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「アンナ、お前の結婚相手が決まった」
アンナが父親にそう告げられたのは、成人を迎えた日の朝のことだった。顔を合わせて、「おはよう」や「お誕生日おめでとう」を言われるよりも先に、結婚相手について言及されるとは。よほど彼女のことを屋敷から追い出したくてたまらなかったらしい。まあアンナの実の母親が亡くなった際に、一緒に死ねばよかったと言い捨てたくらいである。毒殺されずに成人を迎えられただけでも感謝しなくてはいけないのかもしれなかった。
アンナと父親のやり取りを、継母と異母妹は笑いをこらえながら眺めていた。瞳をぎらつかせながら口角を上げている。きっとアンナが輿入れすることで、たんまりと支度金がこの家に入る算段になっているのだろう。通常ならばその支度金で、ドレスやらアクセサリーやら結婚に必要なものをそろえることになっているのだが、アンナは着の身着のままで嫁ぐことになりそうだ。
「お相手をお伺いしても?」
「キャリントン侯爵家のご当主ウォルト殿だ」
「……まあ、それはそれは」
キャリントン侯爵家のご当主さまと言えば、大変な愛妻家で有名だった。何せ繊細な妻に負担をかけたくないと、茶会や夜会にも参加させずにいたほどの溺愛っぷり。けれど、奥方はもともと身体が弱かったらしく、流行病であっという間に命を落としてしまったそうだ。
おしどり夫婦で有名だったご当主さまなのだ。ひとり身を貫くのではないかと思っていただけに、喪が明けてからすぐに嫁探しを始めていたことは少々意外ではあった。けれど、アンナはすぐに考え直す。侯爵家の当主の奥方ともなれば、後釜に立候補する女性は自薦他薦を問わず大量に発生するのだろう。それこそ、侯爵は死ぬまでその手の話題に煩わされるに違いない。
解決方法は、適当な女性と結婚して空席を物理的になくしてしまうこと。さらに言うならば、家格が下で適当に扱っても誰も気にしないような評判の悪い令嬢であれば大変都合がいい。結婚してもらえるだけありがたい女性が相手であれば、良心を痛めることなく白い結婚前提のお飾り妻としてもらい受けることができるのだから。
そしてアンナの存在は、まさにおあつらえ向きのものだったのである。何せ彼女の実母は既になく、贅沢三昧する継母と異母妹のせいで実家の家計は火の車。さらに品行方正とは言い難い異母妹は、アンナの名前を使って夜遊びし放題だ。アンナの名誉は、地に堕ちている。
なるほど、そういうことか。ため息をつきたくなるのをこらえながら、もろもろを理解し、承諾の意味を込めてうなずいてみせた。世間一般の初心なご令嬢であれば心が折れて卒倒していたかもしれないが、気を失うことすらできないアンナは苦笑いを浮かべるよりほかに仕方がなかった。
「なんだその目は。何か文句でもあるというのか?」
「いいえ、まさか。この世界の娘は、生まれては父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子どもに従うもの。どうして文句などありましょうか」
アンナの返事に、父親は鼻を鳴らすばかりだ。アンナの知る父親は、だいたいいつもこんな表情をしている。何か汚いものを見るような顔で、彼女を見つめているのだ。継母や異母妹に見せる表情とまったく異なるのは、父にとってアンナは無理矢理娶らされた女が産んだ憎たらしい子どもだからなのだろう。
それならばいっそ、自分のことなど捨て置いてしまえばよいものを、都合の良いときだけ存在を思い出されるなんて迷惑千万だ。あるいは、嫌いな相手だからこそ痛めつけたいのか。頭痛をこらえていれば、耳障りな甲高い笑い声が響き渡る。
「お姉さまったら、お気の毒ね」
「その割に悔しそうな顔ひとつしないんだもの。本当につまらないわ」
「でもせっかくだから、みんなに伝えなくっちゃ。そうよ、彼に伝えればきっと喜んでくれるはずよ!」
ちっとも可哀想だとは感じさせない声音で笑い転げていた異母妹が、良いことを思いついたと言わんばかりの笑顔で使用人を呼びつけていた。どうやら、愛しの婚約者さまにこの件を報告するつもりらしい。何でも自分から話してしまう異母妹と、聞かれれば何でも答えてしまう気弱なアンナの婚約者。彼らのおかげで、アンナの婚姻はあっという間に社交界中に広がるに違いない。
もともとアンナの婚約者だった男は、アンナの話が広がった結果、自分たちの過去の話も蒸し返される可能性があることを考えているのだろうか。まあわかっていても、知っていることを知らないなんて嘘は吐けない彼のことだ。質問攻めになるだろうが、それくらい甘んじて我慢してもらおう。それが婚約を解消した際に慰謝料も何ももらえなかったアンナからの、ちょっとした意趣返しとなればよいのだが。
「薄ら笑いを浮かべて、まったく気味が悪い。さあさあ、善は急げというじゃないか。荷物をまとめ次第、侯爵家へ向かう。わかったな」
そしてアンナは成人を迎えた特別な誕生日を祝われることもなく、嫁ぎ先へと放り込まれたのである。