第13話 優しい残酷さ
あれから――本当に、優和とエルニャンの追いかけっこが始まった。
無論、エルニャンが優和を追いかけるようなルールなら即勝負は着いているので、追いかけるのは優和で追われるのはエルニャンである。
ただエルニャンにタッチをするだけならまだしも、この特訓はかなりの荒療治になる理由はその勝利条件にある。
――広い山の中で逃げるエルニャンを発見し、なおかつ……倒すこと。
ルールを聞くと同時に諦めたのは、優和もこれが初めての経験だった。
※
既に陽は沈み、優和はただ広い森の中をボロボロになりながら歩いていた。
叱責するエルデに無理やり背中を押されて、森の中に消えたエルニャンを追いかけて飛び込んだ先はキャンプ場の有様からお察しの通り道と呼べる道は見当たらなかった。そもそも、エルニャンが飛び込んだ場所からして道なんて無い。そんな獣道を軽いステップで消えていくエルニャンを前進するだけでも精一杯の優和が見つけるなんて途方もない話のように思えた。
視界の外から飛び出した枝で傷付き、転んでは擦りむき、膝からは血を流し、打撲でもしているのか体の至るところが痛みに悲鳴を上げている。
遠くか近くかも分からない場所から聞こえてくる鳥の声に身体を硬直させた優和はその場でうずくまった。
どこまでも深い夜の闇のような森がざわざわと優和の不安を煽るように揺れる。
「こんなんじゃ……エルニャン見つけてもどうしようもないよ……」
泣き言を口にして何とか自我を保ってはいるが、気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうな気持を隠していた。
喧嘩だってろくにしたことのない、家族とだってまともに口論すらしたことのない大人に反抗的な思春期すら記憶にない。そんな自分が、あの巨大な猫を倒すというのか。
鋭い牙に鋭利な爪、相対するのを想像するだけで怖い、怖い、怖い、怖い、恐怖。
「うぅ……助けて……誰か、助けて……」
最後の壁が崩れたようで、止め処なく涙が溢れてくる。
何度泣いたのだろう、何回助けを求めたのだろう、きっと自分はこれからもずっと変わらない。
変わることを願ったあの気持ちは、幼い子供が夢物語を語るほど現実感の無いものだったのだろうか。
木々のざわめきにじっとしているのも怖くなった優和はエルニャンが残した大きな足跡を手掛かりにして這うように進むしかなかった。
逃げないことが唯一の救いだと自分に言い聞かせて――。
※
優和とエルニャンが消えた森の中をあれから一歩も動くことなく見つめるエルデに澪奈は痺れを切らして声を掛けた。
「エルデさん、もういいでしょ」
「何がだ」
じれったそうに澪奈は言葉を続けた。
「早く優和を迎えに行きましょう。あの猫……エルニャンを倒せだなんて、優和の覚悟を確かめる為の口実なんですよね。優和には、エルニャンを倒すなんて――」
「――無理か?」
ドキッとしたのは何故か澪奈の方だった。エルデの言い方が、まるでこちらを責めるように聞こえたからだ。そのせいか自分の話でもないのに、まるで隠し事を突かれるような気持ちになる。
何が見えているのは優和の消えた方向から目線を動かさなかったエルデが、そこで初めて澪奈を目にした。
「そうやって、優和の可能性を潰すのか」
「は、はあ? そういうことを言いたい訳ではありませんよ!」
「いつもそうやって、優和を助けるつもりで、あの子を傷付けていたのだろう?」
初対面の時から幾度となく感じていた漠然とした不信感の正体に澪奈はそこでようやく気付いた。
いきなり現れたエルデが上から目線で話をすることじゃない、優和を異世界に連れて行ってしまうからでもない、優和を傷付ける可能性を持った人だからだけではない。
――本質を見抜かれていたからだ。
「そんなつもりじゃない……。私は、友達として優和を守っていたつもりよ……」
「守って庇って大切にして……。それが本当に優和の為になっているのか? そこで満たされるのは、君一人の感情だけではないのか。後悔を抱えたままの優和はどうする? 君のやってきた事は、挑戦した先にある挫折すら味わえない。……残酷な事をしてきたと考えているのだろ」
最も心の中で触れてほしくない部分をエルデが踏み込んでいることを澪奈は理解していた。
澪奈は思う。
改めて言われなくても、そんなことは分かっている。何回も、何十回も、優和の可能性を潰してきたのは自分だ。だが、エルデは知らない。
失敗し罵声を浴びさせられる優和の潰れそうなあの姿を。
失敗し陰で囁かれる言葉に心を痛めるあの小さな体を。
失敗する度に自分を追い込んでしまう真面目過ぎるあの子の背中を。
だから、叫ぶのだ。エゴイストなりの詭弁を。
「――アンタに何が分かんのよ! 最初から失敗して傷付くと分かっている親友を無視なんてできないわっ! 例え甘い世界を見せてあげることが、優和にとって毒だとしても、私はあの子を甘やかし続ける! いい機会だから言わせてもらうけど、優和を厳しくしようとするアンタとは一生相容れないわ! だって、私は世界の滅ぶその直前まで優和を甘やかし続けるんですもの!」
顔を赤くして喋り切った澪奈をエルデはまじまじと見つめていた。
嘘を言っている様子はない、これが迫真の演技なら、自分の人生観だって変えた。自分の発言を今さら恥ずかしくなってきたの顔を目を逸らす澪奈の姿にエルデは初めて薄く笑った。
「……そうか、それは確かに相容れないな」
不機嫌そうに鼻を鳴らした澪奈はその場から駆け出す。
咄嗟にエルデが声を掛けた。
「どこへ行く」
「言いたいことを言ったからスッキリしたわ。私は私らしくやらせてもらうわ。――今から優和を探しに行く」
「ここでも甘やかしてしまうなら、優和は志保を止められないかもしれないぞ」
「構わないわ、その時は命懸けで志保を殺すだけよ」
あまりにも曇り一つないすっきりとした顔で澪奈が言うので、エルデは次の言葉が出てこなかった。
これ以上語ることはないとばかりに危険しかない森の中に澪奈はさっさと飛び込んでいった。
消えていった澪奈を見送ってからようやくエルデは、とんでもないことをしてしまったと頭を抱えた。
「これはマズいことになったかもしれない……」