(6)
呆然とするアンナに向かって、竜はゆっくりと顔を近づけてくる。まさか竜は肉食なのか? 真珠のようにきらめく牙を見せた竜だったが、アンナの頭の中に響いたのは呆れたような声だった。
『水竜はひとなど食べぬ。失敬な』
高くもなく低くもない不思議な声音に、これが竜の言葉なのだとアンナは理解した。水竜は人間を食べないと話していたが、ここが竜の棲み家だというのであれば、土足で入り込んで大騒ぎした人間に対して怒りを抱いていたとしてもおかしくはないだろう。慌ててアンナは頭を下げた。
『心配せずとも、こんなことで腹など立てぬわ』
「大変失礼いたしました。助けていただき、ありがとうございます」
『かまわぬ。我が助けたというよりも、偶然そなたらは生き残ったのじゃ。本来であれば、人間は湖に入った時点で命の保証がない。そなたの夫のように魔力が多ければ、湖の中に足をつけることすらできぬであろうな』
さらりと恐ろしいことを言われて、アンナは口元がひきつりそうになる。人気の観光地になっている場所が、そんなさわやかに禁足地になっているとは思わなかった。まあ、日本でも地獄谷のように、人気の観光スポットでありながら火傷やら中毒のような危険と隣り合わせの場所は存在する。この世界ではそれが魔力に関することなのだろう。
『せっかくだ。岸辺まで運んでやろうではないか』
「湖の岸辺まで送っていただくなんて……。本当になんと感謝してよいか」
感謝しつつも、まるで浦島太郎のようだと考えてしまったのは、緊張しているがゆえのこと。けれど、水竜は困惑することなくやれやれと嘆いてみせた。
『「浦島太郎」か。あやつも同じことを言っておったぞ。まったく、この儂を亀なんぞと一緒にしおってからに』
「あやつ?」
自分の考えが伝わってしまった事実よりも、さらに見逃せない言葉に食いついた。けれど、このことについて説明するつもりはないらしい。
『まあ、その辺りのことは岸についてから好きなだけあやつから聞いておけ』
「あの水竜さまは?」
『朝早くから、そなたたちに叩き起こされたのだ。湖の底で二度寝じゃ』
美しい姿には妙に似つかわしくない「二度寝」という言葉に、アンナは目を瞬かせる。日本のことを知っているこの竜であれば、意外とこたつなども好んでいるような気がした。この辺りのことを、岸にいる誰かが知っているということなのだろうか。あの世界への未練などなかったはずなのに、あれこれと聞いてみたいことが出てきた自分がおかしくてたまらない。くすりと小さく吹き出せば、水竜は機嫌よく喉を鳴らした。
『良い顔じゃな。笑いたいときには、笑え。泣きたいときには、ちゃんと泣け。せっかく繋いだ命を無駄にするでないぞ』
自分は疲れたのでそろそろ湖に戻ると言い残し、湖の岸辺にアンナと子どもを下ろすと水竜はあっさりと消えてしまったのだった。
***
「アンちゃん!」
驚きつつも湖に向かって頭を下げていると、アンナの腕にテッドが飛びついてきた。そのままテッドがしがみつき、ほろほろと泣き始める。
「テッド、あなたまで濡れてしまうわ。それにこの子を地面に降ろすから、その間だけ待っていてちょうだいね」
「やだ! 僕がちゃんとつかまっていないと、アンちゃんったらまた勝手に危ないところへ行ってしまうもの」
「大丈夫よ、もうあんなことはしないわ。ずっとテッドのそばにいるから」
「いーやーだー」
子どもを抱えており、テッドを抱きしめてやれないせいか、テッドはいつまでも泣き止みそうにない。離れてもらわないと身動きがとれないのだ、どうにも困ったアンナの元に、ゆっくりと侯爵が近づいてくる。一体何を言われるのかとみがまえたが、侯爵は黙ったまま溺れていた子どもを神官に引き渡していた。神殿は病院の役割も兼ねている。このまま、子どもの診察をしてくれるのだろう。
再びアンナの隣にやってきた侯爵は、やはり黙ったまま着ていた上着を脱いでアンナにかけた。溺れていた子どもがいなくなった途端、アンナに抱っこしてもらったテッドは、一緒に上着にくるまれ、もぞもぞと座りの良い場所を探している。
体温の高いテッドと、侯爵の上着のおかげで、ようやくアンナは自分の身体が冷え切っていたことに気が付いた。夏の早朝のはずなのに、震えが止まらない。小さく礼を言うアンナに、侯爵は苦し気に顔を歪ませた。
「君は本当に自覚が足りない」
「大変ご迷惑をおかけいたしました。テッドを置いて縁もゆかりもない子どもを助けにいき、あやうく死にかけました。母親失格と言われても反論できません」
「違う!」
「閣下?」
「周囲にいるか弱いひとを大切にするのは君の美点だろう。だが、君はもう少し君自身のことも大切にするべきだ。君は、自分がいついなくなってもいいと考えているように見えてならない」
「私は……」
なんと答えたらよいのか、アンナにはわからない。今まで自分の存在など、吹けば飛ぶような状態で生きてきたのだ。今はテッドの成長を見守る立場にいる。それだけで十分幸せだと思っていたけれど、まだ自分は何かを求めてもいいのだろうか。
希望を持つことは恐ろしい。最初から高望みをしなければ、失望することもない。傷つく必要もない。既に自分は予定よりもずっと侯爵家に根を張ってしまっているというのに。さらに根付いても許されるのか。
何も言えないままはくはくと口を開け、また閉じていると、テッドが不満げにアンナに向かって泣き叫んだ。
「抱っこして!」
「今、抱っこしているでしょう?」
「違うの! ちゃんと抱っこして!」
「テッド?」
「これならどうだ?」
侯爵がアンナをテッドごと抱きしめる。大人になってから抱っこされた記憶はない。というか、現世では子どものときにもほとんど抱っこをしてもらったことはないのだ。ああ、誰かに抱きしめられるというのは、こんなにも安心できることだったのか。うっとりとアンナは目を閉じる。泳ぎ疲れていたせいだろうか、眠くなりそうなほど人肌が心地よかった。
「神殿を震え上がらせるほどの騒ぎを起こしておきながら、公衆の面前でいちゃつくとは、本当にいいご身分だな」
「!」
「何もいやらしいことはしていない。家族ならば、当然の行為だ」
不機嫌マックスのイーノックの声に、アンナは慌てて侯爵の腕の中から出ようとする。しかし侯爵はイーノックの言葉を聞くと、あえて見せつけるかのように腕に力を込めてきた。




