第6話「バンザイ」
ニュースのコメンテーターが、こう語っていた――「逃げたい気持ちも尊重されるべきです」。
「逃げるのは恥じゃない」――そんな言葉が、SNSで静かに広まりつつあった。
だが、利漢はスマートフォンを握りしめながら、つぶやいた。
「いったい……どこへ逃げるんだよ」
ネットニュースには、転売、盗難、錯乱、密航の噂が絶えない。
ある組織が、“投降者”に食料と保護を約束しているという。
実際、職場の同僚が家族ごと姿を消した。無断欠勤として処理されたが、その裏には配給と引き換えの“投降”があったのかもしれない。
利漢は考える。
金はまだわずかにある。しかし、それも尽きる日は近い。
親の様子もおかしい。何かを相談している気配がある。声をかけるべきか――だが、口には出せない。
子どもたちは日に日にやせ細っていく。妻は、無理に明るくふるまっている。
利漢は知っていた。もう限界が近い。
――家族全員で生きる道を、俺が見つけるんだ。
ある朝、父がぽつりと口にした。
「……わしらだけでも、向こうに渡る、というのはどうだろう。これ以上、負担になりたくない」
「そんなことはない。子どもの面倒も見てくれてるし、料理も作ってくれる。毎日、山菜を探して歩き回ってくれてるじゃないか」
「もし行くなら、みんな一緒だ」
父はしばらく黙り込んだ。
その夜、家族会議が開かれた。誰も声を荒げることはなかった。
だが、沈黙の重さがすべてを物語っていた。
食料は尽きかけていた。
小麦は封鎖の影響で輸入が激減し、価格は急騰。パスタもカップ麺も手に入らず、パン屋は店を閉め、冷凍食品も市場から姿を消していた。
そんな中、ある組織からの“呼びかけ”だけが、毎日のようにネットに流れていた。
《あなたの命、大切にしませんか?》
《家族を守る、もう一つの道》
《まずは登録を。その後、船をご案内します》
登録した者の家には、無人機がやってくるという。地図と指示、そして船着き場への案内を携えて。
どこまでが噂で、どこからが事実なのか。
しかし、父は早朝に見たという。
――あの家族は、朝の霧の中、手をつないで港へ向かっていた、と。
その光景を想像した瞬間、利漢の胸の奥に、ずしりと重い痛みが走った。
背中に誰かの手が添えられたような――いや、自分自身がその手にすがりつこうとしているのかもしれない。
それは絶望ではなく、“選択肢”という名の、ただひとつの救いにさえ思えた。
(俺たちに残された道は、それしかないのか)
その夜、布団に入った利漢は、スマートフォンの画面を見つめていた。
あの「登録サイト」が、検索結果の上位に表示されている。
指が震えながら、リンクを開く。
(こんなの、ただの詐欺じゃないのか――)
そう思いながらも、画面を閉じることができなかった。
(……いや、俺たちには、もう失うものなんて――)
《家族を守る、もう一つの道》
スクロールの先、画面の下に、ひときわ目立つボタンが現れる。
《登録する》
それは、まるで静かに手招きしているかのようだった。
利漢は、しばらくのあいだ、そのボタンをただ見つめ続けていた。