(9)
どうだ、暇つぶしに勉強よりも最適な道具を見つけてやったぜ。マシューおじさんはそう言わんばかりの顔で、ひとり満足げに胸を張っている。そしてもう仕事は終わったとばかりにまた野菜をぽりぽりとかじりはじめた。ここまで全速力で走ってきているはずなのに、その野菜はどこから取り出したのだろう。
「テッド、ピアノは好きかしら?」
「あんまり好きじゃない」
「あらそうなの」
「アンちゃんは好きなの?」
「得意ではないけれど、嫌いではないわね」
そんなことを言いながらも、アンナは部屋のカーテンと窓を開けるとさっそくピアノに触れてみた。この世界で初めて掃除以外で触れたピアノ。久しぶりの感触に思わず笑みがこぼれる。ついつい猫ふんじゃったを弾いてみれば、調律されていないせいで踏まれた猫がピアノの中を暴れまわっていた。
「ちょっとアンちゃん、何をしているの。なんか変な音がしていて気持ちが悪い」
「これは調律が必要ね。ジムにお願いして、ひとを呼んでもらいましょう。それにしてもテッドは、音がずれていることがわかるのね」
「だって、この辺りの音、変だもん。アンちゃんは気にならないの?」
「困ったことにというべきなのか、ありがたいことにというべきなのか。全然気にならないの。でもテッドは耳がいいのだから、ピアノもやってみたらよいのに」
前世も音感がなかったが、今世でもやはり音感は育たなかったらしい。まあ、先ほど勉強の素晴らしさを語ったばかりだから、今さらなんて言わずに練習を始めてみようか。せっかくピアノがあるのだからと誘ってみたが、テッドはピアノに興味がないようだ。マシューおじさんを拾い上げ、窓辺から外をぼんやりと眺めている。
「そういえば、『マーモット』という曲があったわね」
「『マーモット』? 僕、そんなへんてこな曲聞いたことないよ? 誰が作ったの?」
「あら、ごめんない。勘違いだったかもしれないわ。有名な作曲家のものだと思い込んでいただけだったのかも」
うっかり前世の記憶を口にしてしまったことに気が付き、アンナは慌てて訂正した。あまり明るくはないけれど、良い曲だとアンナは思う。前世の春香も、子どもたちのピアノの練習に付き合いながらよく口ずさんでいた。かつての夫は、暗い曲調を酷く嫌っていたようだったが。
ろくに手入れのされていない部屋だったが、ちょうど石板と白墨が転がっていた。簡単な歌詞をぎゅうぎゅうに詰めて書くことくらいならできそうだ。文字は小さいし、つぶれかけているが、読めないことはないだろう。
「ねえ、テッド。せっかくだから、一緒に歌ってみない? ほら、歌詞も書き出してみたの。ちょっとあやふやだったから、私がアレンジして書いたところも多いのだけれど」
「……やめとく」
「あ、ごめんなさいね。いきなり歌うなんて嫌よね。それじゃあ、一緒に弾いてみるのはどう? 音がゆがんでいないところだけを使うから、気持ち悪くなることはないと思うの。ほら、簡単だから楽譜はなくても指を真似するところから始めてみたらどうかしら?」
「……だ」
「え? テッド?」
「うるさいなあ。僕は、やりたくないの! なんでアンちゃんは、僕の嫌がることをするの!」
突然不機嫌になってしまったテッド。初めて見る苛々とした様子に、アンナは目を丸くする。前世の子どもたちや、勉強嫌いの異母妹の癇癪を起こしたときによく似ている。確かに興味がないピアノに、無理矢理突き合せようとしたアンナが悪かったのだろう。家庭教師のことを自分は笑えない。上から目線で彼らのことを批判していた自分が恥ずかしくてたまらない。
よかれと思って踏み込みすぎた。他人のくせに、そしてテッドが何か訳ありだとわかっていたくせに、おせっかいを焼きすぎた。前世の記憶のよかった部分だけを思い出して、テッドに押し付けてしまうなんて。
「……あの、テッド、ごめんなさい。急にいろいろと押し付けられて迷惑だったわよね」
親でもないくせに。お腹の底でずっしりと重さを感じる言葉に、胃が痛くなる。実の子どもからも嫌われた自分が、ちょっと懐かれたくらいで有頂天になったからこんなことになるのだ。お飾りの自分は、もっと自分の身の程をわきまえるべきだったのに。そこからなんと言えばいいのかわからないアンナが口をつぐんだ瞬間、可愛らしい音が部屋の中に響いた。
「っ、くっしゅん」
「大変、こんなところに長くいたら身体によくないわよね。何から何までごめんなさい」
そこからさらにテッドが立て続けにくしゃみをしている。ずっと部屋が閉め切られていたのだから、当然だろう。そんなことにも気が付かないで、久しぶりのピアノにはしゃいでいた自分のなんと愚かなことか。慌ててテッドとマシューおじさんを連れて、元の部屋に戻る。風通しをよくしておいて、掃除はテッドが帰ってからやっておくことにした。