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スラムの妖精  作者: 等野過去
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八 スラム路

   八 スラム路


 周囲からは今までとは質の違う笑いが漏れ、やいのやいのと(はや)し立てが聞こえ、また口笛を吹いて(あざけ)る者もいました。ラスはもて囃されているような感覚で照れていましたが、当然これらは祝福などとはほど遠い、声をかけたばかりに返り討ちにあった聖女とやらを小馬鹿にしたものであったのです。しかし女もだてにスラム街で無頼に生きてきたわけではありませんから、ここですごすごと引き下がることなどできず、ラスの手をひいて無理矢理自分のテントの中に連れ込んだのでした。

 二ヤード(約一・八メートル)四方にも及ばぬ小さなテントの中は色落ちした小麦色の毛布が二枚あるだけで、他は何一つなく、またその毛布もパンのかすや黒ずみ、所々にほつれや穴があいている粗末なものでした。人二人が寝ようものなら身を寄せ合って辛うじてとなるでしょう狭い空間でしたが、突き刺すような夜風や朝方のべたついた霧状の湿気から体を守れるだけでもラスにとっては願ったり叶ったりです。汚さだって道端に寝ることを考えれば五十歩百歩であり、とりわけ毛布は洗えばきれいになる点において地べたよりいくらもましです。寝床を提供してくれたお礼も兼ねて、明日になればきれいに洗ってしまおうと考えました。

「どうだい、こんな質素な場所だよ。怖気づいたかい?」

「怖気づくだなんて、毛布がありますのに、毛布がありますのに!」

 ラスはたいへん粗雑な格好をしていますから、何らかの事情があることは女も察しがつこうものですが、まさかスラム街を闊歩し、汚い毛布で寝られることをどこかの宮殿に招かれでもしたかの如く顔中真っ赤にして感激興奮されるとはあまりに予想外でした。この少女の身に何があったのか、気になれどもスラムにはスラムの掟があります、誰に定められたでもありませんが、ここに集う人たちへ理由を尋ねる野暮(やぼ)な真似はしませんでした。

「私は嬉しいです、こんな私が受け入れられたことが、嬉しくて仕方ないのです。おばさま、どうぞお名前をお教えください」

「私かい? シャルテムだよ、シャムって呼ばれてる」

「まあシャムおばさまだなんて、とても可愛らしく美しいお名前ですね。羨ましいです、私はラスといいますの」

「そうかい」

 つっけんどんに返しながら、シャルテムはその鋭い目線でテントの入り口を睨みつけました。さて周りのテントの住民たちが耳をそばだてているだろうことが容易に想像できてシャルテムは少し機嫌が悪かったのです。テントの隅にある袋から(かび)だらけのパンを取り出し、半分に割るとラスの前に出しました。

「さあ、それが晩飯だよ」

 さて、ここでとうとうラスは止まってしまいました。苦渋に色めきまではしませんでしたが、それでもただ無心でパンを眺めるだけで、表情も言葉も忘れてしまったようでした。その反応がしてやられてばかりのシャルテムには何よりも快感だったのです。

「ほら、どうしたんだい。いらないのかい?」

「だって、その……このパンはもう黴ています、食べてはなりませんよシャムおばさま。ほら、先日ありました食中毒が再来しますことで」

「なんてことを言うんだい、あんたは」

 シャルテムはこれみよがしに両手を振ってやれやれと体現すると、指を一本そりあげました。

「いいかい、東洋にはね、『勿体ない』という文化があるんだよ。腐っているといっても食べられるんだよ、それを捨てるだなんて甚だお金の無駄遣いじゃないかい? そんな贅沢を誰が許してくれるというのかい? 私がつづまやかな暮らしをしていることは言わずもがなわかるだろう。だったらあんたも食べるんだ、初めはお腹を痛くするかもしれないし、熱を出してうなされるかもしれないが肝要(かんよう)なのは慣れだよ。一ヶ月もした暁には、生で蜘蛛(くも)を食べてもケロリとしていられる腹のもち主になれるってものさ」

 ラスは脅されながらもパンを食べ、そのままの勢いで眠りにつくことにしました。ラスを床に就けるとシャルテムはテントの裏から看板を取り出して、隣の空きテントの前に掲げて座り込みました。夜はスラムのまた新しい一面が始まる時間です、ろうそくを(とも)し、静かに静かに客を待ちました。

 次の日、ラスは朝早くから起こされました。疲れはもちろん睡眠不足も相まって眠気に後ろ髪をひかれはしましたが、早起きはいつものことです。不平一つ言わずに起きあがると、入れ違いでシャルテムは眠りに就こうとしました。

「シャムおばさま、どうして別々に寝るんですか? 最近は寒いですし、その、よければ私はおばさまと一緒に寝たいですのに」

「私には私の生活があるのさ」

「だったら私も寝る時間を変えます、黴のついたパンだって食べられるようにしますし、頑張っておばさまに合わせますわ」

 そんな気はなくともここで黴パンを食べさせたことを掲げるものだから、シャルテムは一本取られたと口元を軽く震わせました。ラスには悪気など微塵(みじん)となく、本気でそう言っているのがわかるからこそ悔しさもひとしおというものです。

 しかしながら一緒に夜を起きているというのがどういうことか、シャルテムが夜には女郎(じよろう)となって男どもを引っ掛けて生活している事実をこんな子供に悟らせるわけにはとてもいかないと、慌てて言葉をつなげました。

「せっかく二人いるってのに、こんな無防備なテントで両方が寝るほど危険なこともないだろう。ほら、夜中の寒い時間はあんたが寝るんだよ、居候(いそうろう)。私は暖かくなっていく朝方からゆっくりさせてもらうから」

「まあ、そういうことでしたらわかりました。シャムおばさまゆっくりお眠りください、責任をもって見張っておきますから。あと、居候でありますことは否定しませんがどうぞ、名前を呼んでもらえるととても嬉しいです」

「そいじゃ、おやすみね」

 シャルテムが寝てから、ラスは手持ち無沙汰(ぶさた)となり、静かに隣のテントの掃除にかかりました。隣のテントは何やら汗をはじめとした人間らしい嫌な臭いが充満していましたが、この期に及んでそれを咎めるつもりもありませんし気にするだけ無駄というものです。入口を開け放ち、反対側の幕もあげてテントの中に風を通すと、次にテントから離れすぎないように周囲を見渡して、屋外に設置された水道をみつけると、鞄からジャムの空き瓶を取り出してきれいに洗い、水をいっぱいに満たしました。水を脇に置くと、テントの外装から中までをも小さな手のひらを道具として一通り拭きとりました。一緒にあった布団は叩いて埃をとると、濡らしながら少しずつ汚れをこすり取っていきました。汚れと一口に言っても何年分が蓄積されたものでしょうか、生半可なものではなく、たったひとつのテントだけでも朝方いっぱいを使ってようよう全体を一通り磨き終えたにとどまりました。

 毛布やテントは元が粗悪な状態でしたから、ほつれや破れまではどうしようもありませんでしたが、幾分ときれいになって心なしかその一帯だけ空気も浄化されたように新鮮に感じらる程度には清潔さを取り戻したのです。

 起きたシャルテムにすぐさま飛びついたラスは、期待に満ちた目で希望に弾んだ声と共に掃除を終えたテントを見せたならば、シャルテムは有無を言わさぬ迫力で怒鳴りあげるのでした。

「まあ、なんてことを! いいかい、勝手にこんな真似するんじゃない! 次したなら追い出してやる!」

 親切にお礼の意味を込めて行っただけにラスは気落ちしてしまい、シャルテムも大人気なかったと反省したのですが、なにせそのテントとは男と女がまぐわるところでもあったのですからとてもラスに入ることを許せた場所ではなかったのです。シャルテムはまるで禁忌(きんき)を犯したかのような背徳感に、スラムでこんな金の稼ぎ方をする自分に似つかわしくない心のつかえが生まれていることを不思議にもどかしく思いました。なぜこんな職業を営む彼女が、子供と共にこんな狭い路地裏で生活しなくてはいけないのでしょう、疑問の答えはどこにも存在しませんでした。

 この一件でラスは反省し、テントは私物であるがゆえに勝手に触られたくなかったのだと結論をだして翌日からなんと、テントの周囲の掃除にとりかかりました。穴だらけで半分くらいしか水が溜まらないバケツをみつけると、朝方は軽く洗濯をして、次に壁や地面をひたすらにこすりだしたのです。これにはシャルテムだけでなく、周囲の人たちもたいへん驚きました。ヘドロさながら汚濁(おだく)の塊が溜まり固まっているこの空間を掃除しようなどという発想がそもそも異状であり、同じところにしゃがんで取り去れぬ汚れを延々と擦り続ける姿は哀れであり、傍から見れば少女は狂ってしまったようにしか映りませんでした。こんなに若くしてスラムに来るような子だから、変質的な行為に出ることに何ら変哲もありはしないと、シャルテムも不憫(ふびん)に思いながら注意することを止めてしまいました。

 しかし仕事もなく、かといってただで食事を貰うことも後ろめたかったラスとしては、苦肉の策でもあったのでした。

 ある日、ラスとシャルテムは夕方ごろ、スラムに物売りが来るということで一緒に買い物に出かけました。物売りといってもスラム専用ともなると他とはまったく異なり、穴の空いた服やカチカチのパンが破格で投げ売りされていました。その他にも壊れた様々な装飾品、何に使うかもわからない投棄物など、普通であればただのゴミとしか思えないものばかりが並んでいるのです。そしてそれらを沢山の人たちがこぞって物色しているのです。お出かけといってもスラムをしばらく歩くだけで、なんらもの珍しさなどありませんが、ラスにとってはシャルテムと一緒というだけで存分に嬉しいものでした。

 スラムをひとしきり歩くことで、改めてこの場の悲惨さを目の当たりにしました。ラスよりも小さいだろう子どもが全裸で座りながらまばたきをも忘れ、どこともつかぬ(くう)を見ていました。自暴自棄に笑い声をあげながら、見る者すべてになりふりかまわず怒鳴り散らす人がいました。仙人のように、(かすみ)を食って生きているといわんばかりに口を宙に向けてぱくぱくとさせている老人がいました。上半身裸で背中に子供を背負い、細い木の棒を削りながら黙々と作業をする中年がいました。テントからは博打(ばくち)の音が響き、不穏な言葉が次々に飛び交っていました。なるほどこの道自体が死んでおり、人々すべてに共通していることは、目に生気がなく、何も見えていないとしか思えないところでした。

 ラスはその目をどこかで見たことがあると思い、記憶を手繰(たぐ)ったならば、あの汽車での出来事が思い出されました。そして彼女はとびっきりの良い考えを思いついたのです。

 翌日から、ラスは掃除をしながら歌いだしました。その頃にはすでにシャルテムのテントの周辺はあらかた掃除が終わっており、隣のテント、またその隣のテント周辺とどんどんと掃除の範囲を広げていたラスであり、周囲の人たちは一体この子はいつになれば途方もない無意味な作業に気付くのだろうと眺めていたものでしたが、今度はこの暗く静かでよどんだ空間でいやに通りのいい美しい歌声を響かせるものですから、離れた場所からもなんだなんだとラスを見に来る人だかりができる始末でした。ラスは汽車で、唄を歌うことで陽気になったあの人たちを思い出し、きっとここの人たちも同じで唄に感化されればすぐにも元気になるだろうと願っていましたが、それを差し引いても歌うことは正解でした。なにせ楽しみのない人たちは唄を聴くこと自体が良い気晴らしにもなり、いつかラスの周囲には取り巻きのように何人もの男たちが耳を傾けるようになりました。シャルテムのテントからどんどんと掃除を進めて離れていったラスでしたが、この危険極まりない(みち)をもってして何者かに襲われたりすることはとうとうありませんでした。歌声が止まろうものならば、たとえそれが彼女の気まぐれであろうとも何人もの住民がテントから顔を覗かせ、または彼女に駆け寄ってくるのです。そしてラスの通った後には唄に心を洗われ、きれいに掃除された路に自然心を前向きにさせられるのでした。

 次第にラスの唄は誰もが口ずさめるほどにまで浸透しました。毎日毎日、何時間も同じ歌を聞いていれば耳にタコもできて脳裏へ無意識に刻まれようものです。そしてラスの声や笑顔に惹かれ、この薄暗いスラム街で癒しを求めて一緒に掃除をする者が現われました。初めは一人でしたが、じきに二人三人と増えていき、毎日十人程度で合唱しながら掃除をするちょっとした見ものとなったのです。もちろん唄を歌うのは周囲の人たちも含まれますから声の数は十人ではききません。

 唄とは実に不思議な魔力を帯びているものでした。スラムにいる人たちには大なり小なり誰にも打ち明けられぬ諸々の事情をもっているのですが、歌っていると不思議にそれら事情が想起させられ、悲しみや辛さをひっくるめた上で今一度生きているということを実感させられました。人生観として死んでいると己に言い聞かせて生きることさえ諦めた人たちが、生きている事実に向き合わされるきっかけとなりえたのです。他人はおろか自分のことですら破れかぶれとなっていたにもかかわらず、先が真暗な者同士が助け合うことを何からでもなく自然にみつけていったのです。

 そして今日もまたラスを筆頭に、何人もの男女が一丸となって合唱しながらスラムを掃除していました。


  アア 愛とはかくうるわしき

  かの者を想わば 心は四季おりおりの 花に彩らるる

  いつかあの人も同じように 心にきれいな花を咲かせるだろう

  阡の春を越えて きみに歌おう 愛を謳おう

  アア 愛とはかくまばゆかしき

  かの者を想わば 心は四季とりどりの 月に照らさるる

  いつかあの人も同じように 心を眩き月がさやかせるだろう

  阡の時を越えて きみと歌おう 愛を謳おう

  アア 愛とは 愛とはかくこうごうしき

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