第1話 しょうがない先輩と、はじまりの春
初めまして。
社会人一年目の主人公と、ちょっとポンコツな上司との、ゆるくて少しあまい日常を描いていきます。
「完璧じゃないからこそ好きになるかも?」という雰囲気を楽しんでいただけたら嬉しいです。
社会人一年目の春。
私の上司は――金髪で小柄で、ちょっとポンコツ。
でも、なぜか憎めない人だった。
ペンはすぐ落とすし、説明はふわふわ。
「えっとね」「多分」「まあいっか」が口癖で、
どんな場面でもどこかゆるい。
なのに、誰も彼を嫌いになれない。
空気みたいに場を柔らかくして、
気づけば、周囲の緊張をふっと溶かしている。
そんな野宮先輩が、私の直属の上司だった。
入社初日、名刺交換のあとに言われた一言が忘れられない。
「今日から一緒に頑張ろうね! あ、俺もまだよく分かってないけど!」
(えっ……大丈夫なの、この人)
不安しかなかったけれど、
その無邪気な笑顔を見た瞬間、
なぜか――少しだけ救われた気がした。
◇
世の女性は、どんな人に恋をするのだろう。
黒髪で爽やかで、誰にでも穏やか。
後輩のミスも「仕方ないなー」で流してくれる、
そんな“完璧な年上男性”に、誰もが憧れるのかもしれない。
あるいは、高身長でちょっと無愛想。
煙草を吸う姿がやけに様になって、
でも気づけば優しいところを見せる――
そんなギャップのある男性が人気なのだろう。
その点、うちの上司はというと。
金髪。低身長。おまけにどこか挙動不審。
お局社員に話しかけられるたびに、びくっと肩を揺らす。
仕事の説明は曖昧で、確認を取っても「多分ね」で終わる。
……正直、頼りない。
だけど、なぜかその頼りなさに、
少しだけ安心している自分がいた。
完璧でも、冷静でもない。
むしろ真逆なのに――
どうしようもなく目で追ってしまう。
◇
「……というわけで、こんな感じにやってもらいたいんだけど。ごめんね、これお願いできるかな?」
申し訳なさそうに頭を掻きながら、
それでもどこか人懐っこい声音でそう言う。
「分かりました。何時までですか?」
「あー……んー……じゃあ、十五時かな」
「はい。大丈夫だと思います」
「……さっきの説明で分かった?」
「……いや、ちょっと……でも、大丈夫だと思います」
「だよね。多分、水越さんなら大丈夫だと思うよ。とりあえずやってみて、分からなくなったら遠慮なく聞いてね」
「ありがとうございます。じゃあ、作業しちゃいますね」
「あ、ちょっと待って」
「?」
「十五時までに合わなそうなら、早めに言ってくれたら大丈夫だからね。多分、俺がやってもどうせ間に合わないかもだし」
(いや、それ上司のセリフじゃないよね)
「……とりあえず頑張りますね」
「あ、あとチョコあげるね。頑張って!」
「ありがとうございます」
――ほんと、自由な人だ。
仕事の指示にしては適当すぎて、
「大丈夫かな」と思わずにいられない。
でも、どうしてか嫌な感じはしない。
(ほんと、困った人だな……)
そう思いながら、ふと目の前の書類に目を落とす。
タイピングの音がオフィスに響く中、
先輩の声が遠くから聞こえた。
「うわ、ペン落とした!」
(また……)
振り返ると、床にしゃがみこんでいる先輩と目が合う。
彼は恥ずかしそうに笑いながらペンを拾い、
そのまま何事もなかったように席へ戻っていった。
その背中を見つめながら、私は小さく息をついた。
――ああ、やっぱり不思議な人だ。
頼りなくて、抜けてて、何もかも中途半端なのに。
なぜか、少しだけ空気が優しくなる。
社会人になってから、初めて知った。
“完璧じゃない人”が、こんなにも温かいってこと。
◇
その日一日、私はずっと少しだけ笑っていた。
理由は聞かないでほしい。
多分、本人も気づいていないから。
でも――ほんの少しだけ、
この春が、好きになりそうだった。
パソコンに向かって作業を始めながらも、
どうしても、さっきのやり取りを思い出してしまう。
(……いや、あれ普通にポンコツじゃない?)
説明はふわふわしてるし、期限の根拠もよく分からない。
「俺がやってもどうせ間に合わないかも」なんて、
上司が口に出していいセリフじゃないと思う。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ――少し笑えて、気が楽になる。
(ほんと、困った人だな……)
右も左も分からない社会人一年目。
メールの送り方ひとつで悩んで、
上司に話しかけるタイミングさえ分からない。
そんな息の詰まりそうな毎日の中で、
彼の“抜けた優しさ”は、まるで空気穴みたいだった。
完璧じゃなくていい。
少しぐらい、頼りなくてもいい。
そう思わせてくれる人が、職場にいるというだけで、
なんだか救われてしまう。
◇
十五時の納期に向けて黙々と作業を進めていると、
キーボードを叩く音だけがオフィスに響いていた。
画面の文字が少し滲んで見える。
肩が重くなってきて、気づけば息を詰めている。
(あと一時間……集中しなきゃ)
そう思っていたとき。
「カタン」
小さな音がして、顔を上げた。
デスクの端に、紙コップが置かれている。
「え……?」
見回しても、野宮先輩の姿はもうない。
たぶん、忍者みたいに置いて去ったのだろう。
(……タイミング!)
思わず苦笑しながら紙コップを手に取る。
ふわっと甘い香り。
ミルクも砂糖も、私の好み通り。
(……覚えててくれたんだ)
文句を言いたいのに、
口の端が勝手にゆるむ。
ほんと、抜けてるくせに――ずるい人。
温かいコーヒーを口に含むと、
体の奥の緊張がほどけていくのが分かった。
冷たい空気の中で、胸の奥だけがほんのり温かい。
(……こういうの、反則だよ)
誰かに優しくされるだけで、
こんなに救われるなんて知らなかった。
◇
そのあと、少ししてまた音がした。
「カラン」
振り返ると、野宮先輩がしゃがみこんでペンを拾っていた。
「三回目です」
「うそ、そんなに? 俺、もう床と仲良しだね」
「先輩、ペンにリードつけたほうがいいですよ」
「それ天才かもしれん」
(……いや、そこは冗談じゃなくて、ほんとに検討してほしい)
でも、そんなくだらない会話が
どうしようもなく心地よかった。
真面目にやろうとすればするほど、
空回りしてばかりの社会人生活。
だけど、こうして笑える時間が、
少しずつ日常に増えていくのを感じる。
(やっぱり、変な人だ)
そう思いながらも、
画面に向かう手は少しだけ軽くなっていた。
◇
十五時。
予定より少し早く作業が終わり、
報告をしようと立ち上がった瞬間――
「おっ、終わった? すごい!」
背後から声がして、振り返ると、
野宮先輩が両手で小さくガッツポーズしていた。
「いや、そんな大げさな」
「いやいや、ほんと助かった! ありがとう!」
「そんな、私こそ勉強になりました」
「えらいねぇ。あ、今日ちゃんと休憩とった?」
「一応……取ったつもりです」
「そっか。じゃあご褒美のチョコ追加!」
「……またですか」
笑って受け取る。
包装紙が少しくしゃくしゃになっている。
たぶんポケットにずっと入ってたんだろう。
なんだか、それが妙に嬉しかった。
◇
ほんの少しだけど、心が柔らかくなっていた。
頑張ろう、と思えた。
たったそれだけのことで、
人って救われるんだなと思った。
(……やっぱり不思議な人だ)
頼りないのに、いつもどこか優しい。
その曖昧な距離感の中で、
息苦しかった日々が少しずつ色を取り戻していく。
春の光が窓の外に反射して、
画面の端がぼんやりと滲んだ。
私は静かに息をついた。
――今日もまた、この人に救われてしまった。
午後の作業は、思っていた以上に手こずった。
指示書と実際のデータが微妙に食い違っていて、
何度も手を止めては、眉を寄せてしまう。
(これ……どっちが正しいんだろ)
モニターを見つめながらため息をついていると、
背後から声がした。
「ん、どうしたの?」
振り向くと、野宮先輩が覗きこんでいた。
書類を片手に、相変わらず軽い笑顔。
「このデータなんですけど、
仕様書と実際の数字が合ってなくて……」
「あー……あるある。確認してみるね」
先輩は少しのあいだ黙り込み、真剣な目で画面を見つめた。
その横顔を見て、少しだけ驚く。
いつもはふわふわしているのに、
仕事の話になると目つきが変わる。
ほんの一瞬、空気が引き締まるのが分かった。
(……この人、ちゃんと“先輩”なんだ)
「これ、多分ここが古いデータなんだよ。
修正が反映されてないやつだね」
「え、気づかなかった……」
「俺も昔、これで怒られたから。
どこ直すか一緒に見ようか」
隣に立った彼の指先が、モニターの光に照らされて白く光る。
ゆるい笑顔の裏に、確かな経験が滲んでいた。
(あ、こういうとこ……ずるい)
少しだけ、胸の奥がきゅっとした。
◇
「ここまで直せば完璧。ありがと、水越さん」
「いえ……こちらこそありがとうございます」
「ん? なんでお礼言ってるの」
「……え?」
「“わからない”ってちゃんと聞いてくれたから助かったよ。
新人って、分かんないまま抱え込むこと多いからさ」
その声が、やけに優しかった。
「俺、前の後輩にそれできなくてね。
“もっと早く言ってくれたら助けられたのに”って言われたことあるんだ」
ほんの少し、彼の笑顔が陰った。
「だから今は、誰かが困ってるときにすぐ気づける人になりたくてさ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥でなにかが静かにほどけた。
(……この人、ちゃんと悩んできたんだ)
いつも冗談ばかりで、どこか抜けてて、
でもそれは“優しさのための鈍さ”なのかもしれない。
真面目さを隠すための、ゆるい笑顔。
傷を見せないための、軽い言葉。
気づいたら、彼のことをもっと知りたくなっていた。
◇
「よし。今日の分は完了っと」
時計を見ると、針はすでに十八時を回っていた。
デスクの上には、片づけた資料と残業の気配。
「先輩、もう帰らないと終電なくなりますよ」
「うん……あとちょっとだけ、今日の分まとめちゃいたくて」
「じゃあ私も残ります」
「えっ、いいよ! 残業つけとくから!」
「いいです。……なんか、こうしてる方が落ち着くので」
「そっか。じゃあ一緒に頑張ろっか」
軽い笑顔が、夕焼けに照らされて滲む。
外の空がオレンジから群青へと変わっていく。
――こういう時間が、少し好きだった。
何か特別なことをしてるわけじゃないのに、
“誰かと一緒に頑張ってる”というだけで、
世界がほんの少し優しくなる気がした。
(……私、単純だな)
思わず笑いながら、キーボードを叩く。
打鍵音のリズムが、不思議と合っていた。
◇
「水越さん、はいこれ」
「……またチョコですか」
「うん、今日のはビターチョコ。仕事できる女の味!」
「それ、誰情報ですか」
「俺情報」
「信頼度ゼロですね」
ふたりで笑い合ったその瞬間、
パソコンのモニターがスリープになった。
静かなオフィスに、
エアコンの低い音と、チョコの包みを開ける音だけが響く。
彼が笑った。
柔らかくて、あたたかい笑い方だった。
(――ああ、だめだ)
この人を見てると、息がしやすくなる。
けど同時に、胸が痛くなる。
それが何なのか、まだ分からない。
でも、確かに心が動いた。
(多分、私はもう――)
そこまで考えて、慌てて思考を止めた。
“好きになる”なんて、そんな早い話じゃない。
まだ数日しか経ってない。
でも。
野宮先輩の「おつかれ」の声を聞くだけで、
少しだけ一日が報われた気がした。
◇
帰り道、夜風が冷たかった。
コンビニの袋の中で、もらったチョコがカサカサと音を立てる。
信号が赤に変わるたび、
スマホの画面をなんとなく確認してしまう自分がいた。
……届くわけないのに。
それでも、もし「今日はありがと」なんてメッセージが来たら、
きっと嬉しくて、眠れなくなるだろう。
(ほんと、どうかしてるな)
そう思いながら、夜の街を歩く。
――明日も、きっと彼はペンを落とす。
――そして、私はまた拾うのだろう。
その小さな“繰り返し”が、
なぜか少しだけ楽しみに思えた。
退勤時間を過ぎて、オフィスの灯りが一つ、また一つと落ちていく。
蛍光灯の白い光が消えて、デスクの間を夕闇が静かに満たしていく。
パソコンのモニターだけが、ぼんやりと青く光っていた。
「……これで今日の分は終わり、かな」
先輩が小さく伸びをする。
シャツの袖をまくった腕に、蛍光灯の残り光が薄く反射した。
「お疲れさまでした」
「おつかれ、水越さん。助かったよ」
いつもの柔らかい笑顔。
だけど、どこか少しだけ疲れが滲んでいる。
「これ、持って帰って。新作のチョコ」
「え……またですか」
「うん。今日のは塩キャラメル味。頑張った人のご褒美!」
「……そんなご褒美、毎日もらってますけど」
「じゃあ、“明日も頑張れ”の予告編ってことで」
(そんな言葉、ずるいな)
思わず心の中でつぶやいて、チョコを受け取る。
包み紙の金色が、デスクライトに反射して眩しい。
――この人はいつも、何かを渡してくれる。
チョコやコーヒーだけじゃなくて。
気づかないうちに、ちょっとした勇気とか、安心とか。
そういう“目に見えないもの”を、いつもくれる。
「……先輩って、優しいですよね」
ふと、口をついて出た。
本人の前で言うつもりなんてなかったのに。
「え、俺? 優しいかなあ」
「はい。すごく」
「そう見せるのが上手いだけかもよ」
「……そういうところが、優しいんですよ」
少しだけ、沈黙。
オフィスの時計の針が、規則正しく時を刻む。
「ありがと」
短い言葉なのに、不思議とあたたかかった。
◇
会社を出ると、外はすっかり夜になっていた。
春の風が肌に触れて、少しだけ冷たい。
「寒いね」
「はい。でも、いい夜です」
「うん、分かる。今日みたいな日って、なんか静かで落ち着く」
ビル街の灯りが遠くで瞬いている。
交差点の信号が青に変わるたび、
少しだけ心が前に進むような気がした。
「水越さん、電車こっちだっけ?」
「はい。先輩は?」
「反対。でも駅までは一緒だし、送るよ」
「いえ、大丈夫です! 近いので」
「そう? じゃあ改札まで競争だね」
「え、競争……!?」
「俺が勝ったら、明日もチョコあげる」
「負けても貰うんですけど」
二人で笑った。
夜の街に、その笑い声が小さく溶けていく。
信号が変わって、二人で走り出す。
コートの裾が風に揺れて、春の匂いが頬を撫でた。
たぶん、誰が見てもただの上司と部下。
でもその瞬間だけは、世界が少しだけ柔らかく見えた。
◇
改札前で足を止める。
息が上がって、笑いながら肩で呼吸をした。
「はぁ……先輩、意外と速いんですね」
「21歳、まだ若いんで!」
「それ、ちょっと自慢になってないですよ」
「いやいや、あと数年もしたらすぐ追いつかれるからね」
また笑い合って、
しばらく言葉を交わせずに立ち尽くした。
「……じゃあ、また明日」
「はい。お疲れさまでした」
改札を抜けて振り返ると、
野宮先輩は手を振って、
そのまま反対方向の階段を下りていった。
小さな背中が、人混みに消えていく。
それを見送りながら、
私は自分の胸に手を当てた。
(ほんとに、しょうがない先輩だな)
でも、その“しょうがない”の奥に、
確かに小さな光が灯っていた。
名前もつけられない感情。
まだ恋と呼ぶには、少し早い。
でも――間違いなく、何かが始まっている。
◇
家に帰って、部屋の灯りをつける。
バッグの中からチョコを取り出して、机に置いた。
スマホの画面には、未読の通知が一件。
《今日はありがと! また明日ね》
たったそれだけのメッセージなのに、
心臓が一瞬で熱くなる。
(ほんと、ずるいな)
笑いながら包み紙を開ける。
指先に残ったキャラメルの香りが、
ほんの少し甘くて、切ない。
「……やっぱり、ちょっと好きかも」
声に出して言ってみる。
部屋の中で、誰も聞いていないのに。
窓の外では、春の夜風が街路樹を揺らしていた。
どこかで猫の鳴く声がして、
その静けさが、心地よかった。
(この“ちょっと”が、いつか“ちゃんと”になるのかな)
そんなことを思いながら、
チョコを一粒、口に放り込んだ。
甘くて、少ししょっぱい。
不思議と、今日の一日みたいな味がした。
――そして私は気づいた。
この春の終わりには、きっと彼のことを好きになっている。
それが少しだけ、怖くて。
でも、それ以上に楽しみだった。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
「しょうがないなあ」と思いながらも、なぜか放っておけない上司――そんな人が近くにいたら、ちょっと恋に落ちちゃうかもしれません。
次回は、さらに先輩とのやり取りを掘り下げていきますので、ぜひまた読みに来てください。