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 テッドの容態が落ち着いた頃、アンナは静かに侯爵に頭を下げた。


「閣下、約束を守ることができずに申し訳ありません」

「……約束というのは」

「『息子の情操教育にさしさわりが出る。接触は控えてくれ』とおっしゃっていたでしょう? ご子息の健康状態にかかわる状況でしたので、申し訳ありませんが人道的な観点からお許しいただけたらと思います」

「いや、こちらこそ疑ってすまなかった。君はわたしなどよりもずっと、テッドの抱える事情を理解していたというのに。わたしは息子の目が悪いことにも、特定の食べ物が受け付けないことにだって気が付いていなかった」


 意外なほど素直に頭を下げられて、一瞬アンナは呆けてしまった。アンナが頭を下げれば、「よい、許す」とばかりに鷹揚にうなずくだろうと思っていたのだが、殊勝な態度に調子が狂う。そもそも前世が日本人なせいだろうか、真摯に謝られると「大丈夫ですよ」と言ってしまうのだ。


「閣下、どうぞお気になさらず」

「だが、あれほど犯人扱いをしたのに」

「大事な家族を守るために、周囲を警戒するのは父親の役目でもあります。正直に申し上げまして、初夜の際のやりとりや、ジム以外の使用人の態度は失礼ながら肯定しかねますが。それでも、前妻を悼むことなく後妻と後妻との間にできた子どもにかかりきりとなるよりはよほどよろしいかと」

「……それは」

「失礼、無駄口を叩きすぎました」

「いや、君がそう思うのも当然のことだろう。お詫びに何か贈らせてはもらえないだろうか」


 そこでしばらく思案し、アンナはぽんと手を打った。


「それならば、どうぞ時間をいただけないでしょうか」

「時間? 何の時間だ?」

「テッドが自分の身を自分で守れるようになるまでの間でかまいません。私が、テッドとかかわることをお許しいただきたいのです」


 アンナの回答に、侯爵は渋い顔をした。ああ、いくら口先で感謝を述べたところで自分への嫌悪感がなくなることはないらしい。それでも、テッドがこれからも子どもらしくのびのびと成長するためにはどうしても必要なことなのだ。


「屋敷の中の食事はこちらが気を付けるだけで済みますが、これから貴族として社交をこなすのであれば、自衛の手段を学ぶことも必要です。不用意に食事を口にしないためにも、材料に気を配るだけでなく、躱し方を学ぶ必要があるでしょう」

「確かにそうだな」

「私のような女を御子息とかかわらせたくないという閣下のお気持ちはごもっともです。ですが、これはテッドのために必要な時間であることをご理解ください」

「……なるほど」


 先ほどよりもさらに眉間の皺を深くしながら、侯爵は絞り出すような声を出した。


「本来であれば、私などこの屋敷を出ていった方がよいのでしょうけれど。テッドの体調管理以外にも、気になる点が見つかりましたのでそちらの調査も必要かと思われます」

「薬草園の件だな」

「はい。この屋敷の薬草園は、代々侯爵夫人が管理することになっているのだとか。私は管理した記憶はありませんが、お医者さまがおっしゃっていたマーモットには心当たりがございます。私がいなくなることで、どんな影響が生まれるのかわからない以上、不用意な離婚はおすすめできません。新たな縁談に悩まされることがわかっていてもなお離婚をご希望される場合には同意いたしますので、諸々の問題が片付いた後でお願いいたします」


 きっぱりと言い切るアンナに、侯爵が目を丸くする。まるで、予想外の言葉を聞いたでも言いたげな反応だった。


「君は、侯爵夫人という地位に未練はないのか?」

「まあ、侯爵閣下。この結婚の申し込みがあった時点から、お飾りの妻をお求めであることは承知しておりましたわ。訳ありの女に声をかけるのですもの、理由くらい簡単に想像がつきます。そしてそんな場所へ輿入れしたところで、それ相応の扱いになるということも」

「それならばなぜ、君はここへ来たのだ。自ら望んで蔑まれたい人間がどこにいる」


 今度はアンナが目を丸くする番だった。侯爵はよほど世間を知らないらしい。そういえば、侯爵家はやり手の先々代のおかげで公爵家に肩を並べるほどの権勢を誇っている。首を垂れるしかない下々の気持ちなど理解できないのかもしれない。


「閣下。この世界には、自分の考えや希望があったとしてもそれを実行することができない人間が多くいるのですよ。それは決して個人の怠慢や努力不足などではありません。環境が、それを許さない場合があるということを覚えておいてください」

「……つまり、何かわたしは思い違いをしているというのだな?」

「世界の見え方が違うだけですわ、閣下」


 再び黙り込んだ侯爵を前に、アンナもまた頬に手を当てて考えてみた。テッドの面倒を見るのであれば、侯爵との交流はおそらく避けられない。それならばここはどうにかして歩み寄るべきなのだろう。


「ひとまず、相互理解の一環として一緒にお料理をいたしましょう。テッドが今後気を付けるべき事柄は、閣下も理解する必要があります。そしてそれは机上で学ぶよりも、実際に食事を作りながら覚えることが大切です。ちょうど今から、料理長と話をするつもりなのですが同席していただけますか? 閣下の御威光を最大限に利用したく存じます」

「……君は、あの料理人に挽回の機会を与えるのか?」

「そもそも、テッドの事情を知った人間を外に出す方が危険です。あくまで私の推測ですが、お医者さまにまでかなり強力な誓約を課していたのです。使用人がこれらの情報を知りえた場合には、屋敷の外に出られないような呪いでも発動するのではありませんか?」

「そんな馬鹿な……」


 そう言いかけた侯爵の発言は、門の方から聞こえてきた悲鳴にかき消された。窓の向こうや廊下で騒ぎ立てる使用人の声を繋ぎ合わせると、どうやら納品に来た業者の忘れ物を届けようと門の外に出た瞬間に、雷にでも打たれたような音がして倒れ込んだらしい。テッドの部屋にいる医師を呼ぼうとしているのだろう、ばたばたと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。


 もしもこの先侯爵と離婚することがあれば、自分も屋敷の外には出られないかもしれない。その場合には、使用人として雇ってもらうことにしようとアンナはさっさと決めたのだった。

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