第10話 流した涙を拭うという彼女にとって普通の行為
突然と――学校から少し離れた空地に、エルデ、優和、澪奈の姿が空中に投げ出された。
エルデは華麗に平地に着地するが説明もなく宙空に放り出されたような状態になった二人は尻や背中から地面に落下する。
「あいたー!?」
「にゃふぅ――!?」
辛うじて反応だけはできた澪奈は尻餅を付くだけで済んだが、優和は腰と背中を地面にぶつけてそのまま後ろに一回転をして壁に衝突することで動きを止めた。
「あいたた……て、優和!? 大丈夫!?」
「い、痛すぎるよ……」
優和の惨状に自分の痛みなんて吹き飛んだ澪奈は慌てて助け起こす。
半泣きになっている優和の目元の涙を拭いながら背中を摩る姿はまるで母親のようだとエルデは勝手に考えていた。
「二人は、随分と仲がいいんだな」
「そうよ、二人は仲良しなのよ。どこのどなたか存じ上げませんが、夏場の満員電車のような濃密な時間を二人で過ごしてきたのよ」
「その例えだと一ミリも羨ましくないが、それは濃密だな……」
「うぅ……お尻が三つにも四つにも分かれて、優和の体が痛い所から分身してしまいそうだよぉ……」
何を言っているんだと情けない声を発する優和を呆れた気持ちで眺めていたエルデだったが、すぐ側の澪奈は何か妄想しているようで、口元からキラリと光る涎と共に気味の悪い笑みを浮かべていた。
「うふ、うふふふ……優和が分身……なにそれサイコー過ぎじゃない……?」
「澪案ちゃーん? おーい、澪奈ちゃーん?」
「おい、そこでグフグフ笑ってるキミ。親友が名前を呼んでいるぞ? いいのか?」
「うぐふっふっふっふ……一人目優和は神棚に……二人目の優和は食卓に……三人目の優和は寝室ぐふふ」
「ダメだ、聞こえちゃいない。直前まで命の危機が迫っていたというのに、神経の図太いというか逞しいというか……」
「よく分かんないんですが、昔から澪奈ちゃんは時々こんな風に物思いに耽ることが多いんですよ」
「昔から、か。それは、大変そうだな」
土埃を簡単に払い落としたエルデは優和を立ち上がらせると、熱心に”物思い”とやらをしている澪奈を右肩に担いだ。
「おぉ……力持ちですね……」
「体内に色々な異能力が宿っているからな。上手く作用させれば、試したことはないが車ぐらいは持ち上げられるかもしれん。……やめろ、キラキラした眼差しを向けるな。絶対にやらんぞ」
図星を言い当てられて苦笑する優和にエルデは僅かな異世界転移者の素質を感じていた。
類は友を呼ぶようで、澪奈もなかなかだが優和も死にかけるような出来事に遭遇したというのに、今は何事もなかったかのように平気な顔をしている。アクシデントへの耐性が高い証拠であり、それは前人未到の地へ赴く異世界転移者達には必須スキルでもあった。
「ここは学校からさほど離れてはいない、志保が追って来る可能性がある。とにかくこのまま帰宅しよう」
はーい、と遠足帰りに先生の言うことに返事をする小学生の優和を目にしながらエルデは思考する。
あまりに早すぎる試験になるが、優和には精神的な勉強よりも先に肉体的な勉強をさせる必要が出てきた。
志保が本気で優和を狙っている以上は時間を掛ければ彼女の家族にまで危害が及ぶ可能性がある。もしも志保が優和の家族や友人を標的にするなら、エルデも黙ったままという訳にはいかなくなる。
忘れた訳ではなかったが、過去の出来事は自分なりに最良を選択したつもりだった。それでも、今日の志保の顔を思い出せば自分の醜い部分を指摘されたような不安な気持ちになる。
「エルデさん?」
足を止めて優和のあどけない顔に気を引き締めなければいけない気持ちになってくる。
彼女の異世界転移のゴールはハッピーエンドにならないといけないのだ。
「覚悟しておけよ……これから、忙しくなるぞ」
※
優和の自宅に帰宅し巻き込まれた志保を担いだまま部屋に上がる。
「はっ――! ここは、優和の部屋! 優和の香り! うぅーん、芳醇! ……て、きゃあぁ! 何で私担がれているの!?」
「どういうメカニズムをしたら、そんな風に起きられるんだ」
部屋のベッドに澪奈を下ろそうとするエルデだが、何故か嫌な予感がして床に下ろした。
既に自宅に居た父と妹にお茶を用意してもらった優和はお茶とカップをお盆に乗せて後から部屋に入ってくる。
「お、お待たせ~」
「おお! 優和が珍しくおぼんをひっくり返すことなくやってきた!」
「へ、へへ……部屋の前まで持ってきてもらいました……」
「それでも、大きな進歩よ! さすが優和!」
「さすがなのか?」
やけにハイテンションな澪奈が気になりつつも三人は小さなテーブルを囲んで座る。自然に澪奈と優和の視線はエルデに注がれる。
「自己紹介がまだったな、私の名前はエルデ・カーヴァネス。彼女の家庭教師をやっている」
「……私は井伊薪澪奈、優和の幼馴染でありクラスメイトよ。それより、家庭教師てなに? ……あんなもの見せといて、何の冗談。近頃の家庭教師はあんな超能力バトルを教えるものなの?」
「いやー……それもただの冗談じゃないと言いますか……」
「私はこのエルデさんに訊ねているのよ、優和は黙っていて」
もじもじとする優和を訝しむ澪奈にエルデは説明をする。
優和が異世界転移に選ばれたこと、エルデは彼女のサポートをする為にやってきたことを伝えた。
最初は驚いた様子の澪奈だったが、優和の前向きな心持ちも混ぜて聞いたことで最後には不満そうだがとりあえず話は理解してくれた。
「……一種の天災のようなものだと考えてくれればいい。私と優和はこれから起こる災害への備えをしているんだ。地震なら食料や役立つ道具を用意し、水害なら川に土嚢を積んだり高い場所に避難をする。起こると決まっている災害に不安で過ごすよりも、準備をして乗り切る為に私はここに居るんだ」
しかし、理解と納得は別のようで――。
「――おかしいわよ」
「おかしいとは?」
最期まで話を聞き終えた澪奈がぽつりと漏らした。それは応援してくれると思っていたらしい優和には不思議な言葉で、優和の事を強く想っている澪奈を知ったエルデからしたら当然の反応のように思えた。
顔を上げた澪奈の両目は案の定、怒りに燃えていた。
「こんなの理不尽じゃない! 最初は優和だって嫌がっていたんでしょ! だって……死ぬかもしれないような危険な場所にこの子一人を行かせるなんて……! それに、今日のアレは何!? あの転校生、明らかに優和を殺そうとしていたじゃない!」
遠慮して質問をしようとしてこなかった優和と違い、澪奈は疑問を叩き付けるようにしてエルデに問い詰めた。
急な異世界転移に巻き込まれた身内の事を考えて憤ることは多い。それ故に、心優しい周囲の人達を納得させる言葉は幾つか持っていたつもりだが、今回の件に関してはイレギュラーな要素が影響を与えている。
ただ学習して異世界転移の日を迎えるとは訳が違い、優和はこの世界で命を狙われているのだ。ここまで巻き込んでしまったら無視する訳にもいかず、上手く説明しないと頑固そうな澪奈は納得しそうにもない。
強引に論破しようとも考えたエルデだったが、澪奈は優和からしてみたら心の拠所のようなものだ。それを壊すのは、仮にも教職者として恥ずべき行為だった。
思案の末、エルデは重たい口を開いた。
「……キミの考えている通り、彼女は優和の命を狙っている。この話はもう少し力のことを学習してから話すつもりだったが、今のこの現状が過去の私の罪と君を巻き込んだ責任である以上、予定を繰り上げる必要が出て来る。……が、今はまだ全てを教えることはできない」
最後の一言に耳を疑う澪奈はむっとした顔で言った。
「それ、どういうことよ。そこまで認めておいて、全てを話さないなんておかしいじゃない」
「お、落ち着いて、澪奈ちゃん……」
おろおろする優和とじっとこちらを見つめる澪奈にエルデは交互に視線を送ると神妙な声で澪奈に向かって告げた。
「君にあれこれ言葉を用意しても意味はないだろう。これだけ言わせてくれ――優和の為に今は話すべきじゃない」
急にハンマーで殴られたような表情で澪奈は目を大きくさせた。ただエルデをしばらく凝視すると澪奈は肩の力を抜いた。
「嘘は……ついてなさそうね……。優和の為になるていうなら話は別よ。ただし、私は優和の異世界行きは認めた訳じゃないから」
「それで構わない、だが、私がここに居るのは優和の為だということは揺るぎない真実だ」
不服そうにフンと鼻を鳴らした澪奈は優和の部屋に隅に体育座りで腰かけた。
「話しなさいよ……。ここで私がぎゃーぎゃー言っても話は進まないんでしょう」
「大人な対応で助かる。友人の為に本気で怒って泣いて笑って……優和、君は良い友達を持ったな」
照れてしまったのか両手を頬に当てて「えへへー」とにやける優和と「は、恥ずかしいこと言ってんじゃないわよっ!」と過剰に反応する二人の頬はどちらも赤い。
「本題に入ろう。事実だけを言うなら、恐らく彼女……志保はこれからも優和の命を狙うだろう。優和の命だけなら、どうにか対処できるかもしれないが、あの雰囲気から察するに周囲の人間にも危害を加える可能性だってゼロじゃない」
「え……それって……お父さんや智悠にも……」
「……否定はしない」
その時、優和は初めて表情に苦渋を滲ませた。
「どうすればいいの……?」
エルデは首を横に振った。
「どうもしなくていい、おそらくこれは私の撒いた種だ。私もまだ情報が少なく事情は説明できないが、これは私の方で処理しよう」
事務的なエルデの言葉に澪奈は肩の力を抜いた。
「なんだ……じゃあ、あのヤバい子はどうにかしてくれるのね! この問題は安心しても良さそう……優和?」
明らかに温度差のある優和の表情に澪奈は眉をひそめた。そして、両手を強く握りながら優和は絞り出すように言った。
「でも……あの子は泣いていたよ?」
「ちょっと待って……まさか、優和の命を狙う奴に同情しているの?」
「同情なんかじゃなくて……えーと……このままエルデさんにお願いしてしまったら、志保ちゃんはずっと泣き続ける気がするの……」
「馬鹿なことを言っちゃだめ! 自分が辛いから誰かを傷付ける人間の事なんて気にする必要ないのよ! 優和は自分がどれだけ辛くても他の誰かを傷付ける子じゃないけど、あの志保て子は平気でそういうことができちゃう子なのよ!」
自殺行為とも受け取れる優和の一言に当然のように澪奈は強く反対する。
端から聞いていたエルデからしても澪奈の発言は普通の反応のように思えた。しかし――。
自分や周囲を傷付ける相手に同情するだけなく救いたいと願う心。それは、常人から見ればある意味異常な行動かもしれない。だが、エルデはそれを異常だとは絶対に思わない思うはずがない。
エルデはよく知っている、こういう性質の者達だからこそ――異世界転移に選ばれるのだと。
「エ、エルデさんも何とか言ってくださいっ。この子、こういう時て頑固なんですよ!」
猛反論をする澪奈を前に水の足りなくなった花のようになっている優和だが、決してこの花はしおれていても枯れてはいない。気弱でもか細い力でも、優和はきっと己の意思を貫くことだろう。
「ごめん、澪奈ちゃん……。それでも、私は志保ちゃんを助けたい! 原因は私にあるとかエルデさんがどうとか……そういうことでもなくて……私が志保ちゃんを止めるのが一番いいと思うんだ……ううん、私が志保ちゃんを助けたと願っているの!」
「もう、何でそうやって聞き訳が――」
「――優和!」
強くはっきりと優和の名前をエルデが呼ぶことで、ヒートアップする澪奈を制止させた。
ここで澪奈は期待したはずだ、エルデは優和の暴走を止めてくれるのだろうと。エルデは親友の事を心の底から心配する澪奈に声には出さず謝罪しつつ、真っすぐに優和に眼差しを向ける。
「本気で志保を止めたいのか」
本当に学校の先生に怒られる前のように肩を落としている優和にエルデはそっと問いかけた。
ちらりと顔を上げてエルデに向けられた視線に曇りは無く、恥ずかしそうに目線を逸らして言った。
「私にその力があるのなら……止めたいです」
「そうか、良い教師というのは生徒の自主性を尊重するものらしいからな。もうこれ以上は訊ねることはしない。……優和の最初の異世界転移者としての仕事であり転移者専門家庭教師カーヴァネスからの正式な特別授業だ。――志保を止めろ」
「ええぇぇぇぇ――!!!」と絶叫する澪奈をどう諭すか考えるエルデの目の前で優和は自信なさそうにしながらも――。
「――はい」
と強い覚悟の宿る瞳で頷いた。