(3)
「イーノックさま、あの子はどこにいるのでしょう?」
「ここに来ているのは俺だけだ」
その返事にアンナは目を丸くした。あの異母妹に一体どんな心境の変化があったのか。まさかアンナからイーノックを奪った時点で、目的は達してしまったというのだろうか。イーノックを奪ってからも、アンナが同じ家にいた時にはイーノックにべったりだったはずなのだが。
奇妙な薄ら寒さを覚えて周囲を見渡してみたが、異母妹の姿はどこにも見えない。困惑するアンナの代わりに、侯爵が質問を引き継いだ。
「では、君はひとりでここに?」
「ええと、その通りです。来る予定はなかったのですが、なりゆきで」
「……それではどこに滞在しているのだろう。別荘を持っていなければ、この時期、泊まる場所すら確保できないのでは? 失礼だが、君の家もアンナの実家もこの辺りに別荘は所有していないはずだが」
いかにもうさんくさいという表情を隠しもせずに、侯爵はイーノックをねめつけた。だがそれはアンナも気になっていたところだ。この辺りは、上級貴族の別荘地として有名なのだ。下級貴族であるイーノックがひとりで遊びに来られるとは思えない。誰か上級貴族の友人に連れられてきたと言われるほうが納得がいくのだが、イーノックは細かい事情を明かすつもりはないようだった。
その上、イーノックは用事は済んだとばかりにきびすを返す。
「何かあれば、神殿に連絡をくれ。俺はしばらく神殿に滞在する予定だから」
「神殿、ですか? あの湖を管理している神殿に?」
「ああ。それじゃあさっきの話のこと、ちゃんと考えておいて」
意味深な発言をわざとのように残しながら、来た時と同じように唐突にイーノックは立ち去っていく。どう転んでも、何か特別な話をしていたようにしか聞えない言葉のチョイスに、アンナは密かに頬を引きつらせていた。まったくあの男は、婚約中も婚約解消後も、アンナに迷惑をかけることを生きがいとしているのかもしれない。ため息を吐きそうになったアンナの手が遠慮がちにひかれた。テッドがアンナを見上げている。
「アンちゃん、お話、もう終わった?」
「ええ。テッド、お待たせしてごめんなさい」
「ううん、楽しみはとっておいたらもっと楽しくなるんだよ。ジュース、きっともっともっとおいしくなったよ」
「まあ、それは素敵ね。それじゃあいただきます」
「はいどうぞ。めしあがれ」
気持ちを切り替えるように、買って来てもらっていたオレンジジュースに口をつける。さわやかで芳醇な甘みが、口の中に広がっていった。自分が思っていた以上に喉が渇いていたらしい。ゆっくりと身体の中に甘い果汁が染みわたっていく。
「まあ、本当ね。今まで飲んだオレンジジュースの中で、一番美味しいオレンジジュースだわ」
「ね、やっぱりアンちゃんもそう思うよね。僕、アンちゃんと父さまと一緒に食べると、何でもおいしくて困っちゃうの」
「うふふ、私もよ」
ジュースを飲み終わって元気になったテッドは、近くの木に止まっている小鳥が気になったらしい。一生懸命口笛を吹きながら、大樹の周りを走り回っている。どこかでバードコールを買ってあげるとよいかもしれない。
にこにことテッドのことを見守っていたアンナだが、そんな自分のことを侯爵がじっと見つめていることに気が付いた。先ほどのイーノックの別れの言葉のせいで、痛くもない腹を探られなければ良いのだが。頭の痛くなる内容を思い出し、やや眉を寄せてしまう。その表情をどう解釈したのか、隣に立った侯爵が言いにくそうに声をかけてきた。
「先ほどの彼は……」
「元婚約者で、現在は異母妹の婚約者です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「わかっている。わたしたちがいない間、どのような話をしたのか聞いてもかまわないだろうか」
「もちろんです。彼は閣下やテッドのことを誤解しているようでしたので、私は幸せに暮らしているとアピールしておきました。ただ、輿入れ当時の状況を知られていたようなのが気になりました」
「……手を」
侯爵がつぶやいた。なにごともずけずけと遠慮のない侯爵にしては珍しい。何か聞きにくい懸案事項でもあるのだろうか。
「え、手がどうされました?」
「先ほど手を……」
「もしかしたら、コップを長い間もっていたせいで結露で濡れてしまいましたか?」
「いや、何でもない」
「気が利かずに申し訳ありません。ハンカチはもっていらっしゃいます? 私のハンカチをお貸ししたいところなのですが、既に汗を拭いてしまったところで……。お貸しできる別のハンカチを持っていないなんて。本当にお恥ずかしいです」
「いや、違う。手が濡れているわけではなくて」
「アンちゃん、父さま、飲み終わった? 僕、あっちに行きたい」
軽やかに戻ってきたテッドにつられて、アンナも歩き始める。結局このまま三人は、野鳥観察のためのバードコールを買い求めに、お店を探すことになったのだった。




