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「侯爵家から逃げ出したくなったか?」
「どうしてそのようなことを?」
「わたしが言うのもなんだが、侯爵家に輿入れしてきてから散々な目に遭っているだろう」
自嘲気味に侯爵から尋ねられ、アンナは少しばかり答えに窮してしまった。何せ、侯爵の言う通りなのである。虐げられた実家から輿入れしてきたと思ったら、侯爵に敵認定された。テッドと仲良くなったのもつかの間、彼の食事に毒を盛ったと疑われた。あげくの果てには、初対面であり生存さえ知らなかった前妻から罵詈雑言を受けたあげく突き飛ばされた。
「もしも逃げ出したいと言ったなら、見逃してくださるのですか?」
「残念ながら、諦めてもらうしかないな」
「ご安心ください。侯爵家から逃げ出すつもりなら、そもそも彼女を屋敷内の隠し部屋に運ぶ手伝いなどいたしませんよ。わざわざ面倒ごとに首を突っ込んで、共犯になる愚か者がどこにいるのです」
「君はなんだかんだ言って、おひとよしが過ぎるからな」
アンナはふっと小さく笑いを漏らした。テッドに関わると決めたのはアンナ自身だ。誰にとって人道的であるかはともかく、法的には正しくないとわかっていて、隠蔽工作に加担することを決めたのもまたアンナなのである。さすがに隠蔽工作を手伝うことになったのは正直予想外ではあったのだが。
「まさか『聖者の指輪』への魔力供給が始めると、装着者が移動できなくなるとは思いませんでした」
「正確には『聖者の指輪』の横取りを防いでいるのだろうな。まあそもそも魔獣の魔力であればすぐに『聖者の指輪』への魔力供給は終了するし、そのまま使用することになるそうだから、移動や保管について配慮する必要がなかったのかもしれない」
先ほど情報漏洩を防ぐために仕方なく侯爵が前妻を抱えようとしたところ、火花が飛び散り完全に拒否されてしまったのだ。引きはがしても引きはがしても、鬱陶しいほどに自分に粘着してくる前妻の姿しか知らない侯爵は、前妻――正確には、前妻に絡みついた「聖者の指輪」――に拒まれたことに衝撃を受けていたのだった。
そして不思議なことになぜか前妻に触れることができたアンナは、先ほど授かったばかりの加護の力をさっそく発揮することになった。その細腕でこんこんと眠り続けるテッドの母親を持ち上げると、隠し部屋へと運んでしまったのである。今はアンナと侯爵が迎えにくるのをただひたすらに待っているであろうテッドを、彼の自室まで迎えに行くところだ。意を決したように、アンナが侯爵に質問を投げかける。
「閣下は、テッドのことを大切な存在だと思っていらっしゃいますか?」
「もちろんだとも」
「それは便利で仕える政略の駒という意味ではなく?」
「当然だ、何を疑うことがあると言いたいところだが。わたしが息子をただの侯爵家の跡取りとして大事にしているだけで、エドワード個人を尊重しているようには見えなかったということだな」
侯爵は怒り出さなかったが、相当に失礼なことを言っている自覚はある。かすかにアンナはうなずいてみせた。
「エドワードへの接し方がよろしくないという話だったが、わたしなりに誠実に対応したつもりだ。そもそも、わたしの両親も祖父母も似たような態度でわたしと接していたのだよ。わたしはわたしなりに、自分自身が経験した形でエドワードを大切にしているつもりだったのだ。まあどうやら侯爵家は、結婚だけではなく、子育ても失敗しているようだがね」
人間は自分が学んだようにしか、ひとに接することができない。自分が経験したことのない新たな振る舞い――社会的にふさわしい振る舞い――を身につけるには相当な努力が必要となるのだ。虐待が連鎖する一因でもある。自分に与えられていないものを、それでもアンナに指摘されたことでエドワードに与えたいと考えているらしい侯爵の姿は、アンナにとって非常に好ましいものだった。
努力ができる人間が好きだ。必ずしも努力は報われるものではないけれど、できないこと、向いていないことにあぐらをかいて、役割を放棄するよりもずっとずっと美しい。そもそも最初から完璧な父親や母親なんていないのだ。赤子が生れ落ちてから少しずつ人間らしい生き方を学んでいくように、父親も母親も一緒に成長していくしかない。今までの侯爵のやり方が間違っていたというのならば、これからよりよい道を進めるように努力してばよい話なのである。
「テッドが大切だという気持ちは、私も一緒です。食事会のあとにテッドとの時間がほしいとお願いしましたが、もう少し欲張りになってもよいでしょうか。テッドを幸せにするため、閣下と一緒に努力していけたら嬉しく思います」
「君がそばにいてくれたらエドワードはさぞかし喜ぶだろう」
「それでは、改めましてどうぞよろしくお願いいたします」
「アンナ。君が輿入れしてからのわたしの振る舞いについて改めて謝罪させてほしい」
侯爵が言いにくそうにしながら頭を下げた。侯爵の発言と行動は、本当に酷いものだった。侯爵が自分を嫌うから、ジムとテッド以外はアンナのことをいないものとして扱ったくらいだ。それでも、侯爵が悪女を憎む理由、侯爵が結婚相手に警戒心を持つ理由を理解してしまえば、アンナは仕方ないと思えてしまうのだ。
「大丈夫です、閣下。もう十分、お気持ちは伝わりましたから」
「だが、これから家族としてやり直すのだ。何度でも謝らせてくれ」
「え?」
「そして、どうか私のこともエドワードと同じように名」
「あ、父さま! アンちゃん!」
「まあ、テッド。お部屋から飛び出してきては危ないでしょう」
「だって、待てなかったんだもん。ジムももう安全だって」
「いけません。危険はいろんなところに潜んでいるのだから」
侯爵の言葉が可愛らしい幼子の声でかき消される。自分を迎えに来てくれたことに気が付いたのだろう。良い子にお留守番をしていたテッドは侯爵のようやく言えた言葉を完璧に吹き飛ばしながら、廊下に飛び出してきたのだった。




