ブラックコーヒーの謎
見慣れないカフェで、飲み慣れたホットコーヒーを頼む。
二十歳そこらのウェイトレスは大きく美しい目を丸くし「少々お待ちください」と、そそくさ裏へ消えて行った。
背中を見届け、名刺や眼鏡を鞄へ押し込みスマホを取り出す。
程なくして、先ほどの女性がコーヒーを持って来た。
「ブラックでよろしいでしょうか?」
透き通るソプラノ。
「はい」
苦くも心地良い芳香を味わいながら、カップがテーブルへ着地するその一瞬を待ち侘びる。
―――だが。
置かれたのは、私の頭頂部。
「この意味、分かるかしら」
女性がからかうように妖しく笑む。
「おい、ふざけてないで―――」
思わず立ち上がった刹那、カップが倒れ、私の頭からつま先までを濡らしていく。
「熱っ! ―――くない?」
むしろ冷たい。一体どういうことだ。
女性はふっ、と吐き捨てるように笑むと、散乱した陶器やコーヒーには目もくれず去っていった。
店主には一連の苦情を付けた。すみませんと何度も頭を下げられたが、行為の意味を問い質すと「それはお客様が考えることであります」と譲らない。
誠意を欠いた対応に怒り心頭だったが、女性の謎を解き、鼻を明かしてやりたいという挑戦心も同時に湧き出した。
翌日、再び店を訪れた。
こちらが指名するまでもなく、例の女性が現れる。
ホットコーヒー、とただ一言告げてやった。
「ブラックでよろしいでしょうか?」
満杯のコーヒーカップのみを持参した彼女。
「今度は砂糖とミルクも付けてくれ」
正当な注文も、砂糖とミルクは聞き入れられず。私の頭にアイスコーヒーを直接浴びせてみせた。
そして反応を見るまでもなく、即座に帰る彼女。
私は一頻り笑った後、コーヒー代を置き堂々退店した。
二度の屈辱も、進展は無し。ならばと後をつけることにした。彼女の生活を観察し、分析すれば……その難解な思考も少しは理解できるかもしれん。
翌日から尾行を始め、その四日後。気になる動きがあった。
なんと女性の自宅から元妻が現れた。
大学時代に結婚、数日で別れてから約二十年振りの再会。目を何度も擦り、凝らすもやはり元妻だった。
皴が老いを語るも、大きく美しい目元は変わらない。
ただ一つ変わったのは、車椅子に乗っていたこと。少し錆びた枠に、手慣れた女性の手付きが年季を感じさせた。
二人は公園に行き、並木道をゆっくり進む。後ろ姿は介護士とその要介護者というよりむしろ、親子のように見えた。
しかし変だ。カフェの女性の年齢はどう見積もっても二十歳前後。結婚当時、元妻は妊娠していなかったはずだ。つまり破局後早々新たな男との間に身ごもったということだろう。
ならば私が変に関与する話でもない。
立ち去ろうと背を向けた時、あの女性の嘲笑うような顔が思い出された。
なるほど。確かにここに来て半端に終わらせるわけにはいかない。
翌日、女性がカフェに向かったのを見計らい、重い戸を叩いた。
一ヶ月後、再び店を訪れた。
席に着くと、例の女性が現れた。大きく美しい目が、私の心を窺うように睨み付ける。
「ブラックでよろしいでしょうか?」
ソプラノの、澄んだ無機質な声。
「三つだ」
「えっ―――」
目を見開き、冷たい表情を崩す女性。それでもコーヒーは決して零さない。
「これからは三つだ。私に君達の分を奢らせて欲しい」
女性は左手で口を覆い、見つめたまま黙り込む。
やがてカップを手に取ると……私の頭に浴びせてみせた。
頬を伝う雫。
この苦味はきっと、私の知らない味なのだろう。