静かな車内
夕暮れ時の電車は、微妙に混み合っていた。微妙な時間に出かける人や微妙な時間に帰宅する人、あるいは仕事や遊びで微妙な移動をしている人のせいである。座席は全て埋まり、吊革も立っている人の人数分をギリギリで賄っている。それぐらい、微妙に混み合っていた。
しかし車内は静謐な空間だった。中年のサラリーマンも大学生の女性も若いギタリストも、新しく母となった女性もベビーカーに乗った赤子も、フリーターの男も年金暮らしの老婆も、色々な人がいたものの、車内にはレールの継ぎ目を乗り越える音やモーター音しか無かった。
その音には異物感がなく、そしてそれは疲れ切った男を眠らせるには充分な心地のよさだった。こうしてシートに腰掛けているその中年の男は、静かな車内の中、天井を眺めるかのような格好で睡眠の中へと意識を途切れさせていった。
中年の男は、いびきをかき始めた。それも、息を吸う際吐く際両方で音を掻き鳴らす形式で。しかも時々歯軋りもする。呼吸における生理的活動で雑音を掻き鳴らしている男に、両隣の人間はうんざりしていた。
席の端で股の間にギターを立てかけていたギタリストは、その雑音から逃げるようにイヤホンをつけ目をつむり、一人で音楽の世界に入った。それは、空気と空気が擦り合っているようなリズムだけ読み取れる空虚な音が、耳から漏れるほどの大きさだった。
大学生の女性は、ちょうどそういった機器を持っていなかった。彼女は生理的な音、空虚な音に晒されている。ただ電車で椅子に座っているだけだというのに、怒りを蓄積させられた。その横には、睡眠により体幹を失った中年の男。電車の揺れはその男を彼女の方向へ倒れさせてしまった。彼女の反応は当然、拒絶である。重みを寄せてきた男の頭部や肩を腕で押し返した。それもただ押し返すだけでなく、先ほど蓄積した怒りを乗せて。
中年の男は、低速のメトロノームのように反対側へ体を傾けた。メトロノームの振り子は、ギタリストのギターに当たった。ギタリストは慌てて目をさましたが、無常にも彼の愛刀の如き相棒は、床との角度を下げていき、そしてシート横に止められていたベビーカーに激突した。
ベビーカーは音を立てたのに加え、揺れを加えた。その揺れは、心地よく眠りこけていた赤子の機嫌を損ねた。赤子は泣き出した。新米の母親にとって赤子の不機嫌は難敵である。「ギャアギャア」と泣き喚く赤子の前で、母親は何もできなかった、いやどうするべきか分からなくなっていた。公共の場で大きな音を立ててしまっているという自責の感覚の方が勝っているのだ。
泣き喚く赤子の声を聞いてフリーターの男は舌打ちをした。自分の怒りや苛立ちを小石に変えてその女性に投げつけたのだ。この低俗な行いを、その近くにいた老婆は見逃さなかった。「お前にもああいう時代があったんだぞ。何故自分が過去に許して貰ったあやまちで、他者の同じあやまちを責められようか」そんな旨の言葉を発した。
フリーターの男は再び、舌打ちをした。その老婆とは別の人が、「その態度はよくない」と彼の肩に手を置いた。彼はその手を払いのけた。払いのけた手と、払いのけられた手がそれぞれ別の人にぶつかり、その人たちはよろめいてしまった。さらに電車の揺れと重なり、それぞれ一歩踏み出すような形になったり、半歩横にズレるような動きをとった。しかもそのせいで、別の人にぶつかり、彼ら彼女らは手に何かを持っていた。手に持っていた携帯電話は床に落下し、手に持っていた飲み物は床にぶちまけられた。
床に落ちた携帯電話は誰かに踏まれ、画面が割れた。持ち主は犯人を探そうと怒り狂った。ぶちまけられた飲み物で靴や服を汚された者は持ち主に怒り狂った。
車内では、誰かが誰かを責め立てていた。誰かが誰かに怒りをぶつけていた。誰かが誰かに向けて、大声をあげはじめた。
中年の男は、座席で寝ている。