六 少女一人
六 少女一人
一行を乗せた汽車が町に到着すると、下車するのはラスと大道芸人の二人だけでした。音楽家をはじめ意気投合した仲間たちに名残惜しく別れを告げると、大道芸人と一緒に汽車から降りてホームの下から町へと抜ける裏口をひっそりと移動し、やっと町に出たなら大道芸人とも別れることとなりました。
些かの眠気を感じながら、それでもたった一人で、これからどうなるのかもわからぬ状態で町に来ているという興奮はラスには相当のものであり、興味津々といった様子であてどなく町を歩き始めました。駅の時計を見たなら時間はまだ七時前でした。周囲をはばからずにキョロキョロとあっちこっち目移りし、きれいな身なりの貴婦人やスカートをはいた少年などを物珍しそうに眺め続け、石畳のわずかな段差に何度とけつまずきながら村の人間ということをあけっぴろげに街路を歩き続けました。いつもサディと一緒に来るときは一つのものを注視しているとどやされるため、次々に目線を動かしてたくさんのものを見ようと努めねばなりませんでしたが、今はそんな必要がありませんから、時には立ち止まっていつまでも同じ物を見たりと、往来の人々を眺めているだけでもまったく飽きることもなく楽しくて仕方ありませんでした。
長く起きていることもあってか、何度かお腹がぐぅと鳴りました。これから先のことを考えるなら早い目に働く場所の目途をつけておくべきなのは間違いありません。
ラスはどうしても働きたいと考えていました。特別な理由があるわけでもなかったですが、ロット神父と誰かを孤児院へ送る話をしたときに真っ先に「自分が働いてお金を稼げれば」と、単純にもそう思ったことに起因していました。
そしてすぐにも考えたのが、喫茶店です。スカートを翻しながら盆にきれいな食器を乗せ、お客様の元に運ぶのです。料理だって好きですし、色んな人に出会うのも好き、掃除だってできるし楽しいことばかりが想像できます。レトロな雰囲気の店内で、飾られた瀟洒なシャンデリアに照らされながら制服をはためかせて走り回り……ときにはお客様と談笑する。もとより食事を作るのは得意ですし掃除や家事をこなすのも今まで通りですから、なかんずく苦痛を感じることはありません。裁縫ができる必要はありませんし、適所であると疑いませんでした。
考えたなら心がうきうきと弾みだしました。新しい生活に気分を高揚させながらきょろきょろと周囲を伺えば、すぐにも通り先に喫茶店を発見しました。店内には遠巻きでも窺えるほど沢山の人が腰掛けており、華やかに談笑をしている様は目を惹きました。
店の前には簡素な雨よけのビニールが突き出して張られ、下には植木に囲まれたテーブルが日光浴を楽しめそうに広げられており、日傘を傍らに歓談する人たちのなんと楽しそうなことでしょうか。慌ただしそうに動き回る定員たちは黄色いスカートにエプロンを掲げ、髪の毛をポニーテールにくるんで動くたびに髪の毛やスカートが舞いあがっていました。忙しそうに動いている姿こそがまた、ラスには魅力的で楽しげに映ったのです。
「わあ、わあ、私だっていつか髪の毛を伸ばしてああやって後ろで束ねて、忙しそうにくるり舞いたいんだから。なんて素敵な人たちなの、お客様も、店員様もすごくすごく素敵なんだから! どうかしら、私なんかでも一緒に並ぶことができるのかしら?」
喫茶店の外からしばらく中を覗いて恍惚に浸っていました。つぎはぎだらけともいえるぼろいワンピース姿の汚らしい女の子が道端でぼうっとしているのです、道行く人たちは傍迷惑そうな視線を投げかけていましたが、それでも誰一人と声をかけなかったのでラスはしばしの間、うっとり立ちすくんでいましたが、段々と店員も店の入り口付近にいる汚い女の子に気付きだし、ちらちらと様子を窺いました。ラスも見られていることに気付いて覚悟を決めると、ゆっくりとお店に入りました。
ふんわりと甘いクリームの香りが漂い、またお腹がぐるり鳴ってしまい頬がほんのり赤らみました。店側はラスのことを先程まで入口先にいた女の子と承知していましたが、店に足を踏み入れられたならば声をかけぬわけにもいかず、服装をジロジロと気にしながら女性の店員は礼をしました。
「いらっしゃいませ。お嬢様、お一人様ですか?」
「はい。でも飲食にきたのではありませんの。突然ですが、店長様を呼んでいただけませんか?」
「店長ですか……はい」
小首を傾げながらも女性は厨房に声かけし、ラスにその場にとどまることを命じて仕事に戻っていきました。朝方の忙しい時間帯ということもあって店長はなかなか出てきませんでしたが、ようやく来た髭を生やしてコック帽をかぶる男性にラスは深々と頭を下げました。
「お忙しいところ、突然お呼びしてすみません」
「……」
店長は見たことのない女の子がいることで呆気にとられて言葉を失っていましたが、同時に忙しい最中ということもあってふくれっ面で唸るような気難しい応対でした。
「すまない、見たことはある気がするのだが……少々物忘れがひどくなったようだ。どちら様だったかお聞きしてもよろしいですかな?」
「いいえミスター、健全でございますことで。初めてお会いするのですから記憶にありませんことは当然です」
ラスが言ったならすぐにも店長は時計に目を走らせて、足をパタパタと鳴らしだしました。焦っていることを体で表されたわけですが、逆にラスはこのまま逃げられてでもしたら大変だとくらいつくのでした。
「突然お邪魔してすみません、ただ、お願いがあって参りしたの」
「悪いが乞食にやれるものはないね」
「いいえ、そうでなくて、ええ、乞食だなんてお呼びにならないでくださいまし。私は何もたかって食事にありつこうというわけではありません、それはちょっぴしお腹もすいていますが、それを懇願しに来たのではなくて、どうかこちらで働かせてはいただけないかとお願いにあがったのです」
「論外だ、帰りな」
店長は手首を振って出ていくように促すと、すぐにもきびすを返して厨房に戻ろうとするので、ラスは慌てて引き留めました。
「お待ちください、何もただで食事させろと申しませんし、お金だっていりません。でも私には泊まるところもありませんし、何よりもこんなに素晴らしいお店で働くなんて私には夢のようですことで……ぜひ、ぜひ一度使ってください、ご満足叶えられるよう全力で頑張りますので、どうぞ、一度、一度!」
「確かにウチは忙しいが、猫の手でまかなえるような楽なもんでもないんだよ! さあ、これ以上居座るってんなら警察を呼ぶぞ、出ていけ!」
凄みがかられるともう打つ手などなく、ラスはすごすごと店を出ました。こんなにも良い店構えですのになんて乱暴なのでしょう、なんて手ひどいのでしょう! 悲しみに暮れてうなだれていましたが、こんなときにまで容赦なくお腹が鳴るのを聞いて頬が緩み、このままではいけないと奮い立って前を向きました。
「うん、町に喫茶店が一軒しかないわけがないし、どこもかも忙しく人手が欲しいに決まっているの。別のところだったならきっと私にチャンスを与えてくれるに違いないんだから」
この考えがまやかしであったと気付くのに然程時間はかかりませんでした。尻込みしたがる心に鞭をうって別の喫茶店を二店回ったのですが、どちらも乞食同様に扱われ、話を聞いてくれもせずにすぐにも無理矢理追い出されてしまったのです。こんなことが続いては、ラスだってとてもポジティブにばかりいられず、気落ちしてとうとう道端に座り込んでしまいました。
何がいけなかったのでしょうか、言い方でしょうか、それとももっと人目を引くように美人であれば良かったのでしょうか、様々なことが頭を舞ったのですが、結局これといった確信も得られず、かといってこのまま途方に暮れていつまでも座り込んでいるわけにもいきません。なにせ今日寝る場所も、今日食べる物を買うお金すらないのですから一分一秒すら惜しむべきだという考えが意識を支配して、気ばかりを急かせるのでした。とりあえず喫茶店というところはきっと人手に困っておらず、働かせてくれと頼み込むことがどだい無理なのだろうと割り切って、ではどこに懇願すればいいのだろうと考えたときに閃きました。
「そうだわ、いつも果物を買ってくれる、ケプルトおじさまの所に行きましょう!」
ケプルト夫妻が営んでいるお店では、たねだねのジャムやティーを売っています。老夫婦で経営している小さいお店ですが、近所では評判がよく、ラスの村をはじめ様々な地域と綿密に関係しているために非常に人気がありました。
ケプルト老人はたいへん気性の良い人であり、ラスが汚らしい恰好で突然おじゃましたにもかかわらず笑顔で迎え入れてくれ、ビスケットと珍しいハーブティーを用意してくれました。
「しかし先日来たばかりなのにね、またラスの顔が見れて嬉しいよ」
「ありがとうございます」
やっと人の温かさに触れること叶ったラスは大きく息をつきながら、暖かいハーブティーで体と心を癒しました。
「しかし村の方も大変だね、果実がずいぶんとやられてしまったそうじゃないか」
「そうなんですの、でもおじさまのところでもとても厳しい思いをしているのではないでしょうか。なんでも食中毒があったとお聞きしましたが……」
「あれはあんな大雨のなかでほったらかしておいた果物を、腐っているのを承知で食べたんだから中毒になってしかるべき、自業自得な出来事だったんだがね。ただ、それでこっちにまでとばっちりがくるとたまらないもんだね、互いに」
皮肉に笑ってみせようとしていたが、何せ直接生活にかかわる事件とあって素直に大笑いすることもできやしません。ケプルトはため息交じりに苦笑してみせました。
「しかしどうしたんだい今日は? 遠足か何かかい?」
土に汚れたラスの恰好からそう察しをつけたケプルトでしたが、返答は想像をはるかに超えたものでした。
「実は……私、教会を出てきたのです。それで行く宛もなくて……もし良ければおじさま、こちらの方で私を雇っていただきたく思い、お伺いしましたの」
「おや!」
その時の表情は、はじめて見るケプルトの表情でした。目を見開いて口元をひきつらせ、息をすることすら忘れたように表情は頑なに固まっていました。いつも笑顔で気前のいい人だっただけに、不意をつかれたとはいえそうもありありと迷惑だとばかりに眉をひそめる姿は、人間の内側に潜む、普段表に出ない不徳な部分が色濃く反映されているようで、恐怖すら覚えました。どうしてそんな厄介極まりない話をここにもってくるんだ、どうして自分の元にまで迷惑を飛び火させるのだと言われているようで、一切を受け付けないと完全な否定を前面に押し出されたようで、ラスは思わず涙がこみあげてくるのを感じました。
実はケプルトは黙っていましたが、台風の一件で果実が高騰した煽りをうけて売り上げが深刻な状態になっており、加えて食中毒騒ぎがあったため地方からの果物や薬草などに住民たちが怪訝を強めている最中だったのです。一部の反感は悪質であり、ドアの前に置いてあった桶が壊されていたり、壁に落書きされていたりと、いたずらや嫌がらせをされることもしばしばでした。通りからわざわざ汚らしいものを見るかの目線を投げてよこす人もあります。それでも人柄の良さでなんとか顧客をつなぎとめ、切羽詰まりながらもこうしてやっとこさ営業を続けている現状でした。心配の種は尽きることなく、次第に広がっていく地方商品の不買運動などに生活を逼迫させられており、人が来たときには笑顔を張り付けながら、一人のときはいつも黙りこんで不幸な顔とため息を連れて今の不遇を嘆くばかりの毎日となってしまっていたのでした。いつしかすっかり板についてしまった不遇の表情が、今の不意打ちによってラスの前に暴露されてしまったのです。
ラスは完全に打ちのめされてしまい、ケプルトの弁解よりも早く頭を下げてしまっていました。
「すみません、本当突然に……思いもしないことを言ってしまって困らせてしまいました、すみません。そうじゃないんですの、そんなを言いに来たんじゃなくて、その、私のことを教会に言わないでくださいと……ええ、もし偶然に道で会ったり、教会からなにか聞かれてもどうぞ黙っていてくださいと、そうお願いに来たのです。ケプルトおじさまの顔を見ていたならつい温かさに惹かれてしまって思いもしないことを口に……いいえ、希望ではあるのですが、違って、その……」
動揺を隠せずに、ただただラスは混乱して自分でも理解しないままに何事か言葉をつむいでその場をやり過ごすことだけに一心不乱でした。それはもう口をはさむ暇もないほど矢継ぎ早に言葉をつなげてはそそくさと店を出ようとするものですから、ケプルトは慌てて声を張りあげました。
「ちょっと待ちなさい!」
奥の戸棚からジャムの入った小瓶を持ってくると、可愛らしい薄紙で包んでラスに手渡しました。
「わたしは教会には絶対に告げ口しないよ、だから本当に困ったなら、遠慮なくまた来てくれ。そしてこれをほら、ラスの村でとれたリンゴのジャムだよ。プレゼントだ」
ジャムが貰えることは嬉しかったのです、嬉しくてたまらなかったのですが、貰ってしまうと二度とこの店に足を踏み入れてはならぬ決別との交換条件のようにも感ぜられ、ラスは躊躇いながらおどおどと、お礼も忘れながら恐々と小瓶を受け取ったのでした。