爪と桜貝
潮騒の音に心が弾んで、僕は波打ち際に駆け寄った。浜辺に寄せては返す波が、足元でほんのわずかに泡立っている。まるで海の香りがそこから生まれてくるように、匂いが強くなった。
僕の歩いたあとには、点々と足跡が残っている。波がその上をなでて、だんだんと足跡が消えていくのをながめていた。
浜辺にはいくつかの漂流物がある。流木、シーグラス、貝殻、海藻……そういったものを集める人もいるそうだ。
浜辺を歩く僕の目を引いたのは、小さな桜色の貝だった。小指の爪ほどの大きさで、光の加減によって、さまざまな色が混ざって見える。
「なに?」
「桜貝」
後から追いついた妻は、潮風に乱れた髪をそっとおさえた。僕は桜貝を手に取って見せた。桜貝は薄くて繊細な貝だ。雑に扱うと、すぐに壊れてしまう。こんなに割れやすい貝が海の中でどうやって過ごしているのか、想像もつかない。
ビードロの底を触るように、妻はこわごわと桜貝をつついた。彼女の爪と貝が似ているのに気付く。
「また来ようね」
僕は桜貝を手のひらに乗せたまま、家に帰ることにした。ポケットやカバンに入れてしまえば、壊れてしまうような気がした。
電車に乗って家についてから、よく洗って、小さな瓶の中に入れた。
妻の爪に似ているからということは、言っていない。
【おわり】