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第1話 しょうがない先輩と、はじまりの春

初めまして。

社会人一年目の主人公と、ちょっとポンコツな上司との、ゆるくて少しあまい日常を描いていきます。

「完璧じゃないからこそ好きになるかも?」という雰囲気を楽しんでいただけたら嬉しいです。

社会人一年目の春。

私の上司は――金髪で小柄で、ちょっとポンコツ。

でも、なぜか憎めない人だった。


ペンはすぐ落とすし、説明はふわふわ。

「えっとね」「多分」「まあいっか」が口癖で、

どんな場面でもどこかゆるい。


なのに、誰も彼を嫌いになれない。

空気みたいに場を柔らかくして、

気づけば、周囲の緊張をふっと溶かしている。


そんな野宮先輩が、私の直属の上司だった。


入社初日、名刺交換のあとに言われた一言が忘れられない。


「今日から一緒に頑張ろうね! あ、俺もまだよく分かってないけど!」


(えっ……大丈夫なの、この人)


不安しかなかったけれど、

その無邪気な笑顔を見た瞬間、

なぜか――少しだけ救われた気がした。



世の女性は、どんな人に恋をするのだろう。


黒髪で爽やかで、誰にでも穏やか。

後輩のミスも「仕方ないなー」で流してくれる、

そんな“完璧な年上男性”に、誰もが憧れるのかもしれない。


あるいは、高身長でちょっと無愛想。

煙草を吸う姿がやけに様になって、

でも気づけば優しいところを見せる――

そんなギャップのある男性が人気なのだろう。


その点、うちの上司はというと。


金髪。低身長。おまけにどこか挙動不審。

お局社員に話しかけられるたびに、びくっと肩を揺らす。

仕事の説明は曖昧で、確認を取っても「多分ね」で終わる。


……正直、頼りない。


だけど、なぜかその頼りなさに、

少しだけ安心している自分がいた。


完璧でも、冷静でもない。

むしろ真逆なのに――

どうしようもなく目で追ってしまう。



「……というわけで、こんな感じにやってもらいたいんだけど。ごめんね、これお願いできるかな?」


申し訳なさそうに頭を掻きながら、

それでもどこか人懐っこい声音でそう言う。


「分かりました。何時までですか?」


「あー……んー……じゃあ、十五時かな」


「はい。大丈夫だと思います」


「……さっきの説明で分かった?」


「……いや、ちょっと……でも、大丈夫だと思います」


「だよね。多分、水越さんなら大丈夫だと思うよ。とりあえずやってみて、分からなくなったら遠慮なく聞いてね」


「ありがとうございます。じゃあ、作業しちゃいますね」


「あ、ちょっと待って」


「?」


「十五時までに合わなそうなら、早めに言ってくれたら大丈夫だからね。多分、俺がやってもどうせ間に合わないかもだし」


(いや、それ上司のセリフじゃないよね)


「……とりあえず頑張りますね」


「あ、あとチョコあげるね。頑張って!」


「ありがとうございます」


――ほんと、自由な人だ。


仕事の指示にしては適当すぎて、

「大丈夫かな」と思わずにいられない。

でも、どうしてか嫌な感じはしない。


(ほんと、困った人だな……)


そう思いながら、ふと目の前の書類に目を落とす。

タイピングの音がオフィスに響く中、

先輩の声が遠くから聞こえた。


「うわ、ペン落とした!」


(また……)


振り返ると、床にしゃがみこんでいる先輩と目が合う。

彼は恥ずかしそうに笑いながらペンを拾い、

そのまま何事もなかったように席へ戻っていった。


その背中を見つめながら、私は小さく息をついた。


――ああ、やっぱり不思議な人だ。


頼りなくて、抜けてて、何もかも中途半端なのに。

なぜか、少しだけ空気が優しくなる。


社会人になってから、初めて知った。

“完璧じゃない人”が、こんなにも温かいってこと。



その日一日、私はずっと少しだけ笑っていた。


理由は聞かないでほしい。

多分、本人も気づいていないから。


でも――ほんの少しだけ、

この春が、好きになりそうだった。


パソコンに向かって作業を始めながらも、

どうしても、さっきのやり取りを思い出してしまう。


(……いや、あれ普通にポンコツじゃない?)


説明はふわふわしてるし、期限の根拠もよく分からない。

「俺がやってもどうせ間に合わないかも」なんて、

上司が口に出していいセリフじゃないと思う。


でも、不思議と嫌じゃない。

むしろ――少し笑えて、気が楽になる。


(ほんと、困った人だな……)


右も左も分からない社会人一年目。

メールの送り方ひとつで悩んで、

上司に話しかけるタイミングさえ分からない。


そんな息の詰まりそうな毎日の中で、

彼の“抜けた優しさ”は、まるで空気穴みたいだった。


完璧じゃなくていい。

少しぐらい、頼りなくてもいい。

そう思わせてくれる人が、職場にいるというだけで、

なんだか救われてしまう。



十五時の納期に向けて黙々と作業を進めていると、

キーボードを叩く音だけがオフィスに響いていた。


画面の文字が少し滲んで見える。

肩が重くなってきて、気づけば息を詰めている。


(あと一時間……集中しなきゃ)


そう思っていたとき。


「カタン」


小さな音がして、顔を上げた。

デスクの端に、紙コップが置かれている。


「え……?」


見回しても、野宮先輩の姿はもうない。

たぶん、忍者みたいに置いて去ったのだろう。


(……タイミング!)


思わず苦笑しながら紙コップを手に取る。

ふわっと甘い香り。

ミルクも砂糖も、私の好み通り。


(……覚えててくれたんだ)


文句を言いたいのに、

口の端が勝手にゆるむ。


ほんと、抜けてるくせに――ずるい人。


温かいコーヒーを口に含むと、

体の奥の緊張がほどけていくのが分かった。

冷たい空気の中で、胸の奥だけがほんのり温かい。


(……こういうの、反則だよ)


誰かに優しくされるだけで、

こんなに救われるなんて知らなかった。



そのあと、少ししてまた音がした。


「カラン」


振り返ると、野宮先輩がしゃがみこんでペンを拾っていた。


「三回目です」


「うそ、そんなに? 俺、もう床と仲良しだね」


「先輩、ペンにリードつけたほうがいいですよ」


「それ天才かもしれん」


(……いや、そこは冗談じゃなくて、ほんとに検討してほしい)


でも、そんなくだらない会話が

どうしようもなく心地よかった。


真面目にやろうとすればするほど、

空回りしてばかりの社会人生活。

だけど、こうして笑える時間が、

少しずつ日常に増えていくのを感じる。


(やっぱり、変な人だ)


そう思いながらも、

画面に向かう手は少しだけ軽くなっていた。



十五時。

予定より少し早く作業が終わり、

報告をしようと立ち上がった瞬間――


「おっ、終わった? すごい!」


背後から声がして、振り返ると、

野宮先輩が両手で小さくガッツポーズしていた。


「いや、そんな大げさな」


「いやいや、ほんと助かった! ありがとう!」


「そんな、私こそ勉強になりました」


「えらいねぇ。あ、今日ちゃんと休憩とった?」


「一応……取ったつもりです」


「そっか。じゃあご褒美のチョコ追加!」


「……またですか」


笑って受け取る。

包装紙が少しくしゃくしゃになっている。

たぶんポケットにずっと入ってたんだろう。


なんだか、それが妙に嬉しかった。



ほんの少しだけど、心が柔らかくなっていた。

頑張ろう、と思えた。

たったそれだけのことで、

人って救われるんだなと思った。


(……やっぱり不思議な人だ)


頼りないのに、いつもどこか優しい。

その曖昧な距離感の中で、

息苦しかった日々が少しずつ色を取り戻していく。


春の光が窓の外に反射して、

画面の端がぼんやりと滲んだ。


私は静かに息をついた。


――今日もまた、この人に救われてしまった。


午後の作業は、思っていた以上に手こずった。

指示書と実際のデータが微妙に食い違っていて、

何度も手を止めては、眉を寄せてしまう。


(これ……どっちが正しいんだろ)


モニターを見つめながらため息をついていると、

背後から声がした。


「ん、どうしたの?」


振り向くと、野宮先輩が覗きこんでいた。

書類を片手に、相変わらず軽い笑顔。


「このデータなんですけど、

 仕様書と実際の数字が合ってなくて……」


「あー……あるある。確認してみるね」


先輩は少しのあいだ黙り込み、真剣な目で画面を見つめた。

その横顔を見て、少しだけ驚く。


いつもはふわふわしているのに、

仕事の話になると目つきが変わる。

ほんの一瞬、空気が引き締まるのが分かった。


(……この人、ちゃんと“先輩”なんだ)


「これ、多分ここが古いデータなんだよ。

 修正が反映されてないやつだね」


「え、気づかなかった……」


「俺も昔、これで怒られたから。

 どこ直すか一緒に見ようか」


隣に立った彼の指先が、モニターの光に照らされて白く光る。

ゆるい笑顔の裏に、確かな経験が滲んでいた。


(あ、こういうとこ……ずるい)


少しだけ、胸の奥がきゅっとした。



「ここまで直せば完璧。ありがと、水越さん」


「いえ……こちらこそありがとうございます」


「ん? なんでお礼言ってるの」


「……え?」


「“わからない”ってちゃんと聞いてくれたから助かったよ。

 新人って、分かんないまま抱え込むこと多いからさ」


その声が、やけに優しかった。


「俺、前の後輩にそれできなくてね。

 “もっと早く言ってくれたら助けられたのに”って言われたことあるんだ」


ほんの少し、彼の笑顔が陰った。


「だから今は、誰かが困ってるときにすぐ気づける人になりたくてさ」


その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥でなにかが静かにほどけた。


(……この人、ちゃんと悩んできたんだ)


いつも冗談ばかりで、どこか抜けてて、

でもそれは“優しさのための鈍さ”なのかもしれない。


真面目さを隠すための、ゆるい笑顔。

傷を見せないための、軽い言葉。


気づいたら、彼のことをもっと知りたくなっていた。



「よし。今日の分は完了っと」


時計を見ると、針はすでに十八時を回っていた。

デスクの上には、片づけた資料と残業の気配。


「先輩、もう帰らないと終電なくなりますよ」


「うん……あとちょっとだけ、今日の分まとめちゃいたくて」


「じゃあ私も残ります」


「えっ、いいよ! 残業つけとくから!」


「いいです。……なんか、こうしてる方が落ち着くので」


「そっか。じゃあ一緒に頑張ろっか」


軽い笑顔が、夕焼けに照らされて滲む。

外の空がオレンジから群青へと変わっていく。


――こういう時間が、少し好きだった。


何か特別なことをしてるわけじゃないのに、

“誰かと一緒に頑張ってる”というだけで、

世界がほんの少し優しくなる気がした。


(……私、単純だな)


思わず笑いながら、キーボードを叩く。

打鍵音のリズムが、不思議と合っていた。



「水越さん、はいこれ」


「……またチョコですか」


「うん、今日のはビターチョコ。仕事できる女の味!」


「それ、誰情報ですか」


「俺情報」


「信頼度ゼロですね」


ふたりで笑い合ったその瞬間、

パソコンのモニターがスリープになった。


静かなオフィスに、

エアコンの低い音と、チョコの包みを開ける音だけが響く。


彼が笑った。

柔らかくて、あたたかい笑い方だった。


(――ああ、だめだ)


この人を見てると、息がしやすくなる。

けど同時に、胸が痛くなる。


それが何なのか、まだ分からない。

でも、確かに心が動いた。


(多分、私はもう――)


そこまで考えて、慌てて思考を止めた。

“好きになる”なんて、そんな早い話じゃない。

まだ数日しか経ってない。


でも。


野宮先輩の「おつかれ」の声を聞くだけで、

少しだけ一日が報われた気がした。



帰り道、夜風が冷たかった。

コンビニの袋の中で、もらったチョコがカサカサと音を立てる。


信号が赤に変わるたび、

スマホの画面をなんとなく確認してしまう自分がいた。


……届くわけないのに。


それでも、もし「今日はありがと」なんてメッセージが来たら、

きっと嬉しくて、眠れなくなるだろう。


(ほんと、どうかしてるな)


そう思いながら、夜の街を歩く。


――明日も、きっと彼はペンを落とす。

――そして、私はまた拾うのだろう。


その小さな“繰り返し”が、

なぜか少しだけ楽しみに思えた。


退勤時間を過ぎて、オフィスの灯りが一つ、また一つと落ちていく。

蛍光灯の白い光が消えて、デスクの間を夕闇が静かに満たしていく。


パソコンのモニターだけが、ぼんやりと青く光っていた。


「……これで今日の分は終わり、かな」


先輩が小さく伸びをする。

シャツの袖をまくった腕に、蛍光灯の残り光が薄く反射した。


「お疲れさまでした」


「おつかれ、水越さん。助かったよ」


いつもの柔らかい笑顔。

だけど、どこか少しだけ疲れが滲んでいる。


「これ、持って帰って。新作のチョコ」


「え……またですか」


「うん。今日のは塩キャラメル味。頑張った人のご褒美!」


「……そんなご褒美、毎日もらってますけど」


「じゃあ、“明日も頑張れ”の予告編ってことで」


(そんな言葉、ずるいな)


思わず心の中でつぶやいて、チョコを受け取る。

包み紙の金色が、デスクライトに反射して眩しい。


――この人はいつも、何かを渡してくれる。


チョコやコーヒーだけじゃなくて。

気づかないうちに、ちょっとした勇気とか、安心とか。

そういう“目に見えないもの”を、いつもくれる。


「……先輩って、優しいですよね」


ふと、口をついて出た。

本人の前で言うつもりなんてなかったのに。


「え、俺? 優しいかなあ」


「はい。すごく」


「そう見せるのが上手いだけかもよ」


「……そういうところが、優しいんですよ」


少しだけ、沈黙。

オフィスの時計の針が、規則正しく時を刻む。


「ありがと」


短い言葉なのに、不思議とあたたかかった。



会社を出ると、外はすっかり夜になっていた。

春の風が肌に触れて、少しだけ冷たい。


「寒いね」


「はい。でも、いい夜です」


「うん、分かる。今日みたいな日って、なんか静かで落ち着く」


ビル街の灯りが遠くで瞬いている。

交差点の信号が青に変わるたび、

少しだけ心が前に進むような気がした。


「水越さん、電車こっちだっけ?」


「はい。先輩は?」


「反対。でも駅までは一緒だし、送るよ」


「いえ、大丈夫です! 近いので」


「そう? じゃあ改札まで競争だね」


「え、競争……!?」


「俺が勝ったら、明日もチョコあげる」


「負けても貰うんですけど」


二人で笑った。

夜の街に、その笑い声が小さく溶けていく。


信号が変わって、二人で走り出す。

コートの裾が風に揺れて、春の匂いが頬を撫でた。


たぶん、誰が見てもただの上司と部下。

でもその瞬間だけは、世界が少しだけ柔らかく見えた。



改札前で足を止める。

息が上がって、笑いながら肩で呼吸をした。


「はぁ……先輩、意外と速いんですね」


「21歳、まだ若いんで!」


「それ、ちょっと自慢になってないですよ」


「いやいや、あと数年もしたらすぐ追いつかれるからね」


また笑い合って、

しばらく言葉を交わせずに立ち尽くした。


「……じゃあ、また明日」


「はい。お疲れさまでした」


改札を抜けて振り返ると、

野宮先輩は手を振って、

そのまま反対方向の階段を下りていった。


小さな背中が、人混みに消えていく。


それを見送りながら、

私は自分の胸に手を当てた。


(ほんとに、しょうがない先輩だな)


でも、その“しょうがない”の奥に、

確かに小さな光が灯っていた。


名前もつけられない感情。

まだ恋と呼ぶには、少し早い。

でも――間違いなく、何かが始まっている。



家に帰って、部屋の灯りをつける。

バッグの中からチョコを取り出して、机に置いた。


スマホの画面には、未読の通知が一件。


《今日はありがと! また明日ね》


たったそれだけのメッセージなのに、

心臓が一瞬で熱くなる。


(ほんと、ずるいな)


笑いながら包み紙を開ける。

指先に残ったキャラメルの香りが、

ほんの少し甘くて、切ない。


「……やっぱり、ちょっと好きかも」


声に出して言ってみる。

部屋の中で、誰も聞いていないのに。


窓の外では、春の夜風が街路樹を揺らしていた。

どこかで猫の鳴く声がして、

その静けさが、心地よかった。


(この“ちょっと”が、いつか“ちゃんと”になるのかな)


そんなことを思いながら、

チョコを一粒、口に放り込んだ。


甘くて、少ししょっぱい。

不思議と、今日の一日みたいな味がした。


――そして私は気づいた。

この春の終わりには、きっと彼のことを好きになっている。


それが少しだけ、怖くて。

でも、それ以上に楽しみだった。



ここまで読んでいただきありがとうございました!

「しょうがないなあ」と思いながらも、なぜか放っておけない上司――そんな人が近くにいたら、ちょっと恋に落ちちゃうかもしれません。

次回は、さらに先輩とのやり取りを掘り下げていきますので、ぜひまた読みに来てください。

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