(5)
アンナは必死で前へ進む。水泳が一般的ではない王国で初めてにもかかわらずそれなりに泳げるのは、子どもたちを連れてプールに通った前世があるからだろうか。当時はもうプールはお腹いっぱいなんて思っていたが、今こんな風に役に立つのであればあの日々も無駄ではなかったのかもしれない。
着ているのが水着ではなくドレスなせいで、身体が重い。それでも加護のお陰かなんとか無事に子どもの元までたどり着いた。どういう理由で神さまがアンナに強さを授けてくれたのかはわからないが正直ありがたい。ついでに、この子どもを助けるためにもう少しばかりご助力いただけると最高なのだが。
「しっかりして! ほら、もう少しよ!」
「うっ、ううう」
ぐったりと力の入らない子どもを必死で引き上げ岸まで運ぶべく、アンナは全身に力を込める。テッドの母親のときは無意識、イーノックには意識的にやっていたおかげで、なんとなく身体の使い方がわかってきた。今まで感じたこともなかったが、この体の中を巡っている熱い流れが魔力の巡りなのだろう。
しかしここに来て、アンナも自分の無謀さを理解することになった。ライフジャケットも何も着ておらず、泳ぐ速度が急に遅くなったものだから、子どもを抱えると自分が沈んでしまう。いくら加護の力はあるとはいえ、水中で子どもと自分の呼吸を確保するのは想像以上に難しかったのである。
いっそ、ここからいちかばちかで陸地に向かって、子どもを投げるべきなのか。だが、泳ぎながら上半身の力だけで子どもを侯爵まで届けるのは、いくら加護持ちでも無謀に思えた。いっそ侯爵に飛び込んでもらって、ロープか何かでアンナが引き上げる方がよほどよかったのかもしれない。その場の勢いで飛び込んでしまったことを後悔するも、時既に遅し。
さすがにテッドの前で死ぬことだけは避けなければ。人助けのために自分が死ぬようなことがあれば、優しいテッドはひどく悲しむことだろう。実の母親とのやりとりでもう十分テッドは傷ついている。これ以上、傷つけたくはなかった。
「え、足場がある? こんなところに?」
だが、アンナがパニックに陥りかけたその時、彼女の足は不思議な足場をとらえていた。岸はまだ遠い。ここを浅瀬だと主張するのは無理がある。それならば自分は偶然湖の中の岩場に辿り着いたということだろうか。偶然の幸運に感謝したその時、足元が何やら揺れたような気がした。そもそも、どことなく柔らかさを感じる。泥よりもかたくて、岩よりも柔らかいもの。一体自分はどんな場所に立っているのか。
そこまで考えた時、アンナの足元は確かに揺れた。自分が疲れているせいで眩暈でも起こしているのかと思っていたが、勘違いではない。ぐんぐんと視界が高くなっていく。大慌てでしゃがみこみ、ぐったりとした少年がずり落ちないように抱きかかえた。
「アンちゃん、大丈夫?」
「じっとしていろ。もうそれ以上動くんじゃない!」
テッドと侯爵が何やら叫んでいる。顔色が悪いのはアンナの無茶のせいだろう。今ようやく気が付いたが、上級貴族はこんな時に使用できる特別な魔術を持っていたりするのだろうか。もしやアンナは、自分の浅はかな行動のせいで、子どもの命と自分の命の両方を危険にさらしたのではあるまいか。そこまで考えて、急に手が震えてきた。
そして彼らの後方から、白い服を着た集団がこちらに向かっているのが見えた。あれは確か、この湖を管理している神殿の神官たちだ。騒ぎを聞きつけたのか、あるいは侯爵が伝令の魔術でも使って連絡をとってくれたのか。そして信じたくないことだが、その集団の先頭にいるのが、どうにもイーノックのように見えるのである。アンナはこれからどうあがいたところで、耳の痛い話を聞くことになるであろうことを悟ったのだった。
ここまで来てしまったのだから、もう成り行きに任せてしまえ。ぐったりとしていた少年はげほげほと水を吐いていたが、意識もあり呼吸もできている。その背をゆっくりとさすってやりながら、アンナは安心させるように抱きしめた。そのまま少年を抱え込んで座り込んだアンナは、ふと自分が立っていた足場に手を当てる。どうにもつるつるとした滑らかな感触。岩でも何でもないそれは、よく見ればきらきらと輝いている。
「きれい。翡翠か何かかしら」
半ば現実逃避のようにそうつぶやいたアンナの周囲が暗くなる。早朝とはいえ、先ほどまで眩しいほどの朝日に照らされていたというのに。急に雲でも出てきたのか? 空を仰いだアンナが目にしたのは、アンナを静かに見下ろす紺碧の竜だった。




