第3話 二人の救う覚悟
――日本から遠く離れた国のさらに辺境の島。
島の中央には大きな塔が立っており、周囲には色彩豊かな花々がこの塔が世界に存在していることを祝福するように咲き誇っていた。
塔の名前は先駆の塔と呼ばれ、およそ53メートルの高さを持ち堂々とそびえ立つその姿は塔と呼ぶよりも、さながら石の箱を計算して積み重ねた巨大な石の城のようだった。
城のような塔の中から使用感のある革製のトランクケースを引っ張りながら銀髪の女性が出てきた。
この塔が彼女の家であり職場であり居場所であるのだが、所在を転々とする仕事のせいか特別な感慨もないのか彼女は振り返ることなく島の港を目指していると、「姉さん」と彼女を呼びかける声に足を止めた。
彼女のことを姉様と呼ぶのはこの世界で一人だけだ。
「――セアラ」
金色の長髪を揺らし、よほど急いで来たのか額には前髪が張り付いていた。
年齢は十五歳、青空のようなブルーの瞳に絵本に出て来るお姫様のような愛らしい彼女の顔を見ていれば何歳になっても庇護欲を掻き立てられる。
セアラは胸の辺りを服がしわになるまで強く掴み、全身で呼吸をしていた。セアラは運動が苦手なだけなく、元々体の弱い体質だということを知っていた彼女はじっとセアラが落ち着くのを待っていた。
「落ち着いたか?」
「は、はい……」
次の言葉を待っていたが、セアラは悩むように苦しむように沈黙を続けるので彼女の方から口を開いた。
「既に見送りは済ませたはずだが……」
逆に呼び止めたセアラの方が彼女の発言を待っていたかのように迷いなく応答した。
「いいえ、見送りに来た訳ではありません。私は、姉さんを引き留めに来たのです」
「昨晩に話しをしたはずだが……この世界が求めているなら、私が行かない理由はない。……私達にとっては、そういう仕事なんだ」
「世界が求めるから……行くしかないなんて……」
しばらく彼女は思案し謝罪をした。
「……すまない、嘘をついてしまった。世界が求めるからでも、代わりのいない仕事だからという理由じゃない。……私が望んでいるんだよ。そういう意味では、私の世界中では求めているのかもしれないが」
何かに気付かされたようにセアラはハッとすれば、しばらく言葉を探すような素振りをした。しかし、彼女とは10歳以上も離れているセアラには気の利いた言葉は思い浮かぶことはない。年齢だけなく、あまりにも彼女と歩んできた人生経験に差があることを重々と理解していたことも理由である。
「わ、私は……それでも姉様に行ってほしくはないです……」
彼女は狼狽えるセアラの金の髪をとかすように頭を撫でた。
「謝罪は二度もするつもりはない。二度、三度謝ってしまえば、それは謝罪ではなく言い訳になってしまう。だが……お前を悲しませるようなことは考えていない」
だから、と彼女は言葉を続ける。
「出発の時ぐらいは、笑顔で送り出してほしい。前回の時は、旅先でセアラのことを思い出したら泣き顔ばかりが頭に浮かんでしまうんだ。お前の綺麗な金色の髪には、太陽のようなセアラの笑顔が似合う」
セアラが何を言おうとも彼女の頑固な意思は変えられないことを察したセアラは涙を拭った。
「……うん、気を付けていってらっしゃい」
「いい子だ、セアラ」
最後にもう少しだけ強い力で頭を撫でると、おそらくこの後泣き出すであろうセアラから逃げるように彼女は颯爽と背中を向けた。
港までの道を歩き出した彼女は背中が見えなくなるまで一度も振り返ることはなかった。
案の定、堪えきれずに泣き出したセアラは先程頭を撫でてもらった自分の髪を触りながら呟いた。
「姉さんだって……昔は同じ色の髪……だったんですよ……」
※
先日、猫とビニール袋を間違える大失態を犯した優和は今日も盛大な溜息を吐いていた。
「何だかデジャヴを感じるわね」
うなだれる優和の背中に労働に疲れ切ったサラリーマンの面影を感じながら澪奈は言った。
「……おまけに悲壮感も感じない?」
多少の差異はあれど、優和にとってはまさに昨日の焼き増しのような一日だった。果たして、優和のドジの数々を多少の差異と言って良いのか難しいところだが、野球選手がキャッチボールをするようにサッカー選手がパス回しをするようにドジをやらかしちゃう優和にしてみれば多少の差異なのかもしれない。
もう幾度目にしてきた分からないうなだれる優和の背中にもう何度励ましてきたのか分からない澪奈が声を掛ける。
「ほら、元気出しなさい! 今日は失敗ばかりしたかもしれないけど、明日は良い日になるかもしれないわよ! 明日は明日の風が吹くって言うじゃない!」
「うーん……そうかなあ……」
「くよくよしないの、失敗しても優和は元気に頑張れる子でしょ! 昔から隣でずっと見て来たんだから、私の言うことを信じなさい」
「……ありがとう、澪奈ちゃん」
(昔から、ドジしていたってことだね……。澪奈ちゃんの優しさは時々残酷だよ……)
澪奈から見ても優和が先日の交通事故になりかけたドジを引きずっていることは気付いていた。
本来なら不安に耳を傾け、適正なアドバイスをするか黙って話を聞くのが普通の解決方法なのかもしれない。しかし、澪奈の過去の経験からすると優和は問題が大きければ大きいほど下手に蒸し返すとさらに自己嫌悪に陥ることを知っていた。
優和にとって何日も引きずってしまう問題は無理して治療せずに、彼女の家の温かな父親と妹に任せた方が完治が早いのだと経験上理解できていた。
だからこそ、定期的に澪奈は歯痒い気持ちになる。今回も無理して優和の悩みを解消するようなことはせずに、今は後ろ髪を引かれる思いでいつもの帰り道に来てしまった。
「じゃあ、優和……私こっちだから……」
「あ、澪奈ちゃん……」
いつもの曲がり角に消えようとした澪奈は踵に力を入れて踏ん張り停止した。
「どうかしたの、優和」
あくまで自然に優和の次の言葉を待つ澪奈。
数分、いや、数秒の時間だっただろう。しばらく口を開けたり閉じたり視線を泳がせたりした優和は、すまなさそうに目線を落として首を横に振る。
「……ううん、何でもない」
「え! ……そ、そう。で、でも何かあったら言いなさいよ」
「うん、ばいばい」
ぎこちない動きで背中を向けて歩き出した澪奈は頭を掻きむしりたい気持ちになっていた。
初めて優和の口から不安を教えてくれるのかと期待したが、結局また彼女は心の闇を打ち明けてくれなかった。
自分が頼りないからなのか、彼女からはまだ親友だと認められていないからなのか、どちらにしても、両方だとしても……今度はこっちが落ち込んでしまいそうだった。
かなりハードな仕事を終わらせた残業終わりのサラリーマンのように体を丸めた澪奈は通学路をとぼとぼと帰っていった。
「優和……アンタはいつだって、私の心を搔き乱すわ……」
※
両足に鉛でもぶら下げたような気持ちで澪奈と分かれた優和はずるずると帰宅していた。
澪奈と分かれてから最初の交差点で足を止める。それなりに大きな道路で交通量も決して少なくはない。
子供の玩具のように往来する車を見ていると昨日の嫌な記憶が嫌でも脳裏に浮かぶ。
「はあぁ」
こんなに溜め息を吐くJKが存在していいのだろうかと頭を抱えたくなる。JKが溜め息を吐くのは、スポーツ漫画の敗北回と惚れた腫れたの恋愛絡みだけと相場は決まっているんじゃないのかい。
などと心の中で精一杯の虚勢を張っていると、ふと目の前をころころと何かが通り過ぎる。
「猫……?」
はっとする。このパターンは先日経験した。
(何言ってんの! また猫とビニール袋を間違える気!? 今は澪奈ちゃんも居ないんだから、ここで下手なことはできないし……ぐぬぬ、おのれ! ビニール袋とそれをポイ捨てした持ち主!)
自分への戒めと地球を汚す愚かな人類へちょっぴり不幸を願うテレパシーを発信しつつ、転がったビニール袋が気になるならせっかくなのでゴミでも拾っていこうと今一度視認した。ただし、危険なくドジもなく取れる範囲でだ。
「――へ?」
二度見してしまう。それはビニール袋ではない、紛れもなく猫だ。一匹の白い子猫が、小さなビニールの袋を追いかけて道路へと向かっていこうとしている。
子猫だからか車内からは死角になっているようで道路脇の子猫に気付く様子はない。頼むから道路から離れてくれと優和は願ったが、ここでも間接的ドジが発動してしまったのか風に押されるようにビニール袋は道路に転がり、それを追うように子猫も加速する。一個のビニール袋と一匹の子猫が向かう先は車の往来の激しい道路。
「え、え、え、うそうそうそ! 子猫さぁん!」
気が動転し躓きそうになりつつ優和は子猫に向かって走り出した。
「はぁはぁ……と、止まってください! お願いしまぁす! おねがい……おねがいだからっ……!」
少し走っただけですぐに胸の辺りが痛くなるが、ここで動いておかないと一生後悔する気がしていた。
子猫までの距離およそ15m~20m。優和なりの全力ダッシュで子猫に近づいていると、へとへとになりながら近づいてくる優和に子猫はぎょっとして足を止める。
(しめた! 今がチャンスよ!)
子猫に引っかかれるぐらい覚悟の上で優和は、今度ばかりは間違いなくふわふわもこもこの子猫に手を伸ばした――が。
「――ふにゃぁ!?」
この声は子猫が捕獲されて驚いた声ではない、必死の形相で捕まえようとする優和に驚いて再び動き始めた子猫に驚いた優和の奇声だった。
呼吸を乱れさせまくりながら近づいた優和に驚いた子猫は、既にどこか遠くに飛ばされたビニール袋のことなんて忘れて無我夢中で逃亡し――その先には道路が待つ。
「だ、だめぇ――!」
カエルのような不細工さで前に飛びながら、伸ばした両手は子猫を掴むこともできずに空を切った。
(やっぱり、私じゃダメなの!?)
ドジでダメダメな私じゃダメなのか、いや、と心の中で否定する。
(――ドジでもダメでも、命を見捨てることなんてできないっ!)
自分がこけても着地できなくてもいいと覚悟を決め、さらに一歩踏み込めば両手で子猫を包んで抱きしめることに成功すれば優和の胸の中でにゃぁと子猫が鳴いた。
「やった……え――」
ほっと安堵した優和を迎えたのは盛大な歓声でもなければ、賞賛の声でもない。――迫りくるトラックのクラクションの音だ。
既に陽は沈みかけ、小柄で体を小さくさせた優和の姿は薄暗くなった視界の中では不可視にも等しく、どんどんトラックのライトが近づいてくる。子猫を抱きしめたままでへたりこむ優和の顔の位置にライトの光線が当たり、強烈な音と悲鳴のようなブレーキ、それから目を覆うような光の中で優和の思考は停止していた。
(死……んじゃ――!)
唯一、心の中でだけは自分にこれから起こるであろう不幸な展開に声を発していた。だが、生まれてから一度も体験したことのない恐怖を前にして身動き一つできない。
このままドジなまま自分は死んでいくのか、さっきまで一緒に居た澪奈ちゃんは一生後悔することになるだろう、家族だってたくさん悲しむに違いない。涙を流すことも許されずに迫りくるトラックを前に子猫をぎゅっと抱きしめた。
このまま子猫と一緒に、あの世という名前の異世界に行くしかないのか――。
「――異世界に行くには、まだ早いぞ」
すっと心にメスを入れるようにして鋭い声が優和の耳に届いた。
優和は急な浮遊感に襲われたが、それは人にお姫様抱っこをされているのだと遅れながら気付いた。
強張った体は華奢ながら温かな感触に包まれ、あたかも生まれたての幼子を包み込むようにして震える優和の恐怖を落ち着かせた。
心地の良いふわふわした感覚の中で優和が目にした光景は、空高く見下ろす街の景色だった。いつから自分は横断歩道橋を渡っていたのだろうかと頭の中がこんがらかってしまう。でも、死を覚悟した時の喪失感は今もはっきりと思い出せた。
次に目線を動かせば、目の前には現実の住人とは思えないほど美しい顔立ちをした銀の長い髪の女性が居た。自然とああこの人が助けてくれたんだと理解できた。
幼い頃に読んだ絵本の中で傘を操り空を舞う女性の物語を思い出した。まるで目の前の景色は、その女性に助け出されたような物語の世界に飛び込んだような気持ちになった。あの頃は、できると信じて高い所から傘を持って飛び降りて足の指の骨を折る怪我をしたものだ。輝かしい思い出と共にドジの記憶もおまけで付いてくるなんて嬉し悲しい。
夢のような空中浮遊はゆっくりと終わり、そっと地面に着地した。
「あ、ありがとうございます……」
恐縮した様子で礼を言う優和に頷くと、魔法使いの女性というよりも王子様然と優和を立たせた。
膝まである地味な色を集めたタータンチェックのプリッツスカート、上半身は青緑色のジャケットを羽織ったスーツのようにも見えるが胸元にはネクタイの代わりにフリルが付いていた。西欧風の民族衣装にも窺えるが、色合いのバランスが現代風にアレンジされている。後頭部の辺りの鈍い色のシンプルな髪留めも彼女が着けているなら高級な装飾にも見えた。
「怪我はないか?」
「は、はい……お陰様で……あ、猫さん」
緊張が途切れたせいか手の力が緩んだことで、子猫は優和の手からぴょんと飛ぶと最後に感謝をするようににゃぁと鳴いてすたこら去っていった。
猫の姿をぼんやりと眺めていた優和は、ふと視線を感じて顔を上げると長身の銀髪の女性がこちらを熱い視線で見つめていた。
(わぁ、長いまつ毛がきれーい……じゃなくて、え、え、えー!? 何ですか、その意味ありげな視線! ラブな視線!? ライクな視線!? それとも、生き別れの妹だったりする!? ……私が運命と出会う日?)
顔を赤くしておろおろする優和とは反対に彼女の眼差しは不出来な教え子の教育を考える教師のように冷静そのものだった。
「運動能力は低く、咄嗟の判断は遅い、しかし全力で他者を守ろうとする覚悟は異世界に向かうもののそれだろう。……伸びるかどうかは己次第というところか」
妙な誤解をしていたのと銀髪の女性が小声で喋っていたこともあり優和には彼女の声は届いていなかった。
優和にいたっては熱い眼差しの真相を知る為に、もじもじとしながら訊ねてみようとしているところだった。
「あ、あの……」
「む……気にしないでくれ。救える命が目の前にあって、救う力がこの手にあるなら助けるのが当然のことだろう。我々からしてみればな」
銀髪の女性は改めて優和が礼を言おうとしていると誤解したらしく、賞賛はいらないとばかりに二枚目な応答をした。そのせいで優和の疑問は彼方へ消え去り、ただただ目の前の女性がかっこいいという感情だけ残った。
「かっこE……まさにクーラーホットティーですねぇ」
「自画自賛をするつもりはないので、間違っていたら失礼だが……それはまさかクールビューティーのことを言っているのか」
「そう、それです! ……頭が痛いんですか?」
何やら頭を抱えているらしい銀髪の女性に優和は首を傾げる。
「いや、気にしないでくれ……。この頭痛は気の持ちようで何とかなるものだ」
「はあ……そうですか?」
気を持ち直した様子で銀髪の女性は一度咳ばらいをした。
「それより、もう暗い時間帯だ。……今日はもう帰るんだ」
「で、でも、私……命を助けてもらったので、お礼をしたいんです!」
一度困ったように眉をひそめた銀髪の女性だったが、何か靄が晴れたように表情の筋肉が緩んだ。
「……じゃあ、私が頼みごとをすることがあるかもしれない。その時は、協力してくれるな?」
「はい! もちろん喜んで!」
一切の疑いなく晴れ晴れとした表情で優和は大きく頷いた。
「ああ、約束だ。さて話は戻るが、今日はもう帰るんだ」
「了解です! それでは、失礼します!」
うむ、と銀髪の女性が頷くと安心したのかやけに楽しそうな背中で優和は去っていった。
優和の背中が見えなくなるまで見送りつつ銀髪の女性は呟いた。
「……どうせすぐに会える。その時に頼み事は聞いてもうらうことにするさ」
その横顔には不敵な笑みが浮かんでいた。