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ヨークシャー・ムーアの駒鳥  作者: 五十鈴 りく
2章

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26/50

26◇上手くいかない

 そんなことがあった晩だから、よく眠れなかった。

 フレデリック様のことが心配なのと、あとはよくわからない。


 ただ胸が苦しい。感情が濁流になって押し寄せたから疲れたのだ。


 眠れなかったけれど、ベッドで横になっているだけで体は少しくらい休まったと思う。

 すっきりしないながらに起床した。


 身支度を整える間、鏡に映る顔を見て苦笑する。泣いたせいで腫れぼったい。

 ナンシーはこの顔をなんと言うだろう?




 これが不思議なことに、ナンシーは何も訊ねなかった。気づいていないのだろうか。

 首をかしげたくなったが、多分そうではない。ナンシーは何かを感じ取って、それで何も言わなかったのではないだろうか。


 いつものように元気に答え、笑い、私にギュッと抱きついた。その時間がいつも以上に長かった。


 女の子は敏感だ。言葉にせずとも、相手の気持ちの変化を察する。

 こういう時、言葉は要らないというのだろうか。


「雪が降ると、楽しいことと嫌なことが一緒にあるんです。大人は嫌なことの方が多いっていうんですけど、先生も雪は嫌いですか?」

「そうね。あたたかい方が嬉しいわ」

「でも、雪はとっても綺麗です。先生も雪が降る日にイイコトを見つけてくださいね!」


 そう言って、ナンシーは帰っていった。

 どんな出来事にも楽しみを見出せる柔軟な心が羨ましい。




 ナンシーが帰り、私が気持ちを落ち着けるために部屋で刺繍をしていると、ブレア夫人がやってきた。


「旦那様があなたを呼んでほしいと仰っているのですが、構いませんか?」


 そのひと言に私の心臓が跳ね上がった。


「は、はい。もちろんです」


 昨日のことが夢でなければ。

 私もフレデリック様とは落ち着いて話をしたい。


 ブレア夫人はそっと微笑んでいた。




 フレデリック様の部屋は私の部屋以上にあたたかい。足を踏み入れてすぐにそう思った。


 昨日は暗がりだったからよく見えなかったけれど、今日はよく見える。暗い落ち着いた色合いの室内は男性的だった。見える限りのところに家族の写真や肖像画はない。


 半天蓋のついた藍色のベッドで上半身を起こしているフレデリック様は窓の外を眺めていた。私たちが部屋に入ると顔をこちらに向け、そして苦笑する。


「お連れ致しましたよ」


 ブレア夫人の声にはどことなく呆れたような響きがあった。フレデリック様が私を呼んできてほしいと言ったそうだけれど、本当はもう少し回復してからにした方がよかったのかもしれない。


「ありがとう」


 疲れた顔で微笑む。それでも、笑えるだけ昨日よりは具合がいいのだろう。

 ブレア夫人はひとつため息をつくと、私の横を通る時にささやいた。


「何か召しあがられるそうなので、わたくしはキッチンへ参ります。しばらく旦那様の話し相手になってくださいね」


 部屋を離れる理由が取ってつけたようで、私は少々複雑だった。部屋に取り残されると、胸が騒いだ。この心臓は、いつになったら落ち着いてくれるのだろう。

 フレデリック様はそれ以上歩みを進めない私に、恐る恐るといった具合に声をかける。


「昨日はすまなかった」

「それはもうお聞きしました」


 ――素っ気なく聞こえただろうか。

 それでも、言葉が続かない。私はこんな態度を取るために来たのではないはずなのに。


「あなたを傷つけるつもりはなかったと信じてもらいたい。それだけなんだ」


 昨日の私はやはり傷ついて見えたのだ。そう思うと恥ずかしくていたたまれない。部屋に逃げ帰りたくなる。

 なんとか踏みとどまっているのは、それをしてはいけないと思うからだ。


「私こそすみませんでした。昨日は、その、私も少し疲れて冷静ではなかったのだと思います」


 疲れて情緒不安定だったから、些細なことで泣いたりしてしまった。

 こんな答えでフレデリック様が満足してくれたとは思わないけれど、気にしていないと示すだけのことには成功しただろうか。


「無様な姿を見せるのは、それなりに覚悟がいる。どうしてこんなに上手くいかないのかと思うよ」


 これを言った時、フレデリック様は私の方に顔を向けていなかった。ややうつむいて、シーツの皺を辿っているような遠い目をしていた。


 初めて会った時には恵まれた人だと思った。

 しばらくして、家族の愛情が得られなかった人だと知った。


 完璧な人などいない。いつも、どこかが欠けている。

 フレデリック様が本当に満ち足りていたならば、これほど私を気にかけ優しく接してはくれなかったかもしれない。


「あの……」


 私が声を発すると、フレデリック様は弾かれたように私に顔を向けた。薄青い目が見開かれる。

 そんなふうに構えられるととても言いづらいけれど。


「フレデリック様はクリスマスもこちらにいらっしゃるのでしょうか?」

「ああ、いつもこの屋敷で過ごす」

「ナンシーはその頃、雪が深くて通えないのでしょう。そうすると、私がここにいる理由はないので休暇扱いにして頂きたいのですが」

「……そうだね。あなたにも休暇は必要だろう。好きに過ごすといい」


 これを言った時のフレデリック様が、どこか拗ねたような寂しそうな子供に見えたと言ったらどうだろう。いつも紳士然としているフレデリック様が本当に小さな子供に戻ったように感じられた。

 けれど、それに失望したのではない。そんな顔を見られたことに、私はどこか喜びに似たような気持ちを抱えていた。


「でしたら、ここにいても構いませんか?」


 私の言葉の意味を、フレデリック様はすぐには呑み込めなかったようだ。ゆっくりと首をかたむける。


「ここに?」

「はい。家に帰っても仕方がないので」


 すると、フレデリック様は先ほどまでの気難しく見える表情から、病の翳は見えるけれど笑顔を作った。目が明るい。


「ああ、好きなだけいてくれて構わない」


 ――この方は、よく嬉しそうな笑顔を見せてくれる。

 これが建前でないとしたら。本心から喜んでくれているのだとしたら。


 フレデリック様の笑顔は危険だ、と私は思わずにはいられなかった。その表情がいつまでも忘れられなくなってしまうから。


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