(5)
翌日、アンナは実家で暮らしていた時と同じように朝食の準備をしていた。自分ひとりのために作る食事というのは、気が楽でいい。卵ひとつとってみても、それぞればらばらのメニュー、火の通り具合を要求されるのは、面倒くさくてかなわないのだ。
厨房や給仕にそれぞれメイドがいるならばともかく、実家ではすべての家事をアンナが切り盛りしていた。そのくせ、料理を早めに作って冷えてしまったりすると大層な叱責を受けてしまうものだから苦労したものだ。
さてフライパンの使い心地も確認したいから、まずはオムレツでも作ってみようか。多少貼り付くのは覚悟の上だ。そんなことを考えていたせいか、フライパンが反抗したかのように完璧に美しいオムレツができてしまい、アンナは少しばかり残念な気持ちになってしまった。こんなに素晴らしいオムレツを作ったのに、この感動を分かち合える相手がどこにもいないなんて。
カリカリカリカリ。
ぴくりと、アンナは動きを止めた。カリカリと床をひっかくような音が聞こえている。家の外ならばそれなりの対処だが、家の中であればかなり大がかりな仕事になるだろう。
動物は嫌いではないが、前世の記憶があればねずみはどうにも受け入れがたい。医者にも病院にもかかったことがないので、この世界の医療体制についてもよくは知らないが、さすがに日本と同等レベルということはないのではないだろうか。
藪をつついて蛇を出すかもしれない。何より今は何の捕獲道具も持っていないのだ。けれど、この音がいつでも聞けるわけではないだろう。家令のジムに相談する前に、それなりの確認をしておきたい。唇をきつく引き結び、そろそろと納戸を開ければ、そこには強い光を浴びてうろたえる大きな影が、ふたつ。
「え、子ども? それにねずみ? いや、ねずみじゃない? でもイタチではないし、え、やっぱりねずみなの?」
つい、令嬢らしく取り繕った言葉を忘れてしまったのは、薄暗い食糧庫の中にいたのが小さな子どもと、ずんぐりむっくりとした動物だったからだ。見つかったことに驚いて逃げるよりも先に、動物を自分の元に慌てて引き寄せている。アンナがねずみと叫んでいたから、処分するかもと心配したのかもしれない。のっそりとした動物は、慌てふためく子どもを不思議そうに見つめたまま、なおも手の中のにんじんをかじり続けていた。
「わっ、えっ、あ、あの、ご、ごめんなさい!!!」
動物を抱えたまま走り出そうとした子どもを、慌ててアンナは引き留めた。こんな子どもが、離れの食糧庫に入り込んで調理前の食べ物を盗み食いしているなんてとんでもない話だ。普通ならば警邏を呼んでもおかしくない。けれどここは侯爵家であり、あのジムの意味深なお願い。何より侯爵そっくりの麗しい容貌をした幼子の姿。アンナはどうにも厄介事に巻き込まれたらしいことを悟りながら、漏れそうになるため息を必死で飲み込んだ。
「いらっしゃい。こんにちは。小さなお客さまたち」
「え、あの、僕は……。ええと、あの、僕たちのこと怒ってないの?」
「怒ってはいないわ。びっくりはしたけれど。お腹が空いているのなら、勝手に食べるのではなく声をかけてちょうだいね。食事を作る時に、使いたい材料がないと困ってしまうから」
アンナの言葉に、子どもは不思議そうな顔をしていた。もちろんアンナも、ジムの言葉がなかったり、定期的な食料の供給が見込めなければ、この見知らぬ子どもに冷たく怒鳴り散らしたかもしれない。けれど、食料の備蓄と安心感は余裕を生む。空腹にさいなまれていた実家時代ならいざしらず、今のアンナには怒る必要がないのだ。
動揺する子どもの足元ではぽりぽりぽりぽりという、なんとも小気味よい音が聞こえてくる。視線を下げれば、どこかふてぶてしい態度で小さな生き物はふたりの会話などどこ吹く風といわんばかりにせっせと野菜を食べ続けているのだった。