表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

第10話 出張先で、先輩の寝顔を見てしまった

 朝の駅。

 まだ陽は昇りきっていないのに、空気はすでにじっとりと湿っていた。

 出張なんて、社会人になって初めての経験だ。

 キャリーバッグのハンドルを強く握りしめながら、少し緊張する胸の鼓動を落ち着かせようとする。

 けれど、そんな不安も、待ち合わせ場所で見慣れた背中を見つけた瞬間に少し和らいだ。


「おはようございます、野宮先輩」


「おー、水越さん。おはよ。早いね」


 軽く振り返った先輩は、いつもより爽やかに見えた。

 スーツではなく、淡いグレーのシャツに黒のスラックス。

 ほんの少しラフな雰囲気が、妙に似合っている。


「ちゃんと来れるか心配だったけど、余裕だね」


「……社会人ですから」


 冗談めかして言うと、先輩が小さく笑った。

 その笑顔を見ただけで、今日一日がちょっと楽しみになる。



 指定席の新幹線。

 窓際と通路側、どっちに座るか――小さなことなのに、変に意識してしまう。


「どっち座る? 俺、どっちでもいいよ」


「じゃあ……窓側、いいですか?」


「了解。通路側のほうが足伸ばせるのにな」


「外、見るの好きなんです」


「へぇ。なんか水越さんっぽい」


「どういう意味ですか」


「いや、悪い意味じゃないよ。落ち着いてるというか……なんか、ゆったりしてるよね」


 からかわれたような気がして、少しだけ頬が熱くなる。

 隣の席、肩がほんの数センチしか離れていない距離。

 先輩の動くたびに、袖口から香る柔軟剤の匂いが近くなる。

 普段よりも近い。たったそれだけで、心臓が落ち着かない。

 車窓に流れる街並みがだんだん遠ざかっていくのを見ながら、自然と息が浅くなる。


「先輩って、出張慣れてるんですか?」


「うーん、まあ去年はちょこちょこあったけど、久々だな。だから正直、俺も緊張してる」


「先輩でも、ですか?」


「当たり前じゃん。人前で話すの苦手だし」


「……意外です」


「ほんと? めっちゃ緊張するよ。顔には出さないけど」


 そう言いながら、少し照れたように笑う。

 その横顔を見て、ふと気づいた。

 仕事中の“頼れる先輩”とは少し違う表情。

 こんな顔を、私しか知らないのかもしれない――

 そう思うと、胸が少し熱くなった。



 現地のオフィスは、思ったよりも慌ただしかった。

 資料を広げ、ノートPCを立ち上げたそのとき。


「……あれ? これ、開けないな」


 野宮先輩の声が、焦りを含んで響く。

 見れば、USBメモリを差した画面に「ファイル破損」の文字。


「嘘だろ……昨日、ちゃんと確認したのに」


「ちょっと見せてもらっていいですか?」


 自然と隣に座り、キーボードに手を伸ばす。

 慌てるよりも、まずできることを探すほうが落ち着く。

 コピーを別フォルダに移し、バックアップ用のデータを開く。

 数秒後、画面にグラフが表示された。


「開けました」


「……マジで? すごっ!」


 先輩の顔がぱっと明るくなる。

 その笑顔が近くにあるだけで、なんだか私のほうが照れてしまった。


「本当に助かった。焦って変な汗出てきたわ……」


「バックアップ取っておいてよかったですね」


「ほんとにね……水越さん、頼れるなぁ。いつも思うけど」


「そんなことないです。たまたまです」


「いや、たまたまじゃないでしょ。俺だったら、多分今もパソコン見つめてた」


 笑いながら言われたその言葉に、胸が少し跳ねた。

 いつも言ってもらえる“頼れる”が、今日はなぜかやけに胸に響いた。



 打ち合わせが終わったあと、まだ新幹線の時間まで少し余裕があった。

 近くの商業ビルに入り、お土産を買って帰ろうということになった。


「うわ、めっちゃ種類あるじゃん。何買えばいいんだろ」


 野宮先輩が棚の前で腕を組んで悩んでいる。

 地方限定のクッキーや、会社用の小包装スイーツがずらりと並んでいた。


「会社にはこれでいいんじゃないですか? 一個ずつ配れるし」


「たしかに。こういうとき、女子の意見助かるわ」


 そう言って笑いながら、棚の上段に手を伸ばす。

 少し背伸びをして取ろうとする姿に、思わず笑ってしまった。


「どうした?」


「いえ、先輩って、そういうところ……ちょっと可愛いなって思って」


「え? かわ……え? 今かわいいって言った?」


「……言ってません」


 反射的に否定したけど、顔が熱くなっているのは自分でも分かった。

 ごまかすように視線を逸らすと、先輩が口を尖らせて笑う。


「まあ、実際俺可愛いからな〜」


「……自分で言います?」


「言うよ。姉にもよく言われるし」


「お姉さん、仲いいんですか?」


「うん、まあね。よくLINEくるし。なんか、ずっと面倒見られてたな。姉貴は昔から俺の保護者みたいなもんだった」


「優しいお姉さんなんですね」


「どうかな。ちょっとお節介だけどな。でも、結婚してからも何かと連絡くるし、まあ……ありがたいよ」


 話しているうちに、先輩の声が少しだけ柔らかくなる。

 家族の話をするときのその表情が、少しだけ特別に見えた。

 その優しい横顔を見て、私はこっそりスマホを取り出す。

 反射ガラスに映る姿を、息を止めてそっと撮った。

 シャッター音が鳴らないように――ほんの一瞬だけ。

 “仕事モード”のときには見せない、穏やかな顔。


(あ、これ……ちょっとずるい)


 保存ボタンを押す指が震えた。

 “記念”なんて言い訳をしながらも、ただ残しておきたかった。

 この空気も、笑い声も、全部。


「どうしたの、水越さん。急に止まって」


「あ、いえ。靴紐、ちょっと……」


「おっけー。転ばないようにね」


 先輩は気づかないまま、数歩前を歩いていく。

 その背中を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

 “好き”という言葉を使わなくても、もう気持ちは顔に出てる気がした。



 無事にお土産を買って駅へ向かう。

 新幹線のホームに吹く風は少し湿っていて、夏の夜の匂いがした。


「お疲れさま。助かったよ、ほんとに」


「いえ、こちらこそ勉強になりました」


「なんか、今日一日でめっちゃ距離近づいた気がするね」


 そう言って笑う先輩の目尻に、夕焼けが映る。

 ふと、その光景を“また撮りたい”と思ったけれど――

 今度はちゃんと、目に焼き付けた。

 これも、私だけが見た“先輩”だから。



 帰りの新幹線。

 静かな車内に、低く響くアナウンス。

 ふと隣を見ると、先輩のまぶたが少しずつ落ちていく。

 次の瞬間、軽く肩が触れた。


(え、え……!?)


 どうしよう。起こすべきなのに、言葉が出てこない。

 頬にかかる彼の髪が、少しくすぐったい。

 手を伸ばせば届く距離。

 でも、不思議と――離れたくなかった。


 窓の外、夏の陽がゆっくり沈んでいく。

 その光の中で、私はそっと目を閉じた。



 ホームに着くころには、もう夜風が涼しかった。

 駅の明かりがちらちらと反射する中、先輩が小さく欠伸をする。


「……寝てた?」


「うん、ちょっとだけ。なんか安心しちゃって」


 その言葉に、胸が跳ねた。

 “安心する”――それが、私の隣だったからだとしたら。


「今日はありがとう。水越さんがいてくれて助かった」


「いえ。私も、楽しかったです」


 お互いに軽く会釈をして、改札を抜ける。

 背中が人の波に溶けていく。

 その姿が見えなくなるまで、私は立ち止まってしまった。


(……距離が近づいたのは、きっと、私だけじゃない)


 そう思えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。

出張という非日常の中で、少しだけ近づいた距離。

仕事のはずなのに、気づけば心のほうが忙しくて――

そんな「夏の一日」になりました。


次回は、出張をきっかけに変わっていく“いつもの日常”。

水越がふと見せる素直さに、野宮も少しだけ揺らぎます。

どうぞお楽しみに。

リアクション・ブクマ・コメントで応援してもらえると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ