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「か、母さま……? 何をおっしゃっているの? アンちゃんはとっても優しいんだよ?」
「あら、でも母さまなのは母さまだけでしょう。それが何よりの証拠よ。本当にかわいそうに。あの女の料理のせいで、倒れただなんて」
「違うよ、それはアンちゃんのせいじゃないんだってば」
「大丈夫。これからは、わたくしがあなたを守ってあげるわ」
目の前でテッドを抱きしめて離さない麗しい女がテッドの母親だと知り、アンナはなるほどと納得した。周囲には死んでいると話していたテッドの母親が生きている、この事実だけでこの女がどれだけ危険なのかなんとなく理解できるというものだ。
「怪我はないか? 手を」
「いいえ、結構です」
「……そうか」
差し伸べられた侯爵の手を取ることなく、ゆっくりと自力で起き上がったアンナは、侯爵にのみ聞こえるように小声でつぶやいた。
「私のことなどどうでもよいのです。それよりも早くテッドを引き離さないと」
「わたしが近づくことで、逆上されるのが一番まずい。何をするのか予想できない。わたし以外の人間には、そこまで執着しないのだが」
「なるほど。そういう方ですのね」
息子が大事なら死ぬ気で守れと怒鳴りたくなるのを必死でこらえながら、アンナはあえて淡々と返事をした。自分の思い通りにならないこと……それこそ個人の力でどうしようもない事情にまで、自分の希望に沿うべきだと無茶を言う人間はどこにでも存在する。なんとも傍迷惑なことに、テッドの母親もまたそういう人間だったらしい。
「死んでいたと言われていた人間が現れたというのに、大して驚かないのだな」
「これでも多少は驚いておりますよ」
まあ驚いたのは、相思相愛のおしどり夫婦というかつての侯爵夫妻の話がすべて作り話であったということなのだが。この調子だと、社交の場に出てこなかったのも、溺愛どころか対人トラブルを起こさないようにするための苦肉の策だったのだろう。
そもそも死んだ扱いにされている人間というのは、前世春香の暮らす日本ではたびたび耳にした話だ。死んだと思っていた父親が実は借金を残して蒸発したクズだったとか、死んだと思っていた母親は夫に愛想を尽かして出ていっていただけだったとか。時代によっては珍しくもなんともなかった。
なんだったら、前世の春香は離婚後しばらくしてから死んだが、夫の実家周辺では都合よく元夫は妻と死別したということにでもなっているに違いない。なにせ浮気をして離婚からの再婚ではご近所からの嘲笑の的だが、最愛の妻に先立たれ涙に暮れていたところを慰めた後妻という形であればこの上ない美談になるのだから。
「さあ、今日からはまた家族三人で暮らしましょう。わたくし、お料理が上手になったのよ。テッドの大好きなレモンパイを作ってあげるわ」
「僕、レモンパイは嫌いです!」
「ふわふわのメレンゲに、甘酸っぱいレモンカスタードクリーム。バターたっぷりのパイ生地がお口の中でさくさくと素敵な音を奏でるの」
「うっ」
テッドの母親には小声で話すアンナと侯爵の会話はもちろんのこと、先日食事会で倒れたことを思い出して青い顔をするテッドのうめき声さえ聞こえないらしい。まあ、正確には聞こえていないのではなく、聞く気がないだけなのだが。春香の元夫もそうだったが、ひとの話を聞かない人間は自分以外の人間も自分と同じように感情を持って生きているという感覚がないのだ。自分以外はみな等しく、自分を彩るための背景であり、自分が不快にならないように努力すべきだと当たり前に考えている。自然すぎて、そう思っていることにさえ気が付いていないからこそ、彼らは恐ろしいのだ。
「おそらくあやつは、出産と同時に常識までひり出したのだ」
「閣下。失礼ながら、目の前の方は昔からあのような調子だったのでしょう。確かに出産も子育ても大変なことですが、誰も彼もがあのような獣になると思われては心外です」
「言葉が過ぎた。すまない。少なくともわたしが知っているテッドの母親は、このように話の噛み合わぬ状態の姿のみだ」
「……それは。いえ、今大事なのはテッドのことです」
どことなく侯爵の言葉にひっかかりを覚えたが、その違和感は一度無視することにした。自分勝手な言葉を垂れ流す女から、どうやってテッドを引き離すか。それが問題だ。だがありがたいことに、テッドへ甘い言葉をささやいていた女は、叩きのめすべき悪女が立ち上がっていたことにようやく気が付いたらしい。今度はアンナに言葉の照準が合わせられた。
「まあ、そのような小汚い姿にならなければ、自分が侯爵夫人にふさわしくないことを理解できないだなんて、悪女というのは本当におかわいそう」
流れるような罵倒だが、アンナは表情を変えることなく女に近づく。反論されないのは自分が正しいことの証明だと判断したのか、テッドの母親の罵詈雑言はますますひどくなった。
「なんとか言ったらどうなのかしら。ああ、全部真実ですもの。否定する術すらお持ちではないのでしょう?」
ふふんと鼻で笑いあからさまに煽ってくる女に対して、アンナはそっと右手を伸ばす。女の矛先が自分に向いた今こそがチャンスなのだ。女は一瞬その身を強張らせたが、自分の勝ちを確信したのか後ろに下がったり、避けたりするような素振りは見せなかった。
「まあ、事実を述べられて言葉に詰まったら暴力だなんて、これだから下級貴族の女というのは、本当に下品で見苦しい生き物だこと。あちらだけではなく、頭まで緩いのね」
正直なところ「股が緩い」なんて言葉をテッドの前で使ったら容赦なく締め上げるつもりだったが、ぎりぎり伏せられていたのであえて追及しないことにする。藪をつついて蛇が出てはかなわない。まだテッドには早い言葉なのだから。
そしてアンナは妖精のように美しい女の顔をゆっくりと撫でた。張り手ではない。あくまで子どもの頬に触れるような優し気な手つきで、頬からドレスの胸元まで一気に撫でつけられ、一瞬女が困惑する。
なんとなく、まさに無意識の行動なのだろう。先ほどまでアンナの右のてのひらが覆っていた頬に自身の左手を当てた。そして数秒の後に、女が絶叫したのだ。
「一体、どういうつも……ひいっ、わたくしの顔に紫色の汁が! いやあ、悪女がわたくしにこんな汚らわしいものを。ああ、なんてこと。ようやっと手に入れたドレスにまでべとべととした紫の汁が染み込んでいるなんて。あの悪女はわたくしを呪い殺すつもりなのだわ! しかもなぜか羽虫がわたくしの元に。虫なんてわたくしにはふさわしくないのよ。いやあ、悪女は魔女だったのだわ!」
小さな羽虫を追い払いながら、悲鳴をあげてしゃがみ込む。その間にアンナはテッドの手を取り、侯爵の後ろに立たせたのだった。




