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「まあ、これは一体?」
「とりあえず、まずは目を通してみてくれ」
アンナの目の前に差し出されたのは、ずっしりとした書類の束だった。一体何についての資料かと目を通してみれば、アンナでさえ耳にしたことのある王国随一の避暑地についての詳細がびっしりと書かれている。
几帳面な侯爵の資料を見ながら、アンナは頬に手を当てた。侯爵から渡された書類には、非常にわかりやすく避暑地の特徴が明記されている。だがこの書類の意図がアンナにはわからない。もしや、今後この避暑地を所有する貴族との共同事業などを考えているのだろうか。
「閣下、どのような提案をお持ちなのですか。ぜひお聞かせください」
「ああ、そうだな。まずはお互いをよく知ることが大切だと考えている」
「確かにそうですね。お互いの信頼がなければ、今後、よりよい関係を築いていくのは難しいでしょうから」
「君もそう思うか」
「もちろんです」
「では、決まりだ。明後日から、親子水入らずの家族旅行に出発だ!」
「え?」
「は?」
侯爵家の役に立ちたいと張り切っていたアンナと、アンナとの仲を深めるために旅行に連れ出したかった侯爵との会話の食い違いは、しばらくの間続いたのだった。
「なるほど、親子水入らずで家族旅行ですか。それは素敵ですね!」
「旅行? お出かけ? 馬車に乗る? お船に乗る?」
「馬車にも乗るし、船にも乗る予定だ」
「わあい! 父さま、ありがとう! アンちゃん、楽しみだね!!!」
「……あの閣下、私も一緒に行っても良いのですか?」
「家族旅行なのだ。当然だろう?」
今までアンナは家族旅行というものに出かけたことがなかった。この世界に転生してからは基本的にそういう楽しいイベントはアンナ抜きで行われるものだったからだ。前世の春香の頃も、夫は友人や浮気相手と好き勝手に旅行に出かけていたが、春香は子どもを連れて近場のプールに行くのがせいぜいだった。
「家族旅行……ふふふ、なんだか楽しみですね」
じわじわと胸が温かくなり、アンナから笑みがこぼれる。珍しく屈託なく笑うアンナの姿に、侯爵はうっかり見惚れてしまったのだった。
***
そして三人は、夏でありながら爽やかな気候の観光地を満喫していた。ちなみにマーモットのマシューおじさんは、今回はお留守番である。正確には旅行に連れていきたいとテッドは言い張ったのだが、当のマシューおじさんの姿がとこにも見当たらなかったため、結果的にお留守番となったのだった。今頃、畑の野菜をもちゃもちゃと食べているに違いない。
アンナたちが向かったのは、王国屈指の避暑地だ。ここにある湖は特に有名で、肩越しに銅貨を投げ入れると湖の神さまが願い事を叶えてくれるのだという。せっかくだからと侯爵が銅貨ではなく金貨を惜しげもなく投げようとするものだから、アンナは止めるのに大層苦労した。
湖に沈んだお金はこの湖を管理する神殿が回収し、湖の保全と救護院などの慈善事業に使われるのだという。うっかり金貨を投げ込んでしまえば、その金貨を回収するまで必死になって探す人間が出てきかねない。そもそも先ほどから観光地の売り子業をしている子どもたちが、侯爵の持つ金貨に釘付けになっているのだ。思わぬ事故を避けるためにも、申し訳ないがなにとぞ銅貨でとお願いすることになった。
「だが、貴族というのは面子が大事で」
「そんなに面子が大事でしたら、後ほど神殿に寄進なさってください。きっとみなさんお喜びになるでしょう」
「僕、投げるならお魚のエサの方がいいなあ。あそこに売ってるよ」
そんな感じでごたつきながらもなんとか銅貨を投げ、願をかけてみる。
「アンちゃんは一体何を願ったの?」
「それは内緒」
「ええ、聞きたい!」
「でも、お願いごとを教えてしまって叶わなくなったら困るもの」
「え、お願いごとって他のひとに教えちゃいけないの?」
「わからないわ。でもわからないからこそ、秘密にしておいたほうがいいのではないかしら」
「そっかあ。うん、そうかも。じゃあ、僕も内緒にしておくね」
「わたしも胸の中にしまっておこう」
三人は顔を見合わせてうなずき合った。
避暑地とはいえ、夏の盛りはそれなりに気温が高い。湖畔の周りを歩いていれば、どうしても喉が渇いてくる。ハンカチで汗をおさえるアンナを見て、侯爵がはたと気が付いたように申し出てきた。
「飲み物を買ってくる。君はここで待っていてくれ。無理を言って使用人を置いてきたというのに、気が利かずにすまない」
「いいえ、かまいません。むしろ、閣下こそお待ちになっていてください。私が買ってまいります」
「いや、大丈夫だ。エドワード、行くぞ」
「はあい。アンちゃん、すぐに戻ってくるから待っててね!」
きゃっきゃとはしゃぎながら、父子が屋台へと向かっていく。買い物姿ひとつとっても絵になるふたりに、アンナはしみじみと見入っていた。
先ほど湖でアンナが願ったのは、家族の幸せだ。複雑な事情を持つ彼らだけれど、お互いに支え合って笑顔で暮らしてほしい。そんなささやかだが、譲れない願いだった。
ふとアンナは、人込みの向こう側にどこか見覚えのある人物がいるような気がした。それが気のせいではないことに気が付いたのは、その見覚えのある人物がすごい勢いでずんずんとこちらに向かってきていたからだ。
「イーノックさま、どうしてここに?」
「そんなのどうだっていいだろ」
どこか焦ったような顔をしながら近づいてきたのは、アンナのかつての婚約者だ。気おされて一歩下がろうとしたアンナだったが、イーノックに腕をつかまれた。
「は、離してください。どうしたの、あなたらしくないではありませんか」
「あんたは今、幸せか?」
「え?」
「結婚した日から、離れでひとりで暮らしているって聞いた。そんなのおかしいだろ?」
「離れで暮らしているのは事実ですが、でもそれは私自身が望んだことでもあって」
「俺は、また間違えたのかよ」
確かに間違いを犯したのは事実だ。なにせ婚約者であるアンナを捨てて、異母妹に乗り換えたのだから。けれど実家にいた頃も、そして今も、イーノックが幸せそうに見えないのはなぜなのだろう。前世の元夫のように、浮気中に頭がお花畑になった様子などない。いつも自分の意見を言えずに周囲の意見に流されもごもごしていた彼が、どうして今になってこんなに必死な様子を見せてくるのか、アンナにはわからない。あまりにも彼らしくない、違和感が大きすぎる。まるで、別人かと疑いたくなるくらいに。
「もしも侯爵家から逃げ出したいのなら、どんな手を使っても逃がしてみせる。あんたを放置するオッサンや、わがままなチビの世話に追われる毎日なんて地獄だし、無意味だろう? もっとちゃんと幸せになれよ」
「何をおっしゃっているのです」
アンナは、なぜか悲壮感さえにじませる元婚約者の姿に頭が痛くなった。そもそも、ここまで好き勝手に言われる必要がどこにあるというのか。加護に力を込めて無理矢理手を解けば、信じられないと言わんばかりにイーノックが目を見開いた。
「心配してもらわなくても、私は十分幸せですわ」
イーノックは、もはやアンナにとって過去のひとだ。何よりようやっと家族になったばかりのテッドと侯爵のことを悪く言われるのだけは我慢ならなかった。




