(4)
翌日早朝、アンナたちはバードウォッチングのために早朝から散歩に出かけていた。早速昨日テッドとともに手に入れたバードコールを使ってみる。木のこすれる音が響けば、それに返事をするように小鳥たちの鳴き声がいくつも返ってきた。
「わあ、『こんにちは』って言ってくれているのかな?」
「『新しいお友だちだ』って言っているのかもしれないわね」
「『余所者が来た』、『変な鳴き声で歌っている』ではないのか」
身もふたもない侯爵の言葉に、アンナが軽く睨む。確かにバードコールで作った鳴き声は、なんという会話をあちら側に提案しているのかはわからない。率直に不審がられているのかもしれなかったが、侯爵の言葉は気にしないようにして可愛い小鳥の姿と声を楽しむことにする。
「あれ、お返事が返ってこないねえ」
「あら、本当ね」
先ほどまでうるさいくらいにおしゃべりを返してくれていたというのに、一体どういうことなのか。急に雰囲気が変化したことにアンナたちが気が付く。すると、今までとは異なる激しい鳴き声が森の中に響き渡った。
「えーと、どうしたのかな? さっきまで、みんなご機嫌だったのに」
「……今のは、シジュウカラかしら?」
「アンちゃん、鳥に詳しいの?」
「いいえ、特別詳しいわけではないの。ただ私、シジュウカラの鳴き声と意味との関係性を少しだけ覚えているのだけれど……」
これも前世の春香の記憶だ。ニュース番組でシジュウカラの鳴き声を研究した生物学者の特集を見たことがあるのである。シジュウカラの鳴き声と意味を解説していたあのニュースで、この鳥たちの鳴き声は何と解説されていたのだったか。確か、この鳴き声は……。
――警戒しながら、集まれ――
慌ててアンナが周囲の状況を確認する。そこでアンナは、小鳥たちのさえずりに交じって誰かがどこか遠くで騒いでいるらしい声が聞こえることに気が付いた。
「閣下、この先で誰かが騒いでいませんか?」
「確かに若干騒がしいな。子どもの声? いや、だが、こんな朝早くに子どもがうろつくはずが」
「昨日の夜、僕にバードコールを売ってくれた子たちが言っていたよ。今の時期はたくさんお客さんが来るから、『カキイレドキ』なんだって。だから朝早く起きて、夜遅く寝るみたい。子どもがいてもおかしくはないんだよ」
アンナの脳裏を、昨日見た子どもたちの姿がよぎる。観光客向けにお土産を売っていた子どもたちは、侯爵が手にしていた金貨に目を奪われていた。あの時、侯爵はアンナの指摘で金貨を投げることはやめてくれたが、その場を見ていない子どもたちは、侯爵が金貨を投げたと今でも信じていることだろう。あるいは、侯爵のような気前の良い客がいる可能性に気が付いて、湖の中を探し始めたのかもしれない。慌てて三人で声のする方が探しに行くと、湖でひとりの少年が溺れかけているのが見えた。アンナが少年に向かって大声で叫ぶ。
「大丈夫よ、今から助けるから! 浮いて待つのよ! 水の上であおむけになって」
助けが来たことに気づいたせいだろうか、少年がさらに激しく暴れ始めた。
「ほら、そんな風に暴れてはダメ。暴れれば暴れるほど、あなたが危ない目に遭うのよ。何か、浮き輪の代わりになりそうなものはないかしら」
「僕、そういうの探すのとっても得意なの!」
「ちょ、ちょっと、待ちなさい。閣下、テッドのことをちゃんと見ていてくださいね! ひとりで行動させるにはまだ早すぎます」
飛び出しそうになったテッドを、慌ててアンナはつかまえてたしなめる。ひとりで行動して、今度はテッドが怪我をしたり、誘拐されたりしては困るのだ。いっそ侯爵に頼んで、侯爵とテッドのふたりでこの湖の管理者の元まで走ってもらえばいいのか? 時間にしてほんの一瞬、湖に向かって背をむけてしまった。けれどそれは少年をパニックに陥らせるには十分な時間だった。両手を突き出し、必死になって声をあげる。
「いやだ、おいていかないで。お母さん、助けて!」
両手を岸辺に突き出し、懇願する。水を飲んだのか、何やらおかしな音がした。そしてそのままあっという間に湖の中に沈み込んでしまったのである。
現世でアンナは、まだ誰にも「お母さん」と呼ばれたことはない。けれどアンナの身体は、あまりにも自然に子どもを助けようと動いていた。前世春香が参加した防犯教室では、誰かに助けを求めるには「お母さん」という単語が最強だと習ったことを思い出した。「助けて」でも、「火事だ」でもなく、「お母さん」と呼びなさい。そうすれば、みんな振り返る。講師役の警察官はそう言っていたが、まさにその通りだったらしい。
「閣下、テッド、ごめんなさい」
「何を考えている!」
「アンちゃん、やめて!」
「ダメなの、あの子を助けなくっちゃ。身体が勝手に動いてしまうの」
そしてアンナは、あとさきを考えることもできずに少年の元へと飛び込んでしまったのである。




