(7)
侯爵もイーノックも、それぞれ相手を敵だと認識したらしい。
「今さら彼女に愛を乞うつもりか。まったく、なんて恥知らずな」
「俺が不貞を働いたわけじゃない」
「自分は関係ないと言うつもりか? 異母妹がアンナを陥れているのに気づいていながら、止めようとしていない時点で同罪だろうが」
「俺は、今の俺にできることをやってきたつもりだ」
「つまり謝る気はないというわけだ」
侯爵に詰め寄られたイーノックは、不愉快そうな顔でそっぽを向く。その行動が、ますますイーノックらしくなくて、アンナは何を見せられているのかよくわからない気分になった。今のイーノックは、アンナの知る気弱な貴族令息ではない。まるで反抗期真っ盛りの意固地な学生のようだ。
「俺が謝るとしたら、別の件についてだ」
「それで、アンナが許したところで元鞘を狙うと?」
「だからいい加減にその話題から離れろ。俺がそんなことをするわけないだろ。俺はただ、おふ」
「イーノックさま!」
「おふ? おふ? おふってなあに?」
さすがにイーノックの言葉は度が過ぎている。本来、家格的に対等に話すことなどできないのだ。無礼を働いたとして相応の対処を取られてもおかしくない。思わずアンナが顔色を悪くしていると、どこまで話を聞いていたのか、テッドが不思議そうな顔で上着の隙間からひょっこりと顔を出してきた。アンナと侯爵から抱っこされたことで、落ち着きを取り戻したらしい。少しばかり目の縁が赤いが、それだけだ。
「閣下、どうぞ落ち着いてくださいませ。私は大丈夫ですから。イーノックさまもお言葉が過ぎますよ。閣下の寛大さに感謝すべき事態です」
「……俺はただ……」
「あなたが私とよりを戻すつもりがないことはわかっています。けれど、私は既に嫁いだ身。それなりの節度が必要なのです。それで、『おふ』がどうしたのでしょう?」
アンナの隣で「おふ」を繰り返していたテッドもそうそうとうなずく。なぜか言葉に詰まったイーノックの後を引き継いだのは、年かさの男性だった。
「お風呂に入って、身体を温めたほうがよろしいでしょうと申し上げたかったのですよ」
それは先ほど溺れていた子どもを侯爵から受け取った神官だった。子どもの姿は見えない。湖の調査を行っている一団とは別行動をしていて、既に神殿に向かっているのだろう。
「失礼ですが、どなたでしょう?」
「ああ、申し遅れました。わたくしは、この湖を守る神殿の神官長をしております。侯爵閣下、奥さまは非常にお疲れのご様子。淑女の鑑となるべき侯爵夫人が、このよう場所で不特定多数の好奇の目にさらされるなど由々しき事態。どうぞ神殿の入浴施設をご利用くださいませ」
「……それはそうだが」
「くしゅん!」
「その申し出、ありがたく受けさせてもらおう」
渋い顔をしていた侯爵は、アンナのくしゃみを聞くとすぐに態度を改めた。結婚当初であれば侯爵家の名誉を重んじ、ややこしい事態を避けるために、無理にでもアンナを連れて帰ろうとしたに違いない。けれど今の侯爵は、何よりもアンナの身体を気遣っていたのだった。
***
神殿の中にあつらえられたお風呂は、どことなく前世のものに似ている。身体の芯から温まったアンナは、念のため魔力回路に問題がないかの確認を受けることになった。服の上から確認するとはいえ、女性ではなく男性。しかも、侯爵ではなくイーノックが同席するという事態に、少しばかりたじろぐ。
よくもまあ侯爵が嫌な顔をしなかったものだと思っていれば、扉の向こう側で何やら騒ぎ立てる音が聞こえている。どうやら、侯爵の了解は得られていないようだ。
「いやはや、身体は温まりましたかな?」
「はい。たっぷりのお湯につかることができて、身体の疲れが取れました。本当にありがとうございます」
「こちらの世界の浴槽はやはりどうにも浅いですか。まあ、深さがあったところでわざわざ魔術を使ってまで、お湯をたっぷり用意するのは貴族にしか許されぬ贅沢ですからな」
「え?」
「ああ失礼。先代の神官長の口癖だったのです。この世界には、自分の愛する風呂がないと。そのために、まさか理想の風呂作りを始めるとは思いもしませんでしたが。ああ、ご心配なく。こちらの温泉施設は、広く皆さまに開放されておりますゆえ」
「いいえ、あの、先ほど『こちらの世界』と」
湖で出会った水竜は、「その辺りのことは岸についてから好きなだけあやつから聞いておけ」と話していたはずだ。水竜が言うところの「あやつ」とは、先代の神官長のことだったのか? まじまじと見つめるアンナに対して、にこりと神官長が微笑んだ。そのまま彼は自身の両手を大きく開いてみせる。
「先代神官長の持っていた加護は、『触診』だったそうです。その手で触れた相手のどこが悪いのかを、まるで身体の中身を見るかのごとく当ててみせたのだとか。先代は、えむあーるあいのようなものと言っておりました。わたくしにはなんのことかさっぱりですが、奥さまには馴染みのある言葉なのでしょうか」
侯爵は加護について、基本的に他言無用だと言っていたはずだ。それなのに、なぜ初対面であるはずのアンナに対してこんなにもあけっぴろげなのか。先代とやらが存命であれば、王族や高位貴族からの囲い込みを警戒せねばならないはずである。その上聞き覚えがある、この世界にはないはずの単語の数々。おろおろとするアンナに、神官長は小さくうなずいた。
「加護とはこちらの世界へと渡ってきた方の中でも、選ばれた者だけに与えられた贈り物なのですよ」
侯爵の同席は許されず、イーノックが同席しているのはなぜなのか。今まで積み重なってきた違和感とともにその理由に思い至り、アンナは思わず目を丸くした。