五 汽車旅
五 汽車旅
寒さに目を覚ましたなら、まだ外は暗く、遠山の輪郭がぼんやりと輝く鍔際でした。眠気はありましたが、睡眠とともに低下した体温は寒空を介して体を芯から冷えさせ、そこに一人きりという事実を突き付けられたなら辛さにまた涙が出ようとしましたので、ラスは慌てて起きあがるとリュックを背負って再び歩き出すことにしました。朝方の寒さは非常に応えましたがどうしようもないので、腕組みで背を丸めて堪えながら歩き続けることで誤魔化すしかありませんでした。
空はずっと遠くまで伸びていました。村で生活していればことあるごとに澄んだ空を仰ぐことしばしばですが、今ほど広漠に突き抜けたものだと感じたことはなく、ふと目をあげた先が一体どれだけ先に存在する空そのものを眺めているのだろうと疑問に思いました。きっと何十マイル先も何百マイル先も変わらない空が存在するのでしょう、考えたなら目の前の空に手を引かれてそのままどこか地の果てまで連れて行かれそうな錯覚に陥りました。自分の小ささを知り、村の小ささを知り、引き返すことなど知らずに延々と続いていく道を見ていると、もう二度とこの村には戻れないと感じないわけにはいきませんでした。太陽が昇りだしました。遠くに白んだ朝日へと続く道は果てどなく、どこかから手招きされているような恐怖が共存していました。クリーム色の空はいつでも清々しさを世界中に届けているものだと思っていましたが、今の心持ちが反映されているとはいえ朝焼けがこんなにも怏々しく映ることがあるだなんて、旅は芳しくない発見ばかりが付きまとうのでした。
駅に着く頃には、たった一晩でこんなにもボロボロになるものだと自分ごとながら感心してしまうほどけたいな風采をしていました。寒空に一晩さらした肌は乾燥して煤けきっており、けばだった服は砂埃を浴び過ぎて飽和していました。髪の毛は寝癖も相まって随所がピンと跳ねあがっており、顔つきからは困憊がにじみ出していました。ゆっくりと駅のホームにあがったなら、駅員がひょいと顔を見せて隣接した部屋から出てきました。朝方だからでしょうか、はじめて見る顔の駅員で、いつも買い出しに出かけるときに見る人でないのは幸運でした。どうして一人でいるのかと詮索されたり、後々に教会の人たちにラスの悲惨な現状を語られることが心配だったのです。
しかし顔見知りでないならば尚のこと、現状のラスを看過することはできないでしょう。チューインガムを噛んだままで面倒そうに駅員は尋ねました。
「おやおやお譲ちゃん、こんな朝っぱらからどこに行くんだい?」
「私、八歳です。これから町に行くんです」
お金を持たないラスは、こう言うしかありませんでした。通常の乗車であれば町までは五十セントが必要ですが、地方の列車では八歳以下ですと無料にて乗車が許されているのです。無賃乗車は悪いことだと知っています、教会で幾度と悪いことはしてはならぬと諭されていましたが、胸を痛めてでもそれしか手段がないのです。ちびなことをたてにとりつつも背徳感からおどおどしく言ってみせたラスでしたが、一言返されたならばあえなく撃沈させられたのです。
「そうかい、それで、親の人は?」
「えっと……先に汽車に乗っています」
「だったら他の大人の人とおいで、子供は大人の人と一緒に乗車することに限っているんだよ、知らないことはないだろう。そもそもどこからやってきたんだい? 他の大人は何しているんだ?」
言いよどんだことや服装があまりにすれきっていたこともあったのでしょう、駅員さんは値踏みするような目つきをしながらおもむろに突っぱね、続いて次々に質問を投げかけました。面と向かって断られたというのにホームに居座るだけの図々しさをもち合わせていなく、やたら質問されても困るラスは、渋々ホームから去ると駅の階段に座り込んで頭を抱えることとなりました。
あっという間に八方塞となってしまいました。早くも頓挫した自分の無計画さ、無鉄砲さにほとほと嫌気がさすのでした。教会にいることもままならず、雇ってももらえず、どこに行くこともできない……だったら一体彼女はどうすればいいのでしょうか。町に辿り着くこともできない、夢をみることさえも許されないのかと大きくため息をつくと、改めてやってきた睡魔に襲われ、座ったまま虚ろと寝込んでしまいました。
突然鳴り響く汽笛音に、すっかり寝ていたラスは跳ね起きました。汽車は重い軋み音をたてながらゆっくりと駅に着いたのですが、車掌が包みを二三掲げて駅員に手渡しすると、互いにすぐに引っ込んでしまいました。どうやら貨物列車のようです、一分とも停車していなかったでしょう、また汽車は大きな汽笛音を鳴らしました。
瞬間、ラスは目が覚めたかのような衝撃を感じました。このままでは汽車は彼女を乗せずに行ってしまうのです。夢の世界へと向かう汽車が!
このまま取り残されでもしたならなんと辛いことでしょう、この上ない辱めではないか。思うが早いか、咄嗟にラスは走り出しました。すぐに汽車に近づいて車輪の下を覗きこみました。汽車の底部にはロッドと呼ばれる車輪を連結する長いパイプがあり、そこに乗って無賃乗車をする話を過去に聞いたことがあったのです。パイプは確かに人が乗れなくもなかったですが、あまりに不安定であり、またすぐにも動き出そうとする汽車の下に潜り込むだけの勇気はラスにありはしません。ロッドから落ちてはねられて死んだ人たちの話も聞いたことがあるだけに、とても選べられる選択肢ではありませんでした。
汽車は大きな音をたててのっそり力強く車輪を回しだしました。巨大な鉄の物体が動いているのです、その迫力はすさまじく、最悪の場合は無賃乗車もいとわずに飛び乗ってやろうと目論んでいたラスは寸でで尻込みしてしまいました。汽車はぐんぐんスピードをあげます、ラスは置いていかれたくない一心ですぐ隣を並走しながらも、恐ろしくてその手を汽車にかけることができません。
駄目だと思ったその時、汽車の窓から長い腕が一本、ラスに向かって伸びてきました。
「早く捕まりなさい!」
驚きながらも悩んでいる暇はないとその手に捕まったラスは、そのままグイとすごい力で引っ張られ、一度背中を車体にぶつけながらも窓から車内へと引きあげられました。
何が起きたのか今一つ理解できませんでした。その手の主は金色の髪をした、ひょろりと背の高い貴族の様な身なりをした男の人でした。しかしながらその顔には覇気がなく、どことなく不幸な顔もちでした。
「ありがとうございます……」
うつけながらもお礼を述べたのですが、ラスの小さな声は車内の激しい騒音にかき消されてしまいました。車中は非常に熱く、重油の匂いが至る所から漏れ出ており、空気そのものが重く固まっているような印象を受けました。
長い腕のもち主はすくりと立ちあがり、騒音の逃げやすい窓際に移動すると、心もち口端をにこり緩めました。
「危ないね、君のような子供が無茶をするものじゃないよ」
「あの……本当にありがとうございました。あなたは?」
「名乗るほどのものじゃない、ただの放蕩する音楽家に過ぎないよ。ここにいるのはそんな人たちばかりさ」
周囲を見渡したなら、空気が余すところなく振動する部屋の隅には他に五人が膝をたてて静かに座りこんでいるのでした。彼らは揃って目が虚ろとしており、汚い身なりで、途方に暮れているように映るのでした。ラスは自分がまったく同じ状態であると気付くと、そこはかとなく悲しくなりました。
「ここは一体……あなた方はどんな人なのですか?」
「我々がどんな人かって? じゃあ君はそれも知らずにここに飛び乗ろうとしていたというのか!」
気付くや音楽家はラスを引きあげたことを後悔したのか、すぐにも気落ちして頭を抱え込んでしまいました。そして説明をしようかしまいかと少し悩んだ素振りをみせましたが、ラスの身なりの悪さと泥に汚れた腕を見てひどい現状を悟ったのか、渋々ながらに語りだしました。
「ここは汽車の動力部でね、見ての通り人が五人もいればいっぱいさ。ただ、地方の人間で金のない者たちはこうやって貨物列車に乗って、町へと出て成功を夢みるしかないんだよ。いわば田舎の爪はじき者、もしくはどこにも居場所がない放浪者だよ」
説明を聞いても誰ひとりと反論をしませんでした。無言で肯定し、同時に各々の境遇を黙って忍んでいるのです。よどんだ空気はとてもそれ以上の発言を許さず、畢竟ラスも無言のまま車窓から展望を眺めることしかできませんでした。
これほどまでに目が死んで生気を感じさせない人たちが町で何かをしようというのです、仮に目の前の音楽家がどれだけ素晴らしい音楽を奏でたところで、その野良犬のようなみすぼらしい表情では美しい音楽も台なしとなって誰しも本気で耳を傾けることはないでしょう。希望をもって町に行くとはとても思えない、まるで地獄に向かう囚人のようにしかラスには見えませんでした。
そのまま汽車はしばらく動いていましたが、山間部で突然停止しました。
「どうしたのかしら?」
「トンネルの時間待ちだね、これを越えたらすぐにも町になるよ。ただ、トンネルとその先の橋との時間を待たないといけないから、十分くらいはこのままだろうね」
十分もこのままとは! それまでは汽車がしゃかりき動いていたので、振動や騒音のために何も話さずとも不自然ではありませんでしたし、景色を見ながら旅をしているんだと言い聞かせていればじきに今の場所の不幸など忘れていましたが、止まってしまったなら話は別です、一分でさえ何と永い時間でしょう。
ラスは唯一身なりがよくて(この身なりも、境遇を聞いてからみれば一種の魅せるための道具であり、決して貴族でないということはよくわかりました)話のできる音楽家の袖をひっぱりました。
「音楽家さん、こんな状況だと気が滅入っちゃいそうです。よかったら何か音楽を奏でて欲しいの」
「何かって……そんな、僕にはとても皆に聞かせるような腕は……」
「何をおっしゃられるんです、これから町で見ず知らずの人たちに聞かせるんじゃないんですか? そうだ、だったら私が歌うから、伴奏をしてください。私の歌って、近所ではちょっとしたものだったんですから、らー、らー、どんなものですか?」
ラスがその場をなんとか取り繕おうとしている必死さは音楽家にも痛いほどよくわかりましたし、実際ここで音楽を奏でられないようではとても町で弾けやしないでしょう。汽車は停止しながらも低く唸るような騒音を漏らしていましたが、音楽家は「よし」と立ちあがると楽器を構え、騒音にも負けないほど強く弦をはじいて弦楽器特有の気抜けた音をくゆらせました。
「どうだろう、引ける楽曲はあまり多くないが、民謡の『ヤンキードュードュル』(アルプス一万尺の原曲)は歌えるかい?」
「私も知っている唄はあまり多くないけれど、『ヤンキードュードュル』は知っています。あの唄ってすごく元気が出てくるから大好きなんです」
「よしきた」
音楽家は三本弦を巧みに操って、前奏を奏でました。なるほど、町に出ようと志すだけはあって、その手さばきは見事なものです。若干アレンジされながらも、誰もが聞いたことのあるメロディーが狭い部屋中に響きました。
今まで聞いたことのない音楽家独自の『ヤンキードュードュル』の音にラスは楽しくなってしまって、身体を左右に振らせてリズムをとりながら大きな声で歌いだしました。
ヤンキー ドゥードゥル町へ行く
仔馬に乗って
帽子に羽つけ
お洒落なものさ
ヤンキー ドゥードゥル がんばれ
ヤンキー ドゥードゥル 素敵
曲に合わせてステップ踏めば
女の子はくびったけ
実際にラスの声は響きのよさがあり、ミサ曲のように心が洗われる錯覚をもよおしてつい耳を傾けてしまう神秘的な力がありました。歌が続くに従って、虚ろとしゃがんでいた人たちもせっかくの時間をそんな無慈悲に過ごしたくもないのでしょう、曲に合わせて手拍子をしながら、ラスを囃し立て、ときには一緒に声を合わせて歌いました。あっという間に全員が総立ちで、頭の上で拍手をしながらステップを踏んで、音楽家も嬉しさのあまりどんどんと同じ曲調を続けながら合いの手を添えました。
汽車が動き出してからもその勢いは止まらず、『線路稼業』(線路は続くよどこまでもの原曲)を騒音に負けてなるものかと一層声を高らかに歌いました。
ダイナ 鳴らしておくれ
ダイナ 鳴らしておくれ
ダイナ 鳴らしておくれ
ダイナ 警笛を鳴らしておくれ




