第14話 彼女はこうしてヒロインになる
幸運か不運か、優和はエルニャンを発見した。
森の奥の開けた場所でエルニャンは巨大な図体を横たえて寝息を立てていた。
追いかけっこのつもりで奥まで来たが、あまりにも追う側である優和は遅すぎて辛抱できずに眠ってしまっていたというところだろう。
そこまではさすがの優和も推測できるが、見れば見るほどにこの巨大な生物を倒す方法なんて思いつかない。
エルニャンの隣には大きな大木が一本あり、大木をお腹に当てて抱くようにして体を丸めて眠っている。
家の柱に使えそうなぐらい大きな木のはずだが、エルニャンの横にあればそれはただの小枝ぐらいのサイズにしか見えない。そして、そんな小枝よりもさらに小さな存在が自分だと優和はまざまざと思い知らされた。
「どうすればいいか分かんないよ……」
充分な距離をエルニャンから保った上で体育座りをすると空を仰いだ。既に空は暗く、無数の星々が膝を丸める優和を小馬鹿にしているようだった。
両手を広げて何となく空間に念じてみるが、それらしい変化は起きない。念じる方向をエルニャンの寝ている方向へ変えてみるが、あの巨大猫の髭を揺らすことすら叶わない。
お前は無力な負け犬だとエルデの声で聞こえた気がした。彼女はそこまで理不尽なことは言わないだろうが、このまま帰ってしまえば容赦のない現実をぶつけてくるに違いない。
深々と溜め息を吐いて、優和は遠巻きに見守るエルニャンの鼻息に体をびくりとさせて、巣穴にこもる小動物のように自分の体を覆うほどの大木の裏に身を隠した。
そうだ、無理して戦う必要はない。チャンスを待つんだ、とそれより先のことは一切思考することはできない。きっとチャンスが発生しても、逆転するどころか行動に移すことすらできないのは明白だった。
寝ているエルニャンの方向から木の枝を踏むような音は聞こえて、反射的に優和は顔を上げた。
「――なん、で?」
その時、目に留まったのは――木の棒を両手で握り上段で構えてエルニャンに歩み寄る澪奈の姿だった。
(どうして、澪奈ちゃんがここに!? エルデさんと待っていたはずじゃ……!)
困惑する優和は澪奈がどんな覚悟でここまで来ているのか知る由もない。
簡単な話である。不運にも澪奈は優和より先にエルニャンを見つけてしまったのが原因だ。
優和を守る為に志保を殺すと言った澪奈は、そんな優和を傷付けるであろうエルニャンも彼女に相対する前に倒してしまおうと考えたのだ。
普段の彼女ならそんな自殺行為は絶対に冒さない。それでも、今まさに目の前の危険に踏み込もうとするのは、直前のエルデのやり取りに感情が暴走し我を忘れているからだ。
冷静さを欠いたままの澪奈は木の棒を高く振り上げた。スイカ割りでもしているような大振りで、寝息を立てるエルニャンの頭部に木の棒を振り下ろした。
「やあっ――!」
ごすっ、と鈍い音が周囲に響いた。
重たい瞼がゆっくりと開眼すると、夜の闇の中で金色の左右の目がギラリと輝いた。
息を呑む澪奈は後退りをした左足をその場で踏みとどまり、今一度木の棒を構えた。
エルニャンの鼻息すら掛かる距離で澪奈は卒倒しそうになる気持ちを堪えてもう一度木の棒を振り上げた。
目覚めたばかりのエルニャンは彼女が標的かどうかは理解できていなかった。澪奈に木の棒で殴られたとはいえ、痛みだけなら蚊に刺された、いや、虫の羽音を耳にした程度の不快感のエルニャンはそのまま澪奈を無視する気持ちもあった。実際このまま背中を向けて逃げてしまばえ、再びエルニャンは眠りに落ちていたことだろう。しかし、元々気が大きくなっていたことに加えて恐怖が澪奈の行動を暴走させた。
「優和は私が守るんだからっ――!」
エルニャンは甲高い悲鳴を発した。
エルデも鼻で笑ってしまうような弱い木の棒の一振りが不幸にもエルニャンの左目を直撃したのだ。
奇声を発しつつ顔を振り回したエルニャンの風圧に澪奈の体は体重を感じさせないまま浮き上がる。
声の出ない悲鳴を上げる優和の前で、澪奈は幸いにも柔らかな土の上に転がった。
大地に顔を押し付けるエルニャンは苦し気に左目を何度も片足で押さえれば、もう片方の目は憎悪と共に澪奈を捕捉する。
足元の地面を爆発させながらスタートを切ったエルニャンは、右手の爪を振りかぶる。
幸いにも意識が戻った澪奈は顔を上げることもなく闇雲に地面を蹴った。直後、澪奈が倒れていた地面を抉りながら爪が通り過ぎる。それでも、その猛烈な余波を受けた澪奈は落ちかけた体をさらに上昇させて宙を舞った。
「澪奈ちゃ――ん!!!」
気付けば優和は走り出していた。
既に恐怖は消えていた。いや、消えることはない、今感じている新しい恐怖は大切な親友を失うこと。
もたつきながら駆け出す優和の目の前で澪奈は地面に叩き付けられた。
「あっ――! いやぁ!」
すぐさま澪奈を抱きしめた優和は、そのぐったりした体に頭の中が真っ白になる。
テレビドラマの真似をして脈を確認すれば息をしていることが分かった。直前に体を浮かせたことで、ダメージを抑えることができたのだろう。それでも、あの巨大な猫の標的にされているのは変わらない。
安堵する間もなく顔を上げた優和に向かって怒りに燃えるエルニャンは熱い鼻息を吹きかけた。
全身の毛穴が開いていくような感覚に、四肢から力が抜けていくようだ。この感覚は、志保に命を奪わそう時と酷似していた。しかし、あの時と明らかに違うのは、ここにはエルデ先生が居ない。たったそれだけの事実が、優和をさらに臆病にさせた。
流れる汗すらエルニャンの殺意のスイッチを押してしまうのではないかと優和はその場で停止した。
右足が動くか左足が動くか、エルニャンは激情した状態から今は獲物を物色するような雰囲気に変わっていた。
惨たらしく殺されるかもしれないことを考えて優和は、ただ恐ろしいと考えた。
恐ろしい、恐ろしい、そこまで考えて、死の恐怖に直面して、ようやく気付いたのは――本当に恐ろしいのは――親友が死ぬことだという当然の恐怖。
小さく息をする澪奈の髪を優和はそっと撫でた。
「ごめんね、ごめんね……私がもっとしっかりしていたら、澪奈ちゃんはこんなことにならなかったんだよね。だから……私、決めたよ」
そっと澪奈の体を地面に横たわらせて優和は立ち上がる。どこかに抜けてしまったかと思った四肢の力は、最初からそこにあったのだと主張しながら活力が戻っている。
恐怖で離すことができなかったのか澪奈が辛うじて握ったままになっている木の棒を優和が掴んだ。両手で支えないと頭の上まで持ち上げられなさそうだ。
先が地面に付いたままでもいい、それでも戦うんだ。
命を懸けて守ってくれた親友に守られるだけの価値があるのだと証明する為に。
戦うことで、この大切な親友を救う為に。
そして――自分にこんな感情があったのかと優和は自嘲気味に笑んだ――目の前のバケモノを倒す為に。
「強くなる、強くなって異世界に行く! そして、他の誰も泣かせない、泣いているなら……涙を拭う! そんな英雄になる為に、私は戦う! ――もう誰も、傷つけさせないっ!!!」
優和の声に応じるように彼女のワールドパスが輝き始める。
弱い自分を捨て、新たな世界に向かう為の強い意志が優和の体に力を満たしていくのを自身で感じていた。
「これが、私の――ワールドアビリティ?」
――直後、痺れを切らしたエルニャンの大きな右足が優和の立っていた地面に突き刺さった――。