九 招待客
九 招待客
スラム路を真上から俯瞰したならばまるで葉脈のようで、大路の随所には左右放埓にいかほど続くかもしれぬ小路がはしっており、所によっては猫が行き来するだけしか用途のみいだせぬほど暗狭く段差の激しい道も見受けられました。スラム路に当たる道は例外なく黒焦げたように暗く汚れていましたが、細い脇道は殊更強烈で、どこから流れ出ているのかもわからない汚水が堆い垢に沿って一面を浸していたりすれば、掃除はとても手を煩わされるのでした。ときには猫やネズミと格闘しながら掃除しましたし、投棄されて腐りっぱなしの生ゴミを片付けるだけで一日が終わってしまうこともありました。
くる日もくる日も通りの先へ先へと掃除を重ねていき、二週間ほど経ってようやくラスはその端に辿り着きました。スラムの出口は町の大通りからは少し離れており、公園というにはあまりに小規模な広場が広がっていました。中心には一本の針葉樹が植え付けられており、露店が二つ三つ広がっているだけで人通りはまばらです。
とうとう辿り着いた一端に、ラスは喜びのあまり飛びあがりました。地域柄、夏場はうだる太陽の照りつけが厳しい半面、冬場には零度を下回る日ばかりで何週間と雪が続くのですから、本格的な冬入り前にスラム路の掃除を終わらせたいと考えていたのでとりあえずの折り返しにホッと一息ついて浮かれたのです。その日の掃除はひと段落させてスラム通りから走り出ると、昼下がりの明るい太陽を拝み、広場全体は秘密基地のように輝いて見えました。自分だけの空間といった様子で、身体を揺らしながら大股で周辺をぐるりと回り、針葉樹のもとでくるりと体を翻して喜びを表現しました。
「ああ、なんて素敵な場所なのかな、すごく気持ちがいいんだから! 終わりがないんじゃないかと思っていたけれど……とうとう私は一つ、たった一つだけど仕事を終えられたの!」
そのままベンチに腰掛けると、足をぶらぶらと大袈裟に交互させ、鼻歌を歌いながら陽気に空を見あげていました。左右が建物に挟まれたスラム路は閉鎖された空間であって、真昼に太陽が覗ける他はほとんど光が差し込むこともない場所でした。久方ぶりの日光浴は程よく肌とまぶたが刺激され、広く清々しい空と再び巡り合えた喜びをしかとかみしめました。いつか空がとりとめもなく恐ろしくおっかないものに見えましたが、今は彼女をあらん限りに祝福してくれているようでした。
「そこの子、……村にいた子じゃないかい? 教会にいただろう?」
よもや自分などに話しかける人はいないだろうとラスは鼻歌を止める気はなかったですが、その声が村の教会と付け足したのですからもしやと顔を隣に向けました。青い帽子を浅くかぶりながらくすんだ皮のジャケットを羽織り、無精ひげを蓄えた男が立っていました。
この人が誰であるのか、問う必要などありません。すぐにも記憶から呼び起こされました。
「まあ、まあ! 写真屋さんですよね、私にお写真をくださいました……! こんなところで出会えるだなんて、なんという偶然でしょうか!」
想起されたサディの美しい瞳に、一抹の胸の痛みを感じもしましたが、このときのラスには喜びの興奮のほうが大きなものでした。
「やっぱりそうか、メルシィだとか、なんとかいう子だよね」
「ラス=メイシィですの」
「そうだメイシィだったか、僕は……ちゃんと名乗っていないかもね。改めて、クリス=テレイスというんだ、よろしく、ラス」
二人は手を取り合って、邂逅の喜びを共有しました。見知った顔に出会えるとは露ほどにも思っていなかったラスが灰色の目を輝かせながら跳びあがって喜んでみせれば、髪の毛はまた幾つもピンピンと跳ね起きてくるのでした。
写真屋はちょうどこの界隈を縄張りとして活動をしており、今日もこれからとある貴婦人の写真を撮りに向かうところだそうです。メイン通りは非常に人波が多いのに比べ、この広場は雑踏がなく一本樹に教会の鐘楼が見えていたりと、記念撮影の場所としてはたいへん優れていると言いました。
それからクリスは村の様子を尋ね、ラスはわかる範囲で返答し、改めて懐かしさにふけりました。とりわけサディのことを思い出した時には涙があふれんばかりにせめぎ立ててきたのですが、どうにかこうにか押しとどめ、あたかもいまだに村に住んでいますと言わんばかりの受け答えをしました。なんとなく教会を出たことを言い難くやり取りしていたのですがいつまでも隠しおおせるわけもなく、今日はどうして町にいるのかと聞かれただけで洗いざらいとまでいかずとも、教会を出て町に来たという要点だけは述べなくてはなりませんでした。クリスもラスの恰好から散々な裏事情を察して無暗に詮索はしませんでしたが、では今はどこに住んでいるのかと不意に質問したならばラスはスラムへと続く道を指差したのだから仰天です。
「でもシャムおばさまをはじめ、皆さますごくいい人たちばかりで私恵まれていると実感していますの。そうです、良ければこれから私たちのテントに来ませんか? 私こうして自分の家に、家といってもつましいテントですし居候の身で恐縮ですが、それでも我が家に人を呼べることを幾度夢みたかわかりません! 我が家、そう、我が家なんですの! 大層なおもてなしなんてとても及びませんが、シャムおばさまの寛大さはきっとどんな恭しいおもてなしにだって引けを取らないに違いないんですから」
手をとって今にもスラムへと走り出そうとされるものですから、クリスは慌てて御します。
「すまない、せっかくラスと会えて嬉しいし、こうして御呼ばれあずかれることは光栄には違いないけれど、残念ながら今日はこれから撮影の予約が入っていてね……申し訳ない」
「まあ。でも仕方のないことですね、だってクリスさんはお写真が職業ですから。それでは明日はいかがでしょう、差し支えありませんでしたら朝から……ああいけませんの、朝はおばさまがお休みになられていますので、どうでしょうかお昼過ぎにこちらで待ち合わせは?」
自分の家と呼べる場所を手に入れて人を呼べる喜びはラスを完全に盲目にしており、いつもの察しの良さは微塵と姿をみせませんでした。それも仕方のないことで、孤児のラスにとっては王宮に住むとだかお金持ちになるよりもなによりも、幼い頃からずっと夢にみてきたことは我が家にお客を招いてもてなすという、まさにこの行為だったのです! 頭の中は長年の夢の成就にクリスという素晴らしい客人を招ける未来でいっぱいになっており、ましてやこのように目を輝かせながら天真爛漫に誘われたのでしたら人の良いクリスはとても断れるものではありません。結局承諾し、次の日に約束を取り付けて別れることとなりました。
ラスは嬉しさのあまり帰路においてもスラムの路面を枯木で作った箒(スラム住民の一人が編んでラスへプレゼントしたものです)で掃きながら、とりわけ自分たちのテント周りは入念に掃いて拭き掃除までしました。できうる限り驚かせてみせたいと思い、クリスのことについては出会ったことも含め何一つシャルテムに話しませんでした。一方のシャルテムもラスが何か腹に一物を抱いていそうだと感づきながらも、ラスのことだからどうせくだらないことだろうと決めつけてはとりたてて詮索もしませんでした。よもやこんな場所に一般の人を呼び込もうと考えるなど、想像だにしなかったに違いありません!
翌朝、シャルテムが入れ違いに眠ってからラスは躍起に掃除に励みました。所々に残っている妥協した汚れ、とりわけ地面と家壁のつなぎ目にはもう何年分と堆積したでしょう汚濁の層が根を張ったようにこびりついていましたので、それら黒ずみを必死に削り落とし、二度と陽の目をみることがないと思われた地面を掘りあてました。そのまま地面を広げていき、数時間の末ようようテントの周囲の地面をさっぱり拝むこと叶いました。昼に起きあがったシャルテムは驚きながらあきれ果てた様子で、「本当こりないねアンタは……地面の汚れをいくらとってもパンの黴が剥げるわけでなし」と呆然とも観念ともつかぬ溜息を交えながら毒づきました。
「それは違いますのおばさま、パンの黴は剥げなくたって、ずっとか気分の良い食事に変貌しますことですのよ。どうですか今日のパンは、いつもよりもずっとさっぱりとおいしく甘いことはありませんか?」
「いつもの味気ないパンだね」
「まあ、きっとまだ掃除が足りないのですね」
いつもいつもシャルテムがこねくった返答ばかり繰り返すもので、ラスも最近では少しひねくれた返答というものを覚えてしまいました。しかしながらそれも他人を不機嫌にするのではなく、どんな出来事でもひねくってポジティブに変換してしまうのですから、基本的に悪い方へととらえてばかりのシャルテムにとっては非常に相性が良い返答ばかりでした。
「でもこうやってきれいになりましたらどうです。誰かを呼びたくなってきませんか?」
「一体どれだけ飛躍したならそんな結論に辿り着くのか知りたいもんだよ。こんなところに来たいという奇矯な人間がいるならそうだね、ぜひとも呼びつけてこの目で拝んでみたいもんだよ」
あわれにもシャルテムは、こうしたひねくれた言い回しがラスとの生活を招いてしまった、その反省を活かしきれていなかったのです。この返答はラスにはたいへん気に召したもので、写真屋さんを呼んだならさぞかしびっくりして喜ぶだろうと思わせてしまったのです。
約束の時間に広場に行ったなら、渋々でもしっかりとクリスは待っていました。
「おばさまったら、本当に人を呼ぶのが好きな方ですの。今日だってぜひ誰かを呼びたいだなんて言っているものですから、クリスさんがいらっしゃらなかったらきっとがっかりしましたわ」
そうして二人で手をつなぐと、クリスは内心びくびくとしながらスラムへと足を踏み入れました。
驚いたことに、スラムでは人々が思いのほか生き生きとしていました。人々は自分の愚かさを大きな口を開けて笑い(従来の下卑たものとは似ても似つきません)、愛を忘れたり捨てた者たちが愛の唄を声高らかに歌いあげ、自分の明日を知らぬ者たちが食事を分け合っているのです! ラスの掃除した道は鼠が這っていることもなく、空気も自然浄化されたのか、想像以上に澄みやかでした。鼻をつく嫌な臭いだけはなかなか取れたものではありませんが、それでもクリスが何度かその目で見てきたスラムと同じものであるとはどうしても信じられませんでした。
曲がりなりにも人の家にお邪魔するとあって身だしなみを整えたクリスは場違いな客人と映ったことでしょう、スラムの人たちは興味本位もあり、そして何よりも今やスラムの小さなアイドルとなったラスに向かって声をかけてきます。
「ラス、腹が減ってどうにかしちまいそうだ。腹の減らなくなる唄を教えてくれよ」
「唄だったら何でも歌っている間は空腹を忘れてしまうことじゃないですか。ずっと空腹にならない唄は……あるなら私が教えて欲しいくらいなんですの」
「今日は掃除はおやすみかい、ラス。また必要だったらボロ切れくらいやるんだから、声かけてくれな」
「ありがとうございます、お陰で掃除もすこぶる調子がいいんですの。必要なときにはまた声かけさせていただきますね」
紋切り型の挨拶だけではなく、必ず誰もが一言二言付け加えていました。そしてラスに返答されるたびに、皆が大きな声をあげて笑って過ぎ去るのでした。所々ではどこかの民謡と思しき唄や葦を使ったケーナのような楽器を吹く者もおり、さながら町の雑踏よりもよっぽど逞しく楽しそうに映りました。
飲みさしの温い麦酒をちびちびと口に運んでいる二人の男たちは陽気に歌っており、ラスが来たなら両手を振ってあいさつしました。
「ようラス、なんだお金持ちの紳士を携えてるじゃないかい! なああんた、良かったら今晩一緒に一杯交わさねぇか? もちろんあんたのおごりでな」
「おいおい、まったくお前さんは誰にでも声をかけるな。そんな気前のいいやつがいるわきゃないだろう」
「どこかに一人くらいいるかもしれねぇだろ、俺はその可能性を信じるね」
「だったら俺らがこうして路頭に迷うこともなかろう」
「はは、ちげぇねえ」
一体この元気はどこからくるのでしょうか。明日も知れぬ人たちがどうしてこうやって陽気に歌い、楽器を演奏できるのでしょうか。そしてこの道は何と人情の温かいことでしょうか、町通りのなんとうら寒いことでしょうか!
人を信じることも出来ず、何にでも噛みつきたそうな目つきばかりだったスラム路は、こうまで変わってしまったのです。全員が全員というわけにもいきませんでしたが、陽気に振舞いきれない人も明日も知れぬ人たちが手を取り合っているのですからとても反発する気力ももてず、ただ我関せずと傍観するだけにとどまりました。世間に対してどれだけ敵愾心をむき出してきたつわもの達も、同じ境遇の者たちの温かみに浸されては形なしとなって反抗心の牙をへし折られてしまうのでした。
クリスはあまりに快闊な変貌を遂げた路を戸惑いながら歩き続けて、いよいよ黄色いテントの前に来た時、ラスは立ち止りました。
「クリスさん、こちらが私たちのテントになりますの。おばさま、シャムおばさま!」
「ああなんだい、怒鳴らなくても聞こえま……」
テントからのっそりと体を起こして顔を出したシャルテムは、目の前に立つ紳士に圧倒され、表情を固めて黙り込んでしまいました。得意げな表情で紳士と手をつないでいるラスがおり、彼女の差し金であろうことは容易に想像がつきましたが、どういう経緯があればこのような事態になるのかがまったく考えられなかったのです。
「おばさま、奇矯な紳士様をお連れしましたので、どうぞたんと拝み見てください。私の大切なお友達ですのよ。クリスさん、どうぞ中にお入りください」
シャルテムが何か口をはさむ暇もなく、ラスはクリスをテントの中に誘導しました。さして大きくもないテントは、男のクリスが腰を丸めて中に入ったなら、三人全員が膝をたてて座るのが精いっぱいでこれ以上は一人たりとも入る隙間もないほどでした。
ラスはそれぞれを紹介し、続いてクリスとの出会いをシャルテムに説明しました。ラスは居候の身分ですから差し出がましく家主の過去を詮索しませんでしたし、シャルテムはスラムの掟として立ち入らなかったため、互いに各々の過去については無干渉であり、シャルテムはここで初めてラスが村の人間だと知ったのでした。ラスはサディと共に撮影したお守り代わりの写真を取り出すと、これが貰った写真だと、クリスの腕前を自慢げに語りました。
「おやまあこれは良い写真だね、クリスさん。あなたこんなところで写真屋を営むよりも、旅に出てそこここを行脚した方が良いんじゃないかい?」
「褒めていただけありがとうございます、シャムさん。しかしながら何度か外の世界を巡回して、一人旅の辛さを実感しました。汽車で移動して数日滞在する程度が一番だとわかったのですよ。町によっては写真とてんで縁のない場所もしかり、他の写真屋が居座っていて用なしの地域もしかり、生まれた町で腰を落ち着けておくのもなかなか悪くないものだなと実感しまして」
「それでこんなところに来ていたんじゃ世話がないね」
棘のある言い方で笑い飛ばすシャルテムに対して、クリスは照れ笑いして顔を伏せました。
「もう、シャムおばさまったら。クリスさん、おばさまったらすっごく恥ずかしがり屋なの、照れ隠しを悪く思わないでください」
「誰が照れ屋なもんですか」
「おばさまを置いて他に知りません。まあ、おばさまのご紹介の手間が省けまして何よりですの。今以上に上手におばさまの優しさを私には説明できませんから」
せっかくの友人になんて真似をしてくれるのだとプイと顔を背けるラスに、まったく参ったとばかりに溜息をつくシャルテムを見て、クリスは笑いを強めました。シャルテムが得意の強い目で咎めましたが、すでにそこに貫録たるはありませんでしたからクリスは至って冷静に返答しました。
「お気を悪くしないでください、シャムさん。ただ、二人は本当の家族のようだな、と感じて……嘲笑ではなく、微笑ましいものだと思って出た笑いなのです」
「どうだか知れないね、いずれにしても私なんかと家族になるくらいだったら、よっぽどどこかで働いて自立して欲しいものさ」
しばらくはラスが間を取りもちながら話しをし、いつしかシャルテムとクリスも違和感なく話し合えるようになっていました。何せラスの言動であきれるようなときは決まって一緒なのですから、肩をすくめて互いに目配せし合い、くすりと笑い合ってみせればすぐにも心が通じようものでしょう。
小さなテントを震わすように笑い声が響くようになった折、シャルテムはラスに命じて飲み物を買いに行かせました。立派な飲み物にはとても手が届かず、町の出店で売っている即席のものが関の山でしたが、このようにもてなせることがどれだけラスには嬉しかったことでしょうか。頬を紅潮させながら飛び出した彼女を見送って、シャルテムはゆっくりと声を出しました。
「今日はありがとうございます、きっとあの子が無理やり連れて来たのでしょう」
「何をおっしゃいますかシャムさん、ラスから誘われたなら私は喜んで来ましたよ。それは、本音を申せばはじめは全部が全部乗り気だったわけではありませんが、それでもあの子に積極的に頼まれでもしたなら……ラスをお置きになっているならばこの意味はよくわかっていただけますでしょう?」
「それはもう」
実際、シャルテムは昔はもっと癇癪もちでしたし、人を小馬鹿にすることしかできないひねた人間でした。いましがたの返答のように、いくらラス本人がいないからといって、彼女を褒めるとまごうべき言動はとても口にしなかったでしょう。今では遠くまで掃除に行くラスが気になって様子を見に行くことだってひっきりなしですし、そのラスにしてみても初めは口を利かないくらい目の敵だったはずが最近ではシャルテムから口をききだすようになり、また子供らしく反抗じみた反応をする彼女を見るたびにただ優しいだけでない、まるで本当の親子のような煩わしい身近さを感じたりもしたものです。何よりも夜の生業が自然と遠のきだしたことは意外でした。子供がいる手前後ろめたく感じたのでしょう、意外でありながらもラスのことを思えばこそしかるべき変化だと納得してしまっているのです。
しかしいつまでもこうして暮らすわけにはいきませんし、ラスに手を添えるのは、とてもシャルテムではいけないのです。それは彼女自身が良く知っていました。仕事、性格、身分、それら一切合財ひっくるめて考えたときに、ラスを堕落させることはできてもとても手を差し伸べるに値する立場に立っていないと悟っていたのです。
「クリスさん、どうぞ、あの子を助けてあげられませんか? このスラムではあの子の存在はあまりに明るすぎます。何があったのかは知りませんが、あの子は町を恐れているのです。矯正させられるといいのですが、なにせ私などではとてもあの子の助けになんてなれはしないのですから」