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アンナが領地に着いたのは翌朝。馬車の中で休むよう御者には言われたが、眠れなくて目元が隈だらけだった。
眼鏡が無いせいで周辺がよくは見えないけれど、おぼろげでも屋敷の外観は分かった瞬間に、なんだかホッとした。
「はぁ……」
ため息を吐いて馬車から降りる。すると、何やら様子のおかしいアンナに気づいた使用人や領民たちが一斉に集まって来た。
「泥んこお嬢さまのお帰り……って、ど、どうしちゃったんですかぁ?」
「ありゃりゃ……どっかですっ転んだんですかい?」
「袖が……それに顔色も悪いですし……眼鏡も無くなって……」
異変に気付いて心配をしてくれたのは嬉しかったが、しかし、その一方でアンナは色々と申し訳なく思った。特に、折角刺繍してくれた袖が破れたのには本当に罪悪感を覚えていた。
自分のせいでは無いのは分かっているのだけれども……。
「ごめんなさい。刺繍の部分破れてしまって……」
「刺繍はまたいつか頼めばいいだけなので全然大丈夫ですけど、それより本当に何が……」
「それは……話したくないの」
アンナはそれだけ言うと、ふらふらとした足取りで自室へと向かった。事情を話さなかったのは、余計な気遣いをさせない為だ。話せばもっと心配されるに違いないのだから。
自室のベッドに倒れ込むと、心地の良いお日さまの柔らかな匂いがシーツから香る。瞼を閉じると、馬車の中で眠れなかったのがウソのように、アンナはすぐさまに夢の世界へと旅立った。
――……だいぶお疲れだな。
――襲われたとかじゃないよね? ね?
――馬車に飛び乗っては来ましたが襲われたとかそういう感じでは……。なんというかまぁその、だいぶイジめられたのでは?
――あーありそう。泥んこお嬢さま、俺たちみたいな一般人から見れば良い人なんだけど、貴族の目から見たら……アレだな芋くさい田舎っぺだろうな。
――自分でツルハシ持って鉱山手伝いに行ってたりもするからなぁ。
――ア、アンナさまとっても素晴らしい人なんだから!
――そうよ。変にお高く止まったりしないし優しいんだから。見た目が田舎っぽいからって何よ。大体アンナさまはちゃんと見ると結構整ってるのよ。
――そ、そんなに怒るなよ。だから、俺たちからすれば良い人だけど、そうじゃなくて貴族たちの目から見たらって話だよ。ってか、それより眼鏡無くしてどうするんだろうな。買う金持ってないだろ多分。
――あなたを解雇すれば少しは足しになりそうだけど?
――無職にはなりたくないんですが?
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暖かな陽気に包まれ寝入るアンナは夢を見た。小さい頃の夢だ。まだ両親が存命だった時のこと。
貧乏なのは今と何も変わらない。父も母も、今の自分と同じようにいつも使用人や領民たちの仕事を手伝っていたし、皆の意見を聞きながら税収の管理や公共事業の現場に参加していた。
でも、そんな状況でも、五歳の頃には目が悪くなっていたアンナの為に眼鏡を買ってくれた。アンナは早熟で歳のわりには賢しい子であったから、それが無理をして買ってくれたものだとすぐに気づいた。
嬉しかった。自分の為に無理をしてくれたことが嬉しかった。
『これでよく見えるようになっただろう?』
『うん!』
『あらあら、アンナは素直でとっても可愛いわねぇ』
『だいじにするね!』
そう宣言した通りに、アンナは眼鏡を大事大事に使い続けた。
フィルナンドは”名ばかり貴族”とハボット家を罵った。それは決して間違いでは無い。名誉も金もなく、あるのは心だけだから。
でも、心は山のような黄金よりも、誰もが頭を垂れる名誉よりも、それはずっとずうっと大切なものだとアンナは父と母から教わった。
価値あるものなのだよ、と。
それが貧乏であることを覆い隠し、一人娘が気にしなくてもいいようにする為の方便なのだと、幼いアンナは当然のように気づいていた。
ただ、そうだとしても、それを方便としてではなく、きちんとした確固たる価値観としてアンナは受け止めた。
それが大事なのだと心の底から思うようにしている。今でも。
夢は次々と彩りを変え、アンナが無邪気に笑う時期を過ぎ、そして両親が亡くなる少し前の場面になった。
その日、いつものように鉱山の手伝いに行っていた父が怪訝な顔をして帰ってきた。どうにも、鉱山を掘り進めていたら銀に似た鉱物が出たそうで。
『鉱山を掘っていると、銀に似た輝きの鉱物が出たのだが、銀ではなくもっとくすんだような色をしていた。……要らないものが出て来てしまった。掘る場所を変えるようにするが、新たな鉱区を作るのも準備からになるものだから大変だ』
鉱山から取れるもので売れるのは、鉄、銀、そして金である。それ以外のものは単なるゴミだ。例えどれだけ銀に似ていようとも、銀そのもので無ければ無価値である。
しかし。
その厄介物を巡り、何やら奇妙な出来事があったと父は言った。
『まぁただ……要らない鉱物ではあったが……偶然通りかかった行商人がそれを欲しいと言ってな。処分に費用をかけるよりはマシだと思い無償で渡した。はは、何の価値も無い鉱物を欲しがるとはな。まぁ良く分からぬものを収集する者も世の中にはいる。その手合いだろう』
当時は気にしなかったけれども、今になって思うと、なんだかこの時のことにアンナは違和を感じる。
変な収集癖があるのは大抵貴族だ。商売人でもいることはいるものの、大きな店を構えるような、余裕がある商人が手を出す趣味なのだ。
蓄財に奔走しているであろう行商人が、そういった趣味を持っているのは……妙である。
そして、この一件からまもなくして両親が亡くなったのだけれども、それも思い返してみると色々と変だった気がする。
山賊に襲われる事故だった。
しかし、そもそもハボット家は貧乏で有名あって、わざわざ山賊が流れて来るのもおかしいのだ。
もっと裕福な貴族の領地に行けば良いのになぜ?
今はもう実行犯の山賊たちは全て捕まり中央では処刑も行われ、領内の平和は戻ってはいる。しかし、なんだか釈然としない。
と、そこまで考えたところで、アンナの夢は絵具をぶちまけたかのようにぐちゃぐちゃになった。夢はいつまでも見れるものではないし、自分で制御が出来るものでもなく。
そして、大体の者は覚えていないものである。
アンナはゆっくりと瞼をあげると、大きく伸びをして、ふらふらとした足取りで窓へと向かった。眼鏡が無いせいで取っ手の位置を何度か間違えるが、ガタガタと音を鳴らしながらもなんとか開けた。
夢のことは忘れていた。
「うっ……」
眩しい朝日にのけぞる。朝に寝たのにもう朝である。まるまる一日寝ていたようだ。
少し休み過ぎたけれども、昨夜――いや、もう一昨日ではあるけれど、色々とあったのだから許して貰いたい。
まぁともかくだ。
今日も今日とて鉱山採掘の手伝いをするべく、アンナはもそもそと準備を始めて向かった。
しかしながら、眼鏡が無いせいでロクに手伝えず、作業者たちからしばらく休んでいてくれと懇願されてしまった。
「無理せんといてくださいな」
「でも……」
「お気持ちはありがたいのですが、眼鏡がなく周囲が見えずフラフラされては、我々も常にアンナさまの様子を常に案じねばならず作業が進みませぬ。そうすると税収にも影響が出ましょうぞ。困るのはアンナさまですぞ」
よく見えない、というのは本当に大変である。
鉱山から送り返され、今度は羊や馬飼いの仕事を手伝おうとしたのだけれども、手元が狂って手綱を離してしまい何匹か逃がしてしまった。少し時期は早いが税務の仕事にも着手しようとしても、文字が掠れて見えて進まない。
――僕のお馬さんがぁあああああ! カムバァアアアック!
――どうしてこのような数字になられるのか……。
アンナは申し訳なさにいたたまれなくなる。眼鏡が無い状態では何をしても誰かの迷惑にしかならない。お屋敷の中でじっとすることを余儀なくされた。
時間はあっという間に過ぎる。一週間、二週間と日々は過ぎ……気がつけば一か月が経った。このまま何もしないで過ごすというのは、当然ながらアンナの性にも信条にも合わないし、領地経営的にも支障が出てくる。
そんな時だ。
狼にも似た風貌の――第二王子セブルスが訪ねて来たのは。
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