第22話 彼女は少女の物語を待ち続けることを決めた
二階の自室の窓から飛び出した優和を追いかけてエルデも外に躍り出る。
数か月前とは比べ物にならないほど肉体を強化させることができるようになっていた優和は、光線のような軌跡だけを残して飛ぶように最低限の歩幅で自宅から離れる。エルデの強さは圧倒的だが、時間させ稼げれば優和の勝利は明白だった。
地面を蹴り、大地を揺らして、優和は行く当てもなく走り続けた。
かなり距離を離すことに成功したのか、エルデの気配は一向にやってくることはない。
(このまま逃げ続けたら、私の勝ちだ!)
勝利を確信すればするほど、異世界に少しずつ取り込まれていくのを感じる。
ふと眼下の街の景色を見下ろす。こんな高い場所から自分の生まれ育った街を目にした記憶はない。
空高く見ると街の建物一つ一つに思い出が根付いている。無数の思い出の場所は決して観光地ではないが、それら全てが自分にだけ有名な名所のように心の中で輝いていた。
幼い自分と両親が歩いた並木道、初めて一人でお使いをしたスーパー、小学生の時に引っ越しをした友達の家、ラジオ体操で集まった小さな公園、それら全てが今まで生きてきた自分をこれからも生き続ける私を作り続ける貴重な欠片達だった。
「あ――」
ほぼ無意に優和の足は止まっていた。そこは優和にとって思い出深い中学校の屋上だった。
あの頃何一つ変わらない屋上のフェンスの金網の隙間から見える隣の公園が目に留まる。まだまだ一時間ほど待ち合わせの時間に余裕があるはずなのに澪奈が公園の中心の時計の下で待っていた。優和も早めに行くつもりだったが、あの澪奈の様子からしたらもっと早くから待っていたのかもしれない。
「みお……な……ちゃん……」
どうして気付いてしまったんだと自責の念に駆られるものの、すぐ側にある温かな日常を前に目を離せなくなる。
今の優和ならほんの一歩を強く踏み出したら、あの公園に辿り着くことができる。そこまでいけば、後は幸福な日々が続いていくのだ。
フェンスの金網に顔が接触しそうなほど近づいて待ち遠しそうに時計の下に立つ澪奈を優和は眺め続けた。そうこうしている内に、やはり待ち合わせの時間よりもずっと早く志保がやってきた。近づいてくる志保と澪奈は挨拶を交わしたが、何か気に障ることを言ったのか二人が口論になっている様子だった。しかし、もう優和は知っている。二人の口論は、勝手知ったる関係だからこその言い合いなのだと。いつもあの間に仲裁に入るのが優和の役目だった。
「しほ……ちゃん……」
自分が声を掛けたらきっと二人は笑顔を向けてくれるだろう。この金網一枚の先の空間とこちらの現実は既に覚悟ができていたはずの気持ちがしぼんでいくのを優和は感じていた。
「――自分に正直になれ、優和」
背後から聞こえた声に振り替えると予想通りエルデが立っていた。
「先生が、私にこうなるように仕向けたの……?」
涙を流しながら優和がエルデに縋るような眼差しを送る。
「そこまで考えたつもりはなかったが、こうなればお前の気持ちは揺らぐだろうと考えた。お前は優しい奴だ、自分の事はもちろんだろうが居なくなった後に落胆する二人の顔でも想像したんだろう」
「酷いです……」
「ここまでしないと優和を納得させられない、私が力尽くで止めるよりも、ずっとこの方がいい」
「良くないですよ! 先生からこんなやり方は一度たりとも教わってない!」
「卑怯と罵られようが、お前達を無事に日常に戻すことこそが私の信じる正義なんだ」
「――そんな正義の押し付けいらない!」
感情のままに優和は拳を掲げて正面のエルデへと飛び掛かった。
「正義は押し付けるものだ! 守られるべき者は押し付けた正義の上で幸福になるべきなんだ!」
志保と戦った時よりも何倍も素早くなったはずの優和のパンチをエルデは高速のステップで躱した。そのまま優和の背後に回り込んだエルデは容赦のない蹴りを優和の背中に放った。
高い悲鳴を発しながら優和は屋上のコンクリートの床の上に叩き付けられた。
「それなりに本気で蹴ったつもりだったが、やはり丈夫だな」
起き上がりは早く優和は細い足を必死に伸ばして次の戦闘態勢を取っていた。
「そうだよ……だって、エルデ先生が教えてくれたからこんなに強くなったんだよ!」
右腕を振りかぶると伸ばすタイミングで地面を蹴るとそのままエルデに突進した。ミサイルのように突っ込んでくると優和から体を捻り回避する動作をするエルデだったが――。
「――闇雲に戦っても勝てないことも教えてもらった!」
コンクリートの地面に亀裂が入るほどの急ブレーキで急停止した優和は体を捻るエルデの服の脇の下を掴んでいた。
「いつの間に――!」
突っ込むことしかできないと思っていた優和の土壇場での成長に驚いたエルデの体が宙に浮きあがる。
「正攻法じゃ勝てないなら、己の全身全霊で倒す!」
ああそういえば、そんなことも言った気がすると考えたエルデはそのままさらに地面を蹴って屋上の金網を突き破り中学校のグラウンドに優和もろとも落下していく。
「やけくそだな、こういう時は戦闘経験で差が出ることを体で教えてやろう」
服を掴んだままの優和の手首をエルデは空いた手で捻り上げると優和は痛みで顔を歪めた。その一瞬の隙を逃すことなく、優和の体を地面側にエルデはその上に乗る形でそのまま三階建ての建物からグラウンドの地面に激突した。
もくもくと爆弾を投下した後の大地のように天高く土煙の中でエルデは凹んだ大地でうつ伏せで横たわる優和を見下ろしていた。
「さすがにもう動けないか? 私でなければ、その捨て身の作戦で倒されていたかもな」
三階建ての校舎の屋上から飛び込んだのだ。まともな人間はもちろん、身体能力を強化している優和にも深刻なダメージが残っているはずだった。
心の中でエルデは優和を傷付けたことを謝罪しつつ意識を失った優和からワールドパスを奪う為に近づいてその手を伸ばした――。
「――本当に頑丈だ」
――エルデの右手の手首を優和の左手は掴んでいた。
震える体に鞭を打ち、顔を上げて、右手で体を起こすとエルデに向き直る。
「やっぱり、決めたよ……。先生を異世界に行かせたくない……もう行ってほしくない……!」
「その結果、自分の幸福を全て失ってもか?」
短い時間で優和は何度も自問していた。そして、悩めば悩むほどに答えは定まっていった。
あの温かな時間は二度と帰ってこないかもしれないが、どれだけ時間が経過しても変わらないものもあるのだと優和は信じられた。それは、澪奈の優和を想う強い心であり、志保のエルデへの強い感情であり、家族から受ける愛情だったり……それら全ては不変的で揺るぐはずがないと真っすぐなエルデの姿から信じることができた。
「――失わない! だって、先生はずっと迷うことなく揺らぐことなくそこに立っている! それなら、簡単な話だよ。……先生の教え子である私が一度や二度の異世界転移で変わるはずがない! そして、私は私を信じてくれる人達をずっと信じていられる! ……先生、私の友達や家族はみんな頑固で真っすぐな人達なんだよ? 知っているよね?」
綺麗な優和の二つの目がエルデを見据えていた。
数ヵ月前に強くなりたいと願った頃と同じ目をした少女がそこには居た。
華奢で弱くて泣き虫で、でも、こういう時は頑固な性格をしていた。腕力は無くても脚力は弱くても難しい作戦は作ることができなくても、この子は誰よりも強い心を持ち合わせていた。それは他の何よりも異世界を転移する者には不可欠な要素だった。
「ゆ、優和……君は私に……そんな姿を見せてくれるというのか……」
動揺したのはエルデだった。
誰よりも辛くてずっと我慢していたのはエルデの方だった。優和ははっきりと断言しているのだ、エルデを救うのだと。
「絶対に見せるよ、先生の教え子はみんな強いからね。どんな絶望的な世界だとしても、私は負けない。私は私らしく、そして、先生の教え子らしく……異世界から帰還します」
「大勢の絶望し苦しみ……今もなお苦しみ続けている異世界転移を経験した者達を知っている。お前は知らないだけだ、あちらの世界がどれだけ過酷な旅になるのかを!」
言ってしまった後にエルデは、しまった、と思った。これではまるで、あの時倒したフィルメと同じじゃないかと考えた。
自分でも知らない内にエルデの心の中には、あのフィルメの女と同じような考えを持った自分が居ることを知った。いつしかフィルメの女のようになりたくない自分が、今の自分だけの正義を信じるエルデを作り出していたのだと不思議と抵抗感もなく納得できた。
「それでも、私は救いに行きます! 私は異世界を転移する者であり、世界を救う者ですから! それに、異世界で困っている人が居るなら放っておけないじゃないですか!」
傷ついた体で汚れた服を気にもせず、優和は満面の笑みを浮かべた。異世界を渡る直前に、こんなにも見事な笑顔を見せたものはエルデも知らなかった。いや、それ以上にその笑顔に圧倒されたのだ。
気が付くとエルデは優和に伸ばした手を引っ込めていた。それは、エルデの完全敗北を意味していた。
「私の負けだ……優和を止めることはできない……。どこに出しても恥ずかしくない、立派な生徒に育ったな」
一度引いた手を次に伸ばす時には、その手には治癒の魔法を発動させながら優和の頬に優しく触れた。
「……わがままばかり言って、ごめんなさい。私、必ず帰って来ますから」
「ああ、君の帰還をずっと待っているよ。何年経っても何十年経っても、私は変わらずこの世界で待つよ」
今まで聞いたどの言葉よりも優しく穏やかなエルデの声を優和は耳にしながら、このまま異世界へと向かうのも悪くないなと思い始めていた頃――。
「――優和っ!」
慌てた声と駆けて来る足音に優和は目を向けると、そこには澪奈と志保の姿があった。どうやら騒ぎを聞きつけて、ここまでやってきたようだった。
既に優和の肉体の半分ほどが異世界へと繋がり始めているようで、腰から下は半透明に変化している優和の姿にやってきた二人は愕然とした。
「嘘、予定よりも早いじゃない……」
「優和! 優和! 優和……!」
足を止めて動けなくなる志保と反対に澪奈はエルデを突き飛ばさんぐらいの勢いで優和に抱き着いた。
「そんな……どうして、優和が……エルデ先生は――」
「――エルデ先生は悪くない、私が決めたんだよ」
事情を知っていたらしい澪奈を優和はいつもの優しい声で制止した。
あまりにも晴れ晴れとしている優和の顔に澪奈は付き合いの長さから全てを察し、ただただ涙を堪えながら優和の手に触れた。
「行くの早すぎるわよ……。せめて、今日ぐらいは……ゆっくりしていきなさいよ……」
「ごめんね、澪奈ちゃん……。たぶん、あっちの世界も大変なんだと思うんだ。私が行かなくちゃ……」
すると澪奈の手の上から志保の手も重ねられた。我慢している澪奈と違い、志保の両目からは一向に止まる様子の無い涙の粒が次から次に溢れ出していた。
「ようやく友達になれたのに……。でも、もう決めたのね……だったら、異世界で……優和らしく大暴れしてきなさい……」
「うん、ごめんね……私頑張ってきます……」
少しずつ優和の体が空気に溶けるように消えていく。
三人が必死に優和の名前を呼び、消えかけるその肉体を求めて必死に手を伸ばす。
「みんな、お父さんと智悠をよろしくね。二人への手紙は、私の机の中に用意してあるから……。もちろん、みんなの分もあるんだよ」
「任せてくれ、手紙を渡した後も、私が必ず二人を守る。君の帰る家は……いいや、君の居場所はこの命に代えて守護しよう。それに、ここにいる者達みんな優和の帰りを変わらずにいつまでも待ち続ける。……絶対に帰ってこい、ここに君の居場所は存在する」
「えへへ……それなら、安心だねぇ……」
気の抜けた優和の笑顔に釣られて三人も笑みを浮かべようとした直後、優和の体はそれこそ僅かに残った蝋燭の火を消すようにふっと消え去った。
「あ……ああぁ……優和あぁぁぁぁぁぁぁ――!!!」
うなだれるエルデと志保の傍らで澪奈が親友の名前を涙と共に叫んだ――。