマイクが、信じられないくらい熱い。
リモコンを操作する指先が少し震えて、思わず笑ってしまう。
「緊張してる?」
「……ちょっとだけです」
「大丈夫。俺、笑わないから」
野宮先輩の穏やかな声が響いて、少しだけ肩の力が抜けた。
曲が始まる。
――歌い出しの一拍、深呼吸。
マイクに自分の声が返ってくる。
思っていたよりもクリアで、広がって、部屋いっぱいに満ちていく。
いつもみたいに歌おうとしただけなのに、先輩の視線を感じるたびに、声が少し震えた。
(落ち着け、普段どおりでいい)
サビを過ぎたころ、ようやく気持ちが馴染んでくる。
音に合わせて言葉が流れていくたび、少しずつ心が軽くなる。
歌が終わるころには、息をしているのも忘れていた。
に。
――ピッ。曲が終わる。
画面の採点アニメーションが、派手に光った。
《94点!》
「……えっ」
「……えっ」
同時に声が出た。
目が合う。先輩が、ぽかんと口を開けている。
「いや、ちょっと待って。水越さん、上手いってレベルじゃないよこれ」
「え、そんなこと……!」
「94点って。俺、最高でも87だよ?」
「た、たまたまです! 機械の調子がよかっただけで!」
両手をぶんぶん振る私に、先輩は思わず吹き出した。
「いやいや、“機械の調子”で94は出ないって」
「ほ、本当に普段こんなじゃ……」
「てか、普通にびびった。専門の時にボーカルコースとか?」
「いえ、違います。デザイン系でした」
「うん、だよねさっき聞いた……いや、ちょっと待って、水越さん。うま……すぎない?」
「えっ、え、そんなことないです!」
「いや、ある。普通にCDレベル」
先輩はまるで何かの衝撃を受けたみたいに笑って、頭を掻いた。
「なんか、俺の番すごいプレッシャーなんだけど」
「そんな……! 先輩の番、楽しみです」
「うわ、ハードル上がった」
そう言いながら、野宮先輩はリモコンを手に取る。
少し迷ってから選んだ曲は、聞き覚えのあるJ-POPだった。
「これ、俺が専門のときによく歌ってたやつ」
「そうなんですか?」
「うん。打ち上げのとき、いつもこれで締めてた」
イントロが流れ、先輩がマイクを持つ。
最初の数小節、少し照れたように笑って――声を出した。
思っていたより、ちゃんと上手かった。
音程もリズムも安定していて、でもどこか不器用で、あたたかい。
「上手い」というより、「まっすぐ」だった。
――歌っている横顔が、妙に優しく見えた。
会社で見るときよりも素の表情で、少年みたいに少し真剣で。
その姿を見ていたら、胸の奥がじんわりと熱くなる。
曲が終わったあと、思わず拍手してしまった。
「すごいです。想像以上に……」
「“想像以上に”ってどんな評価」
「ほめてます!」
「はは、ありがとう」
照れたように笑う先輩の笑顔に、なぜか息が詰まった。
――なんだろう、この空気。
距離が近い。たった二人の部屋の空気が、少しだけ熱を帯びている。
「もう一曲いく?」
「はい。先輩からどうぞ」
「うーん……俺ばっかり歌ってもあれだし、水越さんももう一曲」
「じゃあ、交代で、ですね」
「それがフェアだな」
そうして、二人で交互に歌い始めた。
曲を選んで、マイクを回して、笑って。
少しずつ、最初の緊張が溶けていく。
外の世界なんてどうでもよくなるほど、ここだけが静かで、あたたかかった。
何曲目を歌ったのか、もう覚えていなかった。
笑って、歌って、時々ジュースを飲んで――
気づけば、最初の緊張はどこかへ消えていた。
「……先輩、ちょっと音外れましたね」
「うるさい、採点機が意地悪なんだよ」
「言い訳禁止です」
「じゃあ、水越さんが次95点出したら認める」
「ハードル高すぎます!」
くだらないやり取りに、また笑いがこぼれる。
焼肉のあととは思えないくらい、ずっと笑っていた。
胸の奥が、ほんのりと温かい。
◇
グラスの氷が溶けかけていた。
リモコンの履歴がスクロールできないほど曲で埋まっている。
そのとき――ふと、壁にかかった時計が目に入った。
「……あれ?」
短針が、思っていたよりずっと右に寄っていた。
「もう、こんな時間?」
思わずつぶやいた声に、野宮先輩が顔を上げる。
「今、何時?」
「……えっと、二十三時三十五分です」
「え?」
その瞬間、ふたりの間に沈黙が落ちた。
スマホを取り出して時刻表アプリを開く。
――最寄り駅、終電:二十三時三十九分発。
「……終わった」
「マジか」
画面を見せ合って、同時に苦笑する。
「ギリ……どころじゃないですね」
「うん、これは確実に無理なやつだ」
途端に、さっきまでの笑いが変な方向にこみ上げてくる。
「まさか、カラオケで終電逃す社会人になるとは……」
「俺も。なんか学生時代に戻った気分」
「でも、どうします? タクシー呼びます?」
「この時間だと捕まらないかもな……うーん」
野宮先輩が、天井を見上げて考え込む。
少しして、ぽつりと笑った。
「……オールするでもいいかな?」
「えっ」
「明日、土曜日だし。ここ、朝までパックあったはず」
「え、でも……」
「もちろん嫌なら大丈夫。なんとかタクシー探すとか、ネカフェに泊まるとか。もしお金かかるなら渡すし、こんな時間まで付き合わせてごめんね」
「……嫌じゃないですけど」
「あ、ほんと? でも、無理はしないでね」
そう言って、スマホを操作する。
受付に延長のコールを入れて、慣れた様子で「朝までで」と告げる先輩。
通話を切ると、少しだけ視線を落として言った。
「無理やり引き留めたみたいになってたらごめん」
「そ、そんなことないです!」
慌てて首を振る。
「むしろ……ありがとうございます。ひとりで帰るより、全然」
「……そっか。なら、よかった」
先輩の声が、いつもより少し優しくて。
心臓が、またどくんと跳ねた。
◇
深夜零時を過ぎても、外の街はざわついていた。
けれど、この小さな個室の中だけは、別の時間が流れているみたいだった。
マイクのコードがテーブルに絡まり、
空になったグラスがふたつ、静かに並んでいる。
「……水越さん、眠くない?」
「大丈夫です。先輩こそ」
「俺はちょっとだけ眠いけど、あと十曲は歌わないとって感じかな」
「元気すぎますよ」
あくびをこらえて笑うその顔が、やけに穏やかで。
胸の奥が、またじんわりと温かくなった。
(こんな夜、悪くないな……)
そう思った瞬間、
外の世界なんてどうでもよくなるほど、
ここだけが静かで、あたたかかった。
いつの間にか、時計の針は午前一時を指していた。
モニターの光が、薄暗い個室を青白く照らしている。
画面の下では、氷の溶けたグラスの中でストローが静かに沈んでいた。
「……次、なに歌う?」
「えっと……どうしよう。もうネタ切れかも」
「俺も。履歴見たら十曲以上歌ってる」
「頑張りましたね、ふたりとも」
笑い合ったあと、ふっと静けさが戻る。
エアコンの音と、遠くの部屋から聞こえる誰かの歌声。
その静けさの中で、先輩がリモコンを操作した。
「じゃあ、俺が一曲入れていい?」
「もちろんです」
タイトルが画面に表示される。
見た瞬間、胸が少しざわついた。
学生のころ、よく聴いていたバラードだった。
歌詞の一節一節が、やけに沁みるような曲。
イントロが流れ、野宮先輩がマイクを持つ。
薄暗い光の中で、彼の横顔が静かに浮かび上がる。
――声が、優しかった。
いつもより低くて、少し掠れていて。
でもその分、ひとつひとつの言葉が心に落ちてくる。
愛とか、別れとか、そういうことをまっすぐに歌う曲なのに、
その声には、どこかあたたかいものが混ざっていた。
(……どうしてだろう。聴いてるだけで、泣きそうになる)
メロディが進むたび、胸の奥がじんわり熱を持つ。
思わず息を止めた。
モニターの光が、彼の横顔を淡く縁取って――
まるで、ほんの一瞬だけ別の世界にいるみたいだった。
曲が終わる。
静かな余韻の中で、採点結果が表示される。
《87点》。
「……負けたな」
「いえ、そんな……」
「いや、でもさ、これ、94点に勝てる気しない」
そう言って笑う顔が、少し照れくさそうで。
どうしてか、見ていると胸が締めつけられた。
「この曲、好きなんですね」
「うん。なんか、昔からさ。歌うと落ち着く」
「……わかります」
それ以上、言葉が続かなかった。
言葉にできない空気が、ふたりのあいだを静かに満たしていく。
◇
「……水越さん、もう眠い?」
「いやまだまだいけますよ」
ソファにゆっくり体を預ける。
モニターの明かりがぼんやり滲んで、まぶたの裏に溶けていった。
遠くで、先輩の操作音が聞こえる。
――音楽が流れた。
静かな、夜に似合う曲だった。
柔らかな声が、すぐ近くで響く。
(……あ、また歌ってる)
その声が、子守唄みたいに心地よかった。
眠りに落ちる寸前、
自分でも気づかないほど小さな声で、呟いていた。
(……先輩、ずるいな)
優しい声と、やわらかな空気の中で――
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいった。
◇
歌い終えたあと、部屋の中に静かな空気が戻った。
モニターの光が、ゆらゆらとテーブルの上のグラスを照らしている。
時計の針は、もう午前二時を回っていた。
視線を向けると――水越が、ソファに身体を預けて目を閉じていた。
「……寝た、のか?」
小さく呼びかけても、反応がない。
ほんの少し揺すってみても、動かない。
完全に、寝落ちしていた。
マイクを握ったまま、頬が少し赤い。
テーブルの上には飲みかけのコーラ。
さっきまで元気に笑っていたのに。
「おいおい……マジか」
思わず頭を掻く。
そして、我に返る。
(え、ちょっと待て。これ……状況、やばくないか?)
冷静に考えてほしい。
ここは密室。
時刻は午前二時。
相手は後輩の女の子。
しかも――自分の部下。
「こいつ、男と密室で寝やがった……」
思わず口から出た独り言に、我ながら頭を抱える。
いや、もちろん悪いのは自分じゃない。
でも、もし誰かに見られたら完全にアウトだ。
……いや、“誰か”って誰だよ。ここカラオケだぞ。
それでも、焦りが消えない。
このままじゃ、彼女の名誉も、自分の首も飛ぶ。
とはいえ、起こすのもかわいそうだった。
疲れてたんだろう。
朝まで仕事して、そのあと焼肉行って、歌って笑って――
そりゃ眠くもなる。
「……はぁ。しょうがないな」
軽くため息をついて、ソファの上に置いてあった自分のジャケットを取る。
そっと、水越さんの肩にかけた。
そのとき、思った。
(なんで俺、こんなに丁寧に扱ってんだろ)
部下だから?
それとも――それ以上の理由?
寝顔を見ながら、わからなくなった。
ふだん職場で見ている彼女とは違って、
今の水越さんはただの“年下の女の子”で。
無防備で、なんだか儚く見えた。
「……ずるいな」
口に出して、すぐに笑ってしまった。
彼女が寝る前に呟いた言葉と、きっと同じだった。
“ずるい”のは、どっちだろう。
エアコンの音だけが響く静かな部屋で、
自分も少しだけ目を閉じた。
ただ、眠られる気は一切しなかった。
(明日の朝、どうすっかな……)
最後まで読んでくださってありがとうございます。
今回は少し特別な夜でした。
ただの“飲み会帰り”のはずが、気づけばふたりきり。
水越の「ずるいな」と、野宮の「……ずるいな」。
同じ言葉で終わる夜に、少しでも胸がきゅっとした方は、
ぜひブックマークや感想、評価で応援してもらえると嬉しいです。
次回は――朝。
寝落ちした翌朝、ふたりの距離はどうなるのか。
いい意味で、少し気まずい朝をお届けします