第12話 ペットボトルと死の香り
エルデから渡されたペットボトルを両手で握ったままの状態で優和はもうすぐ三十分は経過しようとしていた。
ふぅと息を吐いて優和は表情一つ変えずにペットボトルとにらめっこをする優和を眺めていたエルデに問う。
「飲むんですか?」
「飲みたいなら飲むがいい、代わりならいくらでもある」
「ぐぬぬぬ……」
再びペットボトルを忌々しそうに見つめる優和は三十分前のエルデの言葉を思い出していた。
※
小学一年生の時に急に渡された玩具のような教材を眺めるような気持ちで優和は水の入ったペットボトルを覗き込む。あの時初めて見た教材に比べたら、ずっと身近な物なのは確かだ。
「異世界から与えられた異能力を総称してアナザーアビリティと呼ぶのだが、そこには何かしらのエネルギーが発生する。しかし、それがどんなアナザーアビリティか分からなければ、鍛えようがない」
「それは異世界に近づくにつれて後々分かってくることなんじゃないんですか?」
「時間に余裕があればな。だが、志保という敵が現れた以上そういう余裕はない」
「それとコレと、どういう関係が? もしかして、飲んだら凄く強くなる水とか!?」
ペットボトルを上下に揺らす優和にエルデはゆっくりと首を横に振る。
「残念だが、ただのミネラルウォーターだ。……これはカーヴァネスで開発した特殊な水で、アナザーアビリティの検査薬のような物になる。もし優和に僅かでも異能力覚醒の兆候が出ているなら何かしらの反応が起こるはずだ」
「でも、ただのミネラルウォーターて……」
「一般人からしたら、飲んでも害は無いただのミネラルウォーターだ。しかし、ワールドパスを持った人間には、自分の異能力の正体に気付くリトマス紙の役割になる。判明方法はバラバラだ、衝撃を与えてもいい、祈ることもいい、念じるのもいいかもしれない、力を欲した時に何か変化が起こる」
「ほ、本当かな? ……起きる気が全くしないのですが……」
とりあえず、両手でペットボトルを握り強く念じてみることにする優和だったが――。
※
――そして、三十分が経過した。
変化があったとすれば、陽に照らされてペットボトルの水がいくらか蒸発したぐらいだろう。
持っていることにも耐えることができなくなった優和はペットボトルを手放した。
「無理だあ! 無理です! やっぱり、何かの勘違いじゃないですか!」
足元に転がるペットボトルを拾い上げたエルデは、手汗で湿ったペットボトルと優和を交互に見た。
「乱暴に扱うな、これは貴重な物なんだぞ。それに無理かどうかは問題じゃない、やるしかないんだ。逃げたり拒否するような選択肢はもう残されてはいない」
「で、でも……――あいたっ!」
弱音を吐く優和にエルデは勢いよくペットボトルを投げつけた。鼻っ面を鈍い痛みに襲われた優和は目を閉じる。
「でもは使うなと言った。今回の件、優和に一任すると決めた以上は、教えることはあっても最後まで手助けはしないつもりだ。想像を巡らせろ、ここで頑張らないと志保は家族や友人を傷付けることになるぞ」
エルデの言葉に鼻の先をさすっていた優和は顔を上げた。
「……うん、がんばりますっ!」
落ちたペットボトルを拾った優和は強く念じる。
先程までと集中力の違う優和にエルデは今回こそうまくいく予感を感じていた――。
――しかし、正午まで何一つ変化が起こることはなかった。
※
澪奈の用意した昼食を終えた三人の空気は重たい沈黙に包まれていた。
落ち込む優和に腫物に触れるように接する澪奈だったが、エルデの一言によりその場の空気は一変する。
「――優和、お前はやはりドジでダメダメだ」
容赦のないエルデの言葉に優和は俯くが、庇うように澪奈が声を荒げた。
「優和だって一生懸命やってんのよ! 教え方が悪いんじゃないの!」
無表情でエルデはさっさと応答する。
「無論だ、優和の半日を無駄にしてしまったのは私の責任だろう。まだまだ私の甘さを再認識させられたよ。……立て、優和」
「な、何をさせるつもりよ……」
普段以上に威圧感を発するエルデを前に今にも飛び掛かりそうな雰囲気すらあった澪奈はたじたじになる。もちろん、優和も同じく彼女の発するプレッシャーに気圧されて簡単に発言することもできなくなっていた。
「覚悟しろ、これから異世界に強制的に片足を突っ込ませる」
疑問を声にしようとする二人よりも早くエルデは手の甲を掲げる。すると、時間も時期もずれているはずだが蛍が飛ぶようにエルデの周囲に淡い光が点々と浮かぶ。
固唾を飲んで見守る二人を驚愕させる出来事が続いた。
エルデの周囲の空間が歪んでいるのだ。風景の写真を指で摘まむように捻じれていく。
「――。――……!」
英語や中国語とも違う、何らかの言葉を呟くエルデの言語は理解できなかったが、これが魔法の類だということは澪奈には察することができた。優和だけは、口をあんぐりと開けて思考が停止状態に陥っているようだった。
歪んだ空間の中心に黒い点が発生したかと思えば、それがどんどん大きくなることですぐ側のエルデをすっぽりと吸収してしまいそうなほどに大きな穴に変化する。
風を操る志保にも驚いたが目の前のエルデがその比じゃないことは理解できた。
黒い大穴から、五本の指に鋭い爪の毛むくじゃらの巨大な右腕がにゅっと出てくると大地に手を付いた。その手を追いかけるように同じような左腕も大穴から大地に手を付いた。
河原の砂利を踏み鳴らす音と共にその大穴から軽自動車ぐらいの両腕の正体が姿を現す。
「ひっ……!」
その巨体を前に優和は息を呑んだ。――巨大な黒猫だった。
「久しぶりだな、――」
理解のできない言語でエルデは黒猫の名前を呼び、普通の猫のように喉を撫でると嬉しそうに目を細めた。
動画サイトで猫の愛くるしい映像に癒されることの多い澪奈でも、さすがにこの黒猫だけは近寄るような気持ちにはなれなかった。
自分の喉を摩り、もう一度黒猫の名前を口にしてもうまく言語にできないいことに気付いたエルデはしばらく悩むように自分のこめかみを突く。
「名前を教えられないのは困るな、……そうだ、可愛らしさと私の要素を混ぜてエルデにゃんにゃん……いや、エルニャンと呼ぶことにしよう。別に名前があるのだが、今回は特例措置ということにしよう。許せ、エルニャン」
ようやく目線を動かせるだけの余裕が出てきた優和は、まじまじとエルニャンと新たに名付けられた巨大黒猫を見つめた。
「エルデ先生……この猫ちゃん……エルニャンをどうなさるつもりなのですか……?」
嫌な予感を感じつつ優和は思い切って問いかけた。
さも当然だという様子で、エルデは即答した。
「今からエルニャンと追いかけっこをしてもらう」
色々な予感を優和は感じる。そのほとんどがネガティブなものだったが、今回は今までの予感で最悪のものだった。
その一言により、優和は死の予感を感じていた。