「苦いビール」
「オフィスをたたむ事になった。」私はテーブル越し、静かに目の前の二人の小柄な女性スタッフの顔を交互に見ながら言った。
「yes,we understand,sir.」即答だった。微塵の迷いも、戸惑いも見せずまっすぐ私の眼を見ながらdungはそう答えた。彼女達と共に仕事を始めて、もう一年半になる。サイゴン訪問は今回で十五回目だ。四年前、会社がサイゴンでカフェとブティックの開店を見切り発車させた時からの現地スタッフが(dungとhang)の二人だった。今はその店も無くなり、ビル自体も人手に渡ってしまった。その間韓国人の雇われ支店長は昨年末で解雇されてソウルへ帰り、ビルを失った会社はその損失の穴埋めにヴェトナムの雑貨を日本へ輸入販売する事を思い付き、当時ビジネスで行き詰まっていた私に白羽の矢を立てたのだった。
「サイゴンに到着してわずか20分間でこの国の全てがわかったような気になる。」と誰かが言っていたが、それはあくまでも表向きのほんの上辺にすぎない。
この国は、観光で訪れるのと、ビジネスで訪れるのでは見せる表情が全く違う。
前者はエキゾチックなアジアとヨーロッパの混合物のような部分であり、
後者は複雑な人間関係、社会主義内に跋扈する金に対する執着心、前近代的な商習慣、山師、サギ師の外国人に当事者はたちまち飲み込まれてしまう。
こんな環境で後発の私が彼女達を使ってビジネスを始めたのだからたかだか結果は知れている。
会社がオフィスをたたむ結論を出したのは当然の話だった。私は出遅れ、時間切れで歩いて最後にゴールした、マラソンランナーの様にボロボロになっていた。本物のランナーと違う点は、ゴールの先に待っている二人の救護チームを自ら遠ざけねばならないことだった。
「we have to lay off you in this time.」(よって今回君達を解雇せざるを得ない。)「we understand.」今度はhangが応えた。私は彼女達の反応に驚いていた。解雇するにあたり、当然ある程度の抵抗は覚悟していたつもりだった。話し合いとわずかながらの退職金で決着をつけるつもりでいたのだ。それがこの即答である。拍子抜けも無理の無い話だ。「サー。私達は同じ会社の一員です。会社が業績を上げられないのであれば仕方がありません。」私の顔は、自分の台詞を他人に取られてどうしていいか判らない大根役者そのものだったに違いない。私は思わず笑ってしまった。不思議そうにきょとんとしている彼女達に「ofcourse.」と苦笑まじりに答えるのが精一杯だった。
思えば私はこの街で様々な時間に囚われた。初めて訪れた時、タンソンニャット空港の暗闇を見た瞬間。出国のヴェトナム人を見送る親類縁者の団体と喧騒。夜な夜な蛾のように酒場に集まる外国人の群れと娼婦の屈託の無い笑顔。韓国人、台湾人のカラオケクラブでの狂宴。バイクで炎天下を走り回り、途中で何度もバケツをひっくり返したような大雨にみまわれ、物売りの軒先で雨をやり過ごした時間。何度も何度も日本の基準を教える為、繰り返したミーティングの徒労。そうした全ての時間が私の中で新鮮な経験として脳の奥深く刻み込まれていった。それはまるでこの地の記憶を全身に刺青をほどこされているようなものだった。どれほど努力しようと、この国、ここでの記憶を自らの意志で忘れさる事はできないのだ。例え日本にいようと、他の国にいようと、この国の空気、匂い、体温やそうした記憶の数々は私が気を抜いた瞬間に、いとも簡単に頭をもたげてくるのだ。
今回問題を決着させることによって、この地で起こった自分の過去と記憶を頭の中から一掃してしまおうとしていた目論見の甘さを、彼女達の毅然とした態度と言葉に強く指摘されたような気がして、私は恥ずかしさをおぼえた。
突然感じた喧騒にカフェの窓から外を見ると向かいの交差点にバイクの群れと人だかりが、ただでさえ動かない交通渋滞を一層ひどいものにしていた。ほんの10分ほど前にそこに見えたはずの横断歩道の塗装が見つけられないほどだった。また事故だ。以前この見物人にどれほど我々の移動時間が奪われたことだろう。ここは日本ではなくヴェトナムなのだ。彼女らの家であり、これが彼等のルールなのだ。私が独りで反発しようが、いかなる努力を続けようが、小さな波紋すら作ることが出来ない。その証拠にフランス人もアメリカ人も彼等の考えを理解することさえ出来なかったではないか。
私は彼女達と対峙して初めて自分の無能さを自覚し、無力さを呪い、目の前の飲み残しのビールのグラスの水滴程に冷や汗を無理強いさせられた。「今度この国へ来る時は観光で来よう。」と思わず日本語で自分の両足の間にため息混じりに呟いた。顔を上げると、目の前には四つの黒眼とまるで私の気持を見抜いているかのような彼女達のあどけない笑顔があった・・・・。