(3)
「君を愛することはない」
キャリントン侯爵家に到着したアンナだったが、彼女を見つめる使用人たちの反応は芳しくない。どうやら彼女の悪評は、この屋敷の者たちにもすっかり浸透してしまっているらしい。せっかくなので到着の挨拶をと申し出てみれば、初対面の侯爵ウォルトから早々に言い捨てられてしまう始末。あんまりと言えばあんまりな状況だったが、所詮はアンナの予想の範囲内。彼女はただ静かに、承知しましたとだけ返事をした。
やはり、結婚してからもアンナの暮らしは温かみというものからかけ離れたものになるようだ。やはり愛し愛される幸せな家庭というのは、テレビの中か小説の中にしか存在しない、夢物語なのだろう。
「わたしが君に求めているのは書類上の妻という役割だけ。茶会や夜会に出席する必要もないし、ましてや開催することなどありえない。君と交流する必要も感じない。用件はすべて家令を通して伝えてくれ」
お茶会や夜会に出ないというのは、侯爵の前妻と同じ行動だ。ここだけを切り取れば、侯爵は後妻であるアンナのことも前妻と同じく大切に扱っているように周囲に見えないこともない。まあ実際には、アンナは茶会や夜会に出なくてよいのではなく、出たくても出られないだけなのだが。
アンナの名前を騙る異母妹のせいで、アンナの名前はふしだらの代名詞だ。夜会に出かけて、男漁りをされてはたまらないと思われているのだろう。男漁りどころか、そもそもひとが大勢いる場所は苦手なアンナにしてみれば、茶会や夜会に出なくても良いということは気が楽でいい。もちろん反対する必要もないので、こちらも微笑みつつ了承した。
そんなアンナのことを侯爵は薄気味悪い目で見つめている。一体前評判でどんなことを耳にしたのか、知りたいような知りたくないような複雑な気分だ。
「ずいぶんと殊勝な態度をとっているが、わたしはそんなものには騙されない。息子に取り入ろうとしても無駄だ。息子には優秀な家庭教師をつけている。王国中から呼びよせた素晴らしい講師陣だ。せっかく教育環境を整えたというのに君のような身持ちの悪い女に近づかれては、息子の情操教育にさしさわりが出る。接触は控えてくれ」
アンナの事情もろくに調べず、前評判だけで判断するあたり、仕事のできない人間なのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。まあ、星になった最愛の妻に比べればどんなに優秀な令嬢であろうが、どんなに悪評立つ令嬢であろうが、それほど違いはないということなのだろうか。欲しくもない妻にかける時間があるのなら、大切な息子のために使いたいのだと言われれば、なるほどと納得するしかない。
そもそも死別してすぐに別の女にうつつを抜かす男よりも、亡き妻に操を捧げている男の方が信用はおけると言えるのかもしれない。それに、アンナには冷たい侯爵も、実の息子のことは大切に考えているようである。子どもたちに中学受験をさせるように指示したくせに、塾の送り迎えや宿題の面倒、受験校の検討などのもろもろの作業を丸投げしてきた前世の夫に比べれば、それだけでも目の前の男はまだマシだと思えた。
それならばアンナが言うべき言葉は、ただひとつである。
「……覚えておくべき、結婚の条件は以上でしょうか? それでは、私からもひとつお願いがございます」
「なんだ。金か? 予算をつけておくから、適宜使うといい。あまりにも目に余るような使い方はできないように、家令たちに言い含めてあるから際限ない贅沢はできんぞ」
「当然でございます。お願いしたいことは、それではなく。屋敷の離れを使わせていただきたいのです」
「……間男でも引っ張り込むつもりか?」
ほとほと自分は信用がないらしい。失礼すぎる侯爵の言葉に、アンナは困ったように眉を下げた。あまりに失礼なことを言われ過ぎた人生のため、腹は立たない。腹は立たないのだが。話の進まなさに少しばかり疲れを覚えてしまうのだ。
「同じ屋敷に暮らしていれば、どれだけ接触を避けようとしたところで、いつかは顔を合わせてしまいます。旦那さまは、坊ちゃまと私の接触を避けたいのでしょう? それならば住まいを分けるのが手っ取り早いのです。さすがにこの屋敷の中に居ながら、坊ちゃまとの接触を避けようとすれば、私は自室に常に閉じこもっていなければならなくなりますから」
「……それはそうだが。離れはかつてわたしの祖父が、妾を囲っていた場所だ」
「あら、庭師などの使用人が住んでいた場所かと思っておりましたが、それならば雨露をしのぐだけではなく、それなりの暮らしができそうですね。安心いたしました。それでは、本日から私は離れで生活いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
少ない荷物を自分で抱えると、アンナは颯爽と歩き始めた。唖然とする侯爵の姿など、アンナの目に入ることはなかったのである。