第2話 ドジが歩けば棒に当たる
体育の授業で優和が盛大にやらかしたその日の放課後――。
がっくりと肩を落としつつ優和は溜息と共に言った。
「はぁ~……どうして失敗ばかりしちゃうんだろ……」
優和がいくらドジとはいえこれは独り言ではない。
夕日に照らされて歩く影は二人分。身長150㎝の優和よりも5センチ程背の高い、親友の井伊薪澪奈だ。
「一度や二度のミスぐらいで、くよくよしちゃだめよ」
「でも、澪奈ちゃんはいつもちゃんとしているっていうか……クラスでもしっかり者の位置を確立している感じがするし……既に委員長的なポジションになりつつあるよ……」
額の絆創膏を指でいじる優和の手に自分の手を重ねた澪奈が優しくどかす。
いつだって澪奈は優和の味方であり、同級生でありながら幼馴染であり姉のような存在でもあった。役割が多すぎて、一つぐらい放棄したくなる気持ちを表に出さないぐらい良い友人だ。
澪奈は特徴的な人間風車状態の大きな白いリボンで髪を結びポニーテールにしている。真面目な彼女には珍しいぐらいの目立つチャームポイントである。これは昔、澪奈を他人と見間違えて怒られるドジをした優和の為に目立つリボンを付けるようにした為だった。
「私だって忘れ物の一つや二つはするわ。この間だって、優和にシャーペンの芯を貰ったでしょ? それに、私は委員長じゃないわ」
「はあぁ……無自覚さんだね、澪奈ちゃん。滲み出る委員長オーラは消そうとしても消せないし、時々いるでしょ? 委員長の発言力を上回る影の権力者さんがさ……。ちなみに、澪奈ちゃんが忘れ物をしたのはいつ?」
やさぐれた優和に元気になってほしくて澪奈は慎重に応じる。
「……ちゅ、中学生の時に何回か……」
「私は週二、三回のペースだよ……。基本、忘れているよ……普通忘れないでしょ……こんなに……あぁぁぁ……」
「こ、こら! 優和、そんなところで屈まないの! 早く帰るわよ!」
「――あ、にゃんこ」
「へ!? あ、ちょっと待ちなさい、優和!」
澪奈の制止する声も振り切り、優和は目に見えない糸に引かれるようにして足元を横切る影を追いかける。
それはまるで蝶を追いかける幼い子供のようで、周囲のクラスメイトと比べると子供っぽい雰囲気の優和の姿に真実は自分よりもずっと幼いではないかと思い違いを澪奈はしてしまいそうになる。
ふと、澪奈は影を追いかける優和の光景に引っかかりを覚えた。
「うん?」
「――た、大変だあ! にゃんこがっ!」
突然、血相変えて走り出す優和は道路に向かって行く影に手を伸ばそうとしているようだ。そして、影は左右上下に縦横無尽に動くと掃除機に吸引されるゴミのように道路へと転がった。
首を傾げて眺めていた澪奈は、すぐにその違和感と危険に気付くと大急ぎで優和の背中を追う。
「優和! 危ないっ!」
「え――きゃぁ!?」
澪奈は優和の首根っこを強引に掴み、自分をクッション代わりにしながら優和を抱き寄せて二人一緒に地面に転がった。
呆然とする優和達の前方を大型トラックがクラクションを鳴らしながら通り過ぎて行った。
「あれ? え? ……にゃんこは……?」
「よく見なさい、優和……」
ぜぇはぁと澪奈は大きく息を吐きながら、かしゃかしゃと音のする優和の追いかけていた影を指差した。
「――ビニール袋?」
きょとんとする優和を澪奈は体を起こすように促せば、何が起こったのか分からない様子の優和を抱きしめた。
「ばか優和! アンタが猫だと思っていたのは、ただのビニール袋なのよっ! もう、ドジ! ほんと、ドジ! でも……でも……無事でよがったぁぁぁぁぁぁ!」
「え!? 私、またやっちゃったの! き、清香ちゃん! ご、ごめ――あ」
必死に謝ろうとした優和は閉口する。
罪悪感で胸が痛くなる優和の目に映ったのは、彼女を抱きしめたままで心の底から心配してわんわんと大泣きする澪奈の横顔だった。
※
「ただいまー」
気だるい声で帰宅した優和を優しく受け入れるように、朗らかな二つの「おかえりー」という返事が玄関から続く突き当りのリビングから聞こえた。
洗面所でうがい手洗いを済ませて、リビングに向かえば、毛先の揃ったセミロングヘア―の妹の智悠と優男風の縁の黒い眼鏡を掛けた父の翔真がキッチンで夕食の準備をしていた。
リビングの扉が開くと、数年前から話題になっている異世界転移者の特集を放送していたが扉の開く音に反応するエプロン姿の二人の笑顔の前にすぐに興味を失った。
「おかえり、お姉ちゃん。もう少しで夕飯できるから待っててね」
妹の智悠は今年で中学二年生になるが、どちらが姉か妹か分からなくなるぐらいしっかりとした性格をしている。
品行方正で成績も上から数えた方が早く空気も読むという特殊能力を兼ね備え、バレンタインデーには同姓からチョコを貰い、異性からは渇望される。文句の付け所のない妹であり、どこに出しても恥ずかしくない自慢のマイシスター。嫁に行く時は、父親以上に駄々っ子のように泣き出すことは目に見えた優和だった。
「智悠は、いつまでもお姉ちゃんの側に居てね」
首を傾げた智悠は、すぐににっこりと笑顔で返答した。
「もう、急にどうしたのお姉ちゃん。言われなくても、大好きなお姉ちゃんのお世話していくからね!」
(好き好き大好き、智悠)
智悠への愛で心がいっぱいになりながら、最後のお世話という言葉に引っかかりを覚えていると、次に満面の笑みを浮かべたのは父の翔真だった。
「優和優和! 僕には何か言ってくれないのかい! 優和の言葉を今か今かと待機中なんだよ! 全裸待機中だよ!」
「……全裸?」
疑惑の眼差しで優和は翔真を凝視してみるが、一糸纏わぬ姿ではなさそうだが。
「やだもう、お父さんってば! ちゃんと服着てるよー! それとも、裸エプロンなのー?」
「はっはっはっ! この間ネットに書いてあったんだ、好きなアニメを見るときは全裸で待機するってね! それとも、全裸エプロンが良かったかなー!」
ケラケラと肩に手を置いて笑い合う二人の姿を見ながら、優和はいつも再認識する。
自分がどれだけ落ち込んで帰っても二人が楽しそうに優和に心地の良い時間をくれるのだ。すると、心に刺さっていた棘がするりするりと抜け落ちる。二人は優和にっとての特効薬になっていた。
「お父さんも智悠も、いつもありがとうございます」
深々と頭を下げる優和に照れくさそうにする翔真は腕まくりをしていたシャツの袖をさらにめくった。
「よーし! こうなったら、今日は気合いを入れて優和には特大ハンバーグを作るぞ! 目指せ、インスタ映えだ!」
「さっすがお父さん! 常に娘達と会話を合わせる為に流行語はばっちりだね! さすがですね、お父さん!」
「また二人して、おかしな事を言ってるし……」
いつだって二人の明るさにこうやって優和は助けられていた。だからドジでも良いと思いもするし、だからこそ直さなければいけないとも思う。
(いやいや、何を言っているの! ドジじゃない方がいいじゃない!)
よし、と両手にぎゅっと力を入れてキッチンに前進する優和。
「いつもは二人にやってもらっているけど、今日は私も手伝うよ!」
父親のように腕まくりをしながら炊事場に立とうとする優和に気付いた翔真と智悠は血相変えて口を開けた。
「優和は、テレビでも見てて!」
「お姉ちゃんは、ゆっくりしてて!」
二人の声が耳に届いた瞬間、過去に料理を作ると言ってやらかした己の姿を思い出し、優和はそっと腕まくりを正した。
(……やっぱり、ドジは治したい)
※
本日のドジを洗い流すような気持ちで優和は夕食の後に風呂に入っていた。
入浴剤によってクリーム色になった湯舟に肩まで浸かり、体育座りになって今日一日の反省をしていた。
(私、またやっちゃったな……)
思い返したら、後悔の連続。寒空に立たされるような自己嫌悪。
コンビニで別のお店のポイントカードを出してしまい慌てて財布の中身をぶちまけてしまったり……。
移動教室の場所を間違えてしまったり……ちなみに入学してから三度目だ。
教室を間違えるのはまだいい、入学式の次の日に自分のクラスすら間違えたうっかりガールはこの私だよぉ。
学食でのあれも、授業中のそれも、通学路のあんなことも……。
思い出すたびに、胸の奥がきゅうぅと苦しくなる辛い思い出ばかり。自分だけが辛い目に合うのはいいけど、澪奈ちゃんや他のみんなに迷惑を掛けていることを考えていると学校の屋上から飛び降りたくなる。……飛び降りたくなるだけで実行はしないけど。
「どぼじたらぁ~」
ぼこぼこと水泡を立てながら水中で喋ってみるが、悩んでいる出来事の大半がくだらないことが多いので情けなさが三割増しになるだけな気がする。
先人達は努力の先に待つ明るい未来を夢想しろとアドバイスをくれる。
私だって努力だってしたことはある。運動が苦手なので運動を頑張り、運動がダメだと思えば勉強を頑張る。だが、そこにどうしてもドジという生まれ持っての個性が邪魔をするのだ。
練習を重ねてきても、ここ一番というところで体調を崩したり、学んだ科目と翌日のテストを間違えていたり、誰かの役になろうと掃除や片づけをしたら、それは掃除してはいけないものだったりと……空回りに裏目が出ているという最悪なコンボを生んでいるのだ。
今さっきだって、シャンプーの液体をを空のボトルに詰め替えたと思ったら、詰め替えたのは液状の入浴剤だったのだ。お陰で頭からは嗅いだことのない香りが漂っている。
一歩歩けばドジ、二歩進めば空回り、三歩目で裏目。
犬も歩けば棒に当たると言うが、少し私の前には棒がありすぎる気がする。そういうゲームなら、難易度が高すぎる。スーパー○リオだって十年かかってもお姫様を救い出すことはできないだろう。事実、私はゲームは何一つ最後までクリアしたことはないのだから。
しかし、この諺は嫌いではない。
良い意味もあるし悪い意味もあるのなら、私にとっては都合の良いのだ。
歩いていけば、悪いこともあるのだろうが良いことにもぶつかる日がくるのだろう。
明日こそ、私にぶつかる棒が思ってもいない幸運であることを信じてお風呂から上がることとする。
「よいっしょ――え、ちょぉ!?」
不運にも風呂から上がろうとした私の足元には父の愛用している石鹸。まさか、足元に障害物が転がっているなんて想定していない私のバランスは猛烈なスピードで崩れる。
「――ぐへぇ!」
地面にベチンと打ち付けられながら、一発目にぶつかった棒が不運の棒であることにしくしくと泣いた。