(22)
妖精もかくやという最初の雰囲気はどこへ行ったのか、悪鬼のごとき金切り声を上げる女にアンナは告げた。
「そのジャム、テッドが作ったんです」
「はあ? 何を言っているの?」
「ですから、テッドが頑張って作ったジャムをあなたがひっくり返して、ダメにしたんです。テッドに謝ってください。この時期に、汗だくになりながら煮詰めていたんですよ」
先ほどアンナが女に突き飛ばされた際に、テーブルに置かれていた料理は相当数がひっくり返りぐちゃぐちゃになってしまった。そしてテッドが頑張って作っておいたブルーベリージャムも、テーブルから床にひっくり返ってしまっていたのである。自分の右手がべっとりとジャムまみれであることに気が付いたアンナは、しっかりとテッドの母親の顔に塗りたくってやっていたのだった。
「可愛いお子さんの手作りです。お味は最高だったでしょう?」
「冗談でしょう? このドレスが一体いくらしたと思っているの!」
「……君がわたしの手を取ってくれなかったのは、わたしの手を汚さないためだったのだな。そんなこと、気にする必要なんてなかったのに。いじらしいひとだ」
「ええと、何をおっしゃっているのですか? ただ閣下に手を貸していただく理由がなかっただけですが?」
ふたりのやりとりを聞いた侯爵は、アンナが差し出した自分の手を拒んだ理由が自分を嫌っていたからではなく、手が汚れていたからだと解釈し、勝手に喜び始めた。もちろんアンナは、たとえ手が汚れていなくても侯爵の手を借りるつもりなど髪の毛一筋ほどもなかったため、侯爵の発言が理解できずに思い切り首を傾げている。
「ジャムなんかどうでもいいじゃない。そもそも自分で料理をする必要がないのに、どうしてそんな身分の低い人間みたいなことをしているのかしら。まったく、昔から相も変わらず面倒で恥ずかしい子だこと」
「そろそろその口を閉じていただきたいのですが」
テッドに謝るどころか彼の行動を馬鹿にする女に、アンナは怒りをこらえきれず目を吊り上げた。とっさに両のてのひらでテッドの耳を塞いだが、どこまで聞かせずに済んだのか。幼子にあるまじき、どこか凪いだ表情をしているテッドが心配になる。
「テッド、先に大人だけでお話をしてくるからジムや護衛のひとと一緒にテッドのお部屋で待っていてくれる?」
「嫌だ! 僕はアンちゃんたちと一緒にいる! 僕のことについての話し合いなのでしょう? どうしてここにいちゃいけないの?」
「あなたに嫌な気持ちをしてほしくないからよ」
「一緒に聞けない方が、もっと嫌な気持ちになる! 出ていきなさいって言われている、今だってもうとっくに嫌な気持ちなの!」
「閣下も何かおっしゃってください!」
「侯爵家の嫡男であれば、何事にも動じるべきではない」
「閣下!」
テッドを外へ連れ出そうとするが、テッドは首を縦に振ろうとはしない。珍しく地団駄を踏んで暴れるテッドに、アンナはどうするべきか悩んでしまった。ただのイヤイヤならテッドの気が済むまでその理不尽さに付き合えばいい。安全さえ確保できているのなら、それに付き合うだけの余裕が現世のアンナにはあった。
だが、その「安全」が今の状態では保証できないのだ。テッドの母親がまともな発言と行動をするはずがないという嫌な確信がある以上、ここに同席させる訳にはいかなかった。
「本当に、今も昔も育てにくい子どもだこと」
「は?」
ごねるテッドを見て、まるで他人事のようにテッドの母親がため息を吐いた。一瞬低い声を出した後、慌ててアンナはテッドの耳をふさぐ。
「生まれた時から夜は寝ない、母乳は飲まない。抱っこしておかなければ泣き叫ぶ。いつになったら楽になるかと周りに尋ねても、大きくなれば落ち着くと言われるだけ。わたくしは、あの時すぐに楽になりたかったの。そもそも乳母を雇いたいのに、許可が下りないなんて納得いかないわ」
「それは平民や下級貴族の間であれば珍しいことでは」
「あら、わたくしは上級貴族だもの。子育ては乳母の仕事よ。そもそも、自分の乳をあげたりなんてしたら胸の形が崩れてしまうではないの。侯爵夫人の心得だかなんだか知らないけれど、嫌なのを我慢してこちらも努力しているのに、生まれてからちっとも体重が増えず、まるでわたくしの努力が足りないように責められてもううんざりだったわ」
彼女の気持ちもわからないではない。確かに上級貴族の女性は、自ら子育てしないことの方が多いのだ。ごくまれに、自身の手元で育てることを望む女性もいるが、その場合でも教育という観点から必ずしも許されるわけではないものだったりする。自分ひとりだけがなぜこんな使用人のような真似をという想いは、彼女の中でずっとくすぶっていたのかもしれない。だがそう思うことと、それを子どもの前で口にしてよいかということはまったくの別問題だ。
「あまりにも体重が増えないからと、前倒しで離乳食とやらを用意する羽目になったのも忌々しい。わたくしがわざわざてずから離乳食を与えてやっただけでも感謝してほしいのに、こちらに向かって吐き出してきて全身を汚される毎日。最悪だったわ。せっかく食べさせても、すぐに吐いたり、下痢をしたり、じんましんを出したり。他の家の赤ん坊と違って本当に汚らしかったし、みっともなかったの。どうして普通に食べて、普通に寝てくれなかったの? でも、問題の原因がわかったのでしょう? 昨日、侯爵家から連絡が来て、詳細は教えてもらえなかったけれどぴんと来たの。そして、ここに来てみたら、理想の息子がいるじゃないの!」
なるほど、赤子時代のテッドの健康状態を母親に確認しにいったらしい。よほどこの女は、テッドの不調を隠すのがうまかったようだ。それとも、体重がうまく増えなかったことを周りがもっとしっかりフォローできていたら、こんな風にアレルギーの症状を隠すような事態にはなっていなかったのだろうか。今さら考えても仕方のないことだと、アンナは小さく頭を振った。
「まあ、聞き分けのないところはあるようだけれど。それでも今の可愛くて、健康なエドワードなら息子として可愛がることができるわ。そもそも血の繋がった家族が一緒に暮らすことの方が自然でしょう? さあ、エドワード。わたくしの元へいらっしゃい」
アンナの両腕をはねのけて、誘いの言葉を女はかける。期待に目を輝かせる女に向かって、テッドが叫んだ。
「アンちゃんが今の僕の母さまだもの! 僕、アンちゃんと父さまと一緒に暮らすんだから!」
「ふざけんじゃないわよ!」
テッドの母親は、取り繕うことすらやめたらしい。口が裂けたかと思うほどに大きく開くと許しがたい言葉を口にした。親として、絶対に言ってはいけない言葉だった。
「本当に可愛くない。もともとわたくしは、ウォルトさまと結婚したかっただけなのに。まったく、お前なんか産」
そこまで言った瞬間、アンナが目にもとまらぬ速さで右手を振り上げた。そしてしたたかに頬を打たれた女は、鮮やかに宙に吹き飛んだのである。




