第10話 出張先で、先輩の寝顔を見てしまった
朝の駅。
まだ陽は昇りきっていないのに、空気はすでにじっとりと湿っていた。
出張なんて、社会人になって初めての経験だ。
キャリーバッグのハンドルを強く握りしめながら、少し緊張する胸の鼓動を落ち着かせようとする。
けれど、そんな不安も、待ち合わせ場所で見慣れた背中を見つけた瞬間に少し和らいだ。
「おはようございます、野宮先輩」
「おー、水越さん。おはよ。早いね」
軽く振り返った先輩は、いつもより爽やかに見えた。
スーツではなく、淡いグレーのシャツに黒のスラックス。
ほんの少しラフな雰囲気が、妙に似合っている。
「ちゃんと来れるか心配だったけど、余裕だね」
「……社会人ですから」
冗談めかして言うと、先輩が小さく笑った。
その笑顔を見ただけで、今日一日がちょっと楽しみになる。
◇
指定席の新幹線。
窓際と通路側、どっちに座るか――小さなことなのに、変に意識してしまう。
「どっち座る? 俺、どっちでもいいよ」
「じゃあ……窓側、いいですか?」
「了解。通路側のほうが足伸ばせるのにな」
「外、見るの好きなんです」
「へぇ。なんか水越さんっぽい」
「どういう意味ですか」
「いや、悪い意味じゃないよ。落ち着いてるというか……なんか、ゆったりしてるよね」
からかわれたような気がして、少しだけ頬が熱くなる。
隣の席、肩がほんの数センチしか離れていない距離。
先輩の動くたびに、袖口から香る柔軟剤の匂いが近くなる。
普段よりも近い。たったそれだけで、心臓が落ち着かない。
車窓に流れる街並みがだんだん遠ざかっていくのを見ながら、自然と息が浅くなる。
「先輩って、出張慣れてるんですか?」
「うーん、まあ去年はちょこちょこあったけど、久々だな。だから正直、俺も緊張してる」
「先輩でも、ですか?」
「当たり前じゃん。人前で話すの苦手だし」
「……意外です」
「ほんと? めっちゃ緊張するよ。顔には出さないけど」
そう言いながら、少し照れたように笑う。
その横顔を見て、ふと気づいた。
仕事中の“頼れる先輩”とは少し違う表情。
こんな顔を、私しか知らないのかもしれない――
そう思うと、胸が少し熱くなった。
◇
現地のオフィスは、思ったよりも慌ただしかった。
資料を広げ、ノートPCを立ち上げたそのとき。
「……あれ? これ、開けないな」
野宮先輩の声が、焦りを含んで響く。
見れば、USBメモリを差した画面に「ファイル破損」の文字。
「嘘だろ……昨日、ちゃんと確認したのに」
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
自然と隣に座り、キーボードに手を伸ばす。
慌てるよりも、まずできることを探すほうが落ち着く。
コピーを別フォルダに移し、バックアップ用のデータを開く。
数秒後、画面にグラフが表示された。
「開けました」
「……マジで? すごっ!」
先輩の顔がぱっと明るくなる。
その笑顔が近くにあるだけで、なんだか私のほうが照れてしまった。
「本当に助かった。焦って変な汗出てきたわ……」
「バックアップ取っておいてよかったですね」
「ほんとにね……水越さん、頼れるなぁ。いつも思うけど」
「そんなことないです。たまたまです」
「いや、たまたまじゃないでしょ。俺だったら、多分今もパソコン見つめてた」
笑いながら言われたその言葉に、胸が少し跳ねた。
いつも言ってもらえる“頼れる”が、今日はなぜかやけに胸に響いた。
◇
打ち合わせが終わったあと、まだ新幹線の時間まで少し余裕があった。
近くの商業ビルに入り、お土産を買って帰ろうということになった。
「うわ、めっちゃ種類あるじゃん。何買えばいいんだろ」
野宮先輩が棚の前で腕を組んで悩んでいる。
地方限定のクッキーや、会社用の小包装スイーツがずらりと並んでいた。
「会社にはこれでいいんじゃないですか? 一個ずつ配れるし」
「たしかに。こういうとき、女子の意見助かるわ」
そう言って笑いながら、棚の上段に手を伸ばす。
少し背伸びをして取ろうとする姿に、思わず笑ってしまった。
「どうした?」
「いえ、先輩って、そういうところ……ちょっと可愛いなって思って」
「え? かわ……え? 今かわいいって言った?」
「……言ってません」
反射的に否定したけど、顔が熱くなっているのは自分でも分かった。
ごまかすように視線を逸らすと、先輩が口を尖らせて笑う。
「まあ、実際俺可愛いからな〜」
「……自分で言います?」
「言うよ。姉にもよく言われるし」
「お姉さん、仲いいんですか?」
「うん、まあね。よくLINEくるし。なんか、ずっと面倒見られてたな。姉貴は昔から俺の保護者みたいなもんだった」
「優しいお姉さんなんですね」
「どうかな。ちょっとお節介だけどな。でも、結婚してからも何かと連絡くるし、まあ……ありがたいよ」
話しているうちに、先輩の声が少しだけ柔らかくなる。
家族の話をするときのその表情が、少しだけ特別に見えた。
その優しい横顔を見て、私はこっそりスマホを取り出す。
反射ガラスに映る姿を、息を止めてそっと撮った。
シャッター音が鳴らないように――ほんの一瞬だけ。
“仕事モード”のときには見せない、穏やかな顔。
(あ、これ……ちょっとずるい)
保存ボタンを押す指が震えた。
“記念”なんて言い訳をしながらも、ただ残しておきたかった。
この空気も、笑い声も、全部。
「どうしたの、水越さん。急に止まって」
「あ、いえ。靴紐、ちょっと……」
「おっけー。転ばないようにね」
先輩は気づかないまま、数歩前を歩いていく。
その背中を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
“好き”という言葉を使わなくても、もう気持ちは顔に出てる気がした。
◇
無事にお土産を買って駅へ向かう。
新幹線のホームに吹く風は少し湿っていて、夏の夜の匂いがした。
「お疲れさま。助かったよ、ほんとに」
「いえ、こちらこそ勉強になりました」
「なんか、今日一日でめっちゃ距離近づいた気がするね」
そう言って笑う先輩の目尻に、夕焼けが映る。
ふと、その光景を“また撮りたい”と思ったけれど――
今度はちゃんと、目に焼き付けた。
これも、私だけが見た“先輩”だから。
◇
帰りの新幹線。
静かな車内に、低く響くアナウンス。
ふと隣を見ると、先輩のまぶたが少しずつ落ちていく。
次の瞬間、軽く肩が触れた。
(え、え……!?)
どうしよう。起こすべきなのに、言葉が出てこない。
頬にかかる彼の髪が、少しくすぐったい。
手を伸ばせば届く距離。
でも、不思議と――離れたくなかった。
窓の外、夏の陽がゆっくり沈んでいく。
その光の中で、私はそっと目を閉じた。
◇
ホームに着くころには、もう夜風が涼しかった。
駅の明かりがちらちらと反射する中、先輩が小さく欠伸をする。
「……寝てた?」
「うん、ちょっとだけ。なんか安心しちゃって」
その言葉に、胸が跳ねた。
“安心する”――それが、私の隣だったからだとしたら。
「今日はありがとう。水越さんがいてくれて助かった」
「いえ。私も、楽しかったです」
お互いに軽く会釈をして、改札を抜ける。
背中が人の波に溶けていく。
その姿が見えなくなるまで、私は立ち止まってしまった。
(……距離が近づいたのは、きっと、私だけじゃない)
そう思えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
出張という非日常の中で、少しだけ近づいた距離。
仕事のはずなのに、気づけば心のほうが忙しくて――
そんな「夏の一日」になりました。
次回は、出張をきっかけに変わっていく“いつもの日常”。
水越がふと見せる素直さに、野宮も少しだけ揺らぎます。
どうぞお楽しみに。
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