第5話 決意の夜
「はっ――!?」
目覚めると自室のベッドの上。蛍光灯が眩しく思うということは、自分で横になったのだろうと優和は思い至った。
優和は眩暈を覚えつつ、いつもの癖で枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。
小学生の頃から愛用している目覚まし時計は卵の形をしており、設定した時間になると卵の上の部分からオウムと鶏を足して二で割ったような怪鳥が鳴き声と共に姿を現す仕様だ。子供の頃に起こされた時は怖すぎて泣きそうになったが、今は逆に幼い時に流行していた国民的アニメキャラクターの一人ではないかとまで考えるようになっていた。そんな気色悪いキャラクターは存在する訳は無いのだが。
(今は何時だろう……?)
「――探し物はコレか」
手探りの手の中に丸みを帯びたプラスチック製の物体に触れる。
「これですこれです。えーと……えっ、もう十時!? わ、私……ご飯食べたっけ……?」
「何を言っても返事が無かったが、確かに食べていたし一番風呂にも入っていたぞ」
「あーだからパジャマ着ているのか……納得……て――え」
体を起こした優和は絶句する。それもそのはずだ、ベッドの隣にあの綺麗な顔立ちをしたエルデ・カーヴァネスが居るのだ。
「おはよう……いや、こんばんはだな」
「て、うえぇぇぇぇぇ!? 何で、ここにエルデさんが!? どゆことなの!?」
「どうもこうもあるか、マリオネットのようにぼんやりとする君にちゃんと説明をする為に起きるのをずっと待っていたんだ。食事の時も風呂の時もお花を摘む時も、君は上の空だ」
「ちょっと待ってくださいよ! 今、トイレの時や風呂の時もて言いましたか!?」
「トイレなんて言うな、恥じらいを持つべきだ。故に私は、淑女としてお花を摘むと表現したんだ。近頃の日本の女子高生というのは、大和撫子の文化を忘れてはいないか? あれは君達が誇るべき良い文化だ」
「あ、す、すいません……そーいうことじゃなくて! そういうプライベートな時間まで一緒に居たんですか!」
「トイレには入っていない、さすがにおかしな性癖があると思われたら嫌だからな。風呂には入ったが」
「もう充分おかしいよ!?」
ちっくしょう、と布団を被りながら純潔を汚された生娘のように震える優和の抵抗虚しくエルデは強引に毛布を剥ぎ取る。
「風呂に入ったのには理由がある。とりあえず、ズボンを脱げ」
「ななななっ!? 風呂に入ったことには飽き足らず、言い訳もせずに変態公言ですか! うわーん! 言わずにおこうと思っていたが、言わせていただきます! もうお嫁に行けないよー!」
「馬鹿なことを言うな、ほら、私はこれを探していたんだ」
優和の下着が見えることもお構いなく足首にフリルの付いた小学生の時から愛用しているパジャマのズボンを引っ張れば、悲鳴を発する優和の右足の内腿に触れた。
「ここに紋章がある。これが、ワールドパスだ」
シリアスな声のトーンに優和は閉口し、エルデの指差した部分に恥ずかしそうに視線を送る。
「あ」
もう下着が丸見えの位置に薄く紋様が浮かんでいた。だがかなり薄い色でよく目を凝らしてみないことに気付きようがない。
「発見が早くて良かったよ、ワールドパスが発現してまだ日が浅いようだ」
「と、とりあえずぅ……もうズボン履いていいですかぁ……」
半泣きの優和の顔にエルデはおっとと目を大きくさせた。
「失敬したな、早く履いてくれたまえ。風邪をひいてしまう。体調を崩せば、それだけ貴重な時間を無駄にするからな」
「ううぅ……恥ずかしすぎます……」
寒さの問題の前に優和としては羞恥心でどうにかなりそうだったので、すぐさまズボンを腰まで上げた。それでも会って数時間の人間に下半身を露出したという事実に頬が熱くなってくる。
「さて、これでワールドパスは確認できた。今見た通りのワールドパスが君の異世界転移者の証であると同時にタイムリミットでもある」
優和の赤面する理由に気付くことなくエルデは平常運転で話を始めた。
「タイムリミット?」
「この紋章……ワールドパスが濃くなり光り輝く時、異世界への転移が始まる」
一度話を聞いているので、はっきりと告げられても優和はさほど動揺することはなかった。だが、動揺しなかったことには理由がある。それは、死刑宣告を告げられたように絶望的な冷たい感情が、皮肉にも優和に冷静さを与えていた。
「そんな……辞めることはできないんですか……?」
「不可能だ、私はもちろんこの世界の住人にはどうすることもできない。その証拠に……これから、君の渡ることになる異世界に合わせて少しずつ肉体に変化もしてくるだろう」
変化、という言葉に優和の背中を冷たい汗が流れた。
「……どこへ逃げても一緒なんですか?」
「一緒さ。事故や災害に巻き込まれたと考えるんだ」
体育座りで体を丸めた優和は顔を膝の間に押し付け、すんすんと泣き出した。涙の量は少なく体を小刻みにさせる姿は、感情を伝えることが下手な小さな子供のようだった。
痛々しい姿の優和を前にしてもエルデは表情を変えることなく、黙ってその姿を見つめていた。
「泣いているようだが、泣いて許される立場の人間は多くはない。君はまだ泣いて良い立場の人間ではないはずだ……泣いていても解決はしない」
「ひ、ひどいですぅ……だって……私は異世界なんて行きたくない! 望んでないのに! 好きな人だけが行けばいいじゃないですか!」
心からの優和の叫びを耳にしたエルデは、軽く優和の肩を押す。
「ふにゃぁっ!」と悲鳴を発しながら優和は仰向けの態勢になった。視界には目覚めた時と同じ天井と見慣れた蛍光灯があった。
「そのままでいいから聞くんだ。……いつだって物語の主人公というのは、無理難題を押し付けられてきた。辛くて嫌なこともたくさん経験するはずだ。君の異世界転移の想像はそんなところか? 冒険は楽しいことばかりじゃない、嫌なことばかりだと優和は考えているんだろ」
辛い旅を想像してしまった優和は両手で顔を覆いながら小さく頷いた。
「物語の主人公達も弱い一人の人間から、少しずつ成長していくものだ。彼らは危機を乗り越えて強さを手に入れていく、練習や準備ということができないまま戦わなければいけないんだ。……だが、優和は違うだろ? 優和は冒険に旅立つ前に準備や練習ができる。最初から強い状態で冒険をすることができれば、ずっと楽になれるはずだ。それに、日本では最初から強い人間が流行しているんだろ。何て言ったか……チー……分かるか?」
「……チート」
「そう、それだ。ここで私と頑張れば君はチートとして異世界で活躍できる。私達カーヴァネスは、ただの冒険者からチートの冒険者にする為に教えにきているんだ? どうせ逃れられない運命なら、チートを目指してもいいんゃないか?」
「チート……チート……チート……」
口の中で味わうように優和はその言葉を口にする。
ダメでドジでおっちょこちょいな自分が圧倒的な魔法の力で異世界の人々を悪い魔物から救う姿を想像する。
悪くない、声にはしなくてもまんざらでもない気持ちになってくる。
「どうだ、なかなか悪い話じゃないだろ。自分のことをネガティブに考えているなら、そう思わせてしまう過去や個性があるんじゃないか?」
風向きが自分の方向へ流れているのをエルデは確信しながらも焦ることなく優和の言葉を待つ。
「私は……ドジなんです……。だから、仲良しの澪奈ちゃんにも迷惑かけちゃう……」
ドジ、という優和の本気で悩んでいる理由が聞けたことで、エルデがこれから優和への方向性が決まったような気がした。
「なら、話は簡単だ。迷惑を掛けないようになればいいんだ、私と一緒に学び、異世界を乗り越え、そして帰還した暁には誰にも迷惑を掛けることのない強い優和になれるさ」
「強い私……本当になれるのかな……? 誰にも迷惑を掛けない、誰かに頼りにされるような私に……」
「異世界の旅を終えた頃、いや……異世界への冒険を始める頃には、優和の夢見た自分になれているかもしれんな。辛い日々かもしれないが、考え方によっては悪い話じゃないだろう」
優和は夢想する。
クラスのみんなを困らせることなく、澪奈が自分を頼りにしてくれる。何より、家族にも助けてもらうばかりだった自分が誰かを助けられる存在になるというのは妄想しても実現できないことだと思っていた。
つい最近も自分のドジのせいで、助けようとした澪奈の身も危険に晒すようなこともしてしまった。二度とあんなことはごめんだが、今の自分のままではきっと澪奈も他の友達も家族もドジで危険な目に合わせてしまうかもしれない。
涙はもう止まっていた優和の心を見透かすようにエルデは告げた。
「変わるなら、今だ。異世界転移の切符と同時に、自分が変わるチャンスも手に入れたんだ」
泣き腫らした目で優和は体を起こすと、エルデの強い意志を感じさせる眼差しの中に自分の姿が映っているのが分かった。
(この人は初対面の私を真っ直ぐに見ているんだ。……忘れていた、どんなドジでもダメな子でも元気で向かって行くのが私なんだ)
優和の言葉を待つことなくエルデは握手を求めて手を差し出した。女性らしい細い手だったが、ぷにぷにの優和の手とは違い無駄のないスマートさがあった。
「今でも異世界なんて怖くいし行きたくないし、ダメダメな私にできるか分からない……だけど、私は変わりたいです! ダメでもドジでも、変わりたい! どうせ逃れられない運命なら、頑張ってみんなを安心させるぐらい強くなりたいです!」
エルデの手を優和は強く握った。書面でもなければ人任せでもない、これはちゃんとした優和の意思で決めた契約だった。
「ああ、優和ならできるしなってもらう。それに、私が家庭教師をするんだ。……絶対に強くさせる」
「あ、あの……私でもエルデさんみたいになれますか?」
少し驚いたように口を僅かに開けたエルデは、言葉を返すことなく肩をすくませて小さく笑った。
※
――優和が決心をしたその日の深夜。
ふとトイレに目覚めた優和は、一階の居間の電気がついていることに気付いた。
自分以外に誰か消し忘れているのかと階段を下りていけば、今の中から人の声が聞こえて足を停止した。
「……これでよかったのでしょうか、エルデさん」
父翔真の声だった。彼には珍しく沈んだ声をしていた。
悪いことだと思いつつ、他人事ではないことを察していた優和は聞き耳を立てた。
「はい、ご立派でした」
返答するエルデの口調はどこか穏やかなもので、テレビの音も外の音もしない無音状態の空間でわざとのように二人の声がだけが耳に入ってくる。
「本音を言わせてもらってもいいですか?」
はい、とエルデは言った。
「本当なら異世界になんて行ってほしくはない、危険な場所に娘を連れていきたい親なんていませんよ。でも、彼女はそういう運命に巻き込まれてしまった……逃げられない運命があるのなら、見守ることしかできない僕らにできるのは応援することだけなんです」
コップを置く音がした。お酒を飲んでいるのか、それとも、お茶なのか。
「――頼みます、エルデさんの力で無事に優和を異世界から戻してやってください」
ごん、と鈍い音が聞こえ優和は驚いて居間に飛び込もうとするが、それより先に耳にしたエルデの声に急停止する。
「ええ、もちろんです。……我がカーヴァネスの一番の使命は転移者を無事に帰還させることです。……だから、頭を上げてください、おでこをぶつけて赤くしたままでは起きてきた娘さんが心配しますよ」
翔真の鼻水をすする音を耳にしながら、ゆっくりと今から離れる優和。
いつも通りに優和を受け入れてくれた翔真の強い心に感謝する。もしも帰宅して父親が動揺していたら、まともにエルデと話なんてできなかったはずだ。きっと、智悠だって心の奥底では我慢していたはずだろう。
自分の気持ちを押し殺して優和をいつもの笑顔で迎えてくれた二人に報いる為にも、改めて強くなる決意を固めた。