セイナ・クレヴィス1 西暦2150年 火星自治圏
窓の外の火星の空は、今日も完璧に青かった。
高度な可視スペクトラム合成で再現された「地球の青空」。火星都市ドームの天蓋に映るそれは、温室用アルゴリズムによってゆっくりと雲を流し、穏やかな朝の陽射しすら演出していた。
だが、それが“偽物”であることを、セイナ・は生まれたときから知っていた。
彼女は“火星生まれの人類”だ。地球を見たことも、踏んだこともない。
母は地球出身で、かつてオセアニア共同文化庁の派遣員として火星に渡った。父は火星出身2世で、ドーム基礎の補修に従事していたと聞く。
セイナ自身は、地球に何の郷愁も抱いていない。
火星は彼女にとって現実であり、地球はニュースの中で聞く単語に過ぎなかった。
とはいえ、地球という星が無関係だったわけではない。
2150年の現在、人類文明の中心は依然として“地球圏”と呼ばれる領域に集中している。
地球本体、月軌道連邦、火星自治圏、木星の研究前線、そして企業体が支配する小惑星帯
太陽系内に無数に存在する国家たちは、名目上統一政府、通称「地球政府」の傘下だが、実態は多極化した準独立勢力の集合体だ。
その中で、火星は微妙な立場にある。
地球文化の影響下にありながらも、自前の科学技術と自治制度を育ててきた。
だが地球の政治家たちは、今も火星を“植民地的フロンティア”として見る節がある。
セイナはそれに言いようのない反感を抱いていた。
地球? それは、人類にとっての“子供時代”の記憶みたいなものだ。
みんながそこから生まれた。でも、それが全てだった時代はとっくに終わっている。
だがそれでも、彼女は時折、夢を見る。
自分が知らない空の下にいる夢だ。青い空、揺れる木々、重たく湿った風。
火星では感じたことのない“水気”のある空気が、肌を撫でる。
それは彼女の細胞のどこかが覚えている記憶のかもしれなかった。あるいは、母の遺伝子に残された風景か。
ふと、目の前の端末が、低周波センサーの警告を点滅させていた。
周期——5.7秒。深部からの断続的振動。
もう何度目だろう。誰も信じないこの揺れを、彼女だけが“意味”として記録している。
セイナ・クレヴィス
火星自治評議会学術局、波動工学部門技官。29歳。
いま最も不安定で、最も興奮している科学者。
彼女はまだ知らない。
この振動が、人類を星々のあいだへと解き放つ第一歩になることを。