四 一人一夜
四 一人一夜
夜が更け、足早に下がりいく気温に体を震わせて寝る算段にとりかかっている最中、日をまたごうかというこんな非常識な時間にドアノックが鳴り、一体誰かとドアを開けたなら、ファウル氏は驚きに口をぽかんと空けほうけました。夜風をいとわずに駆けてきたために髪はぼさぼさとなって、暗闇を突っ切って来たのだろう急き切った様子でボロを当てたワンピースにリュックを背負い身体を震わせて鼻をすするラスを見たならば、ファウル氏でなくとも何が起こったのだろうと心配以上に恐怖が顔を覗かせたに違いありません。
悲惨な自分の姿を露知らず、ラスはとびっきりの笑顔でファウル氏に挨拶をしました。
「こんばんは。まだお休みになられていない様で良かったです。こんな夜更けに突然のご訪問お許しください、実はファウルさんにたってのお願いに来たのです」
「やあやあ、お願いだなんてこんな時間に折り入って! よほど急を要する様だね、何でも言ってくれたまえ、ラスの頼みとあれば協力しないわけにはいかないからな」
ファウル氏はこんな夜間に急ぎの用となると、神父が倒れでもしたか、あるいは子供たちが急病にかかったか、大方その辺りに検討をつけて身構えました。大きなリュックこそ気になれ、それ以外の理由でこんな時間にラスが来訪するわけがない、ラスの評判は村中でもぴか一ですから信頼は厚くよほどの事情であることはそれだけで存分に察せようものです。
「本当に突然のお願いですの、ただどうぞ、どうぞそれで私を変な子だと思わないでください」
「世の中ってのは往々にして、出し抜けにやってくる物事に限って災いが多いものさ、さあ、何でも言ってごらん」
「本当に、まったく、ぶしつけを承知でこんなお願いを申しあげるのですが……、私をどうか、こちらのお宅で雇っていただけませんか?」
この言葉を聞いた時のファウル氏の訝しげな表情といったなら、かつてないほどでした。何を告白されようとも目の前の困り果てて頼って来た少女を救ってやろうと、大仰に身構えていたにもかかわらず、あまりに見当はずれな珍返答に面喰ってさぞ滑稽であったことでしょう。一方のラスはまじめな相好を崩さずに、現在の教会が厳しい資金繰りの状況下に置かれていること、村では全家庭が金銭的な危機に陥っており、とてもファウル氏以外に頼れるあてがないことを力を込めて語ったのです。
「ご存知の通り、私は料理だって掃除だってできますしいたします、お裁縫は少し不得手ですが、それでもきっとお役にたってみせますし、雇うといいましても何もお金を出せというのではありませんの、対価として置いていただければいいのです、寝る場所なんて牛小屋だって構いません、屋根裏だったとして文句なんてとてもございません、ですのでどうか……どうかお願いいたします!」
「お願いと言われても……」
ラスが良い子であり、裁縫を除いて様々な家事をそつなくこなすことは、教会と懇意であるファウル氏は熟知していましたし、明るく朗らかな気性も素直な性格もいつでも見ていて模範的な子供だと思っていました。わけても面倒見のよさは際立っており、彼女がいたなら独り暮らしのこの家は、一年中部屋の至るところに花が咲き乱れるように美しく彩られることは間違いないでしょう。お金だって困っていません、家政婦だっていないのですからまさに理想的な最高の提案であることは、ファウル氏側からみても間違いなかったのです……一点を除き。
ただ一点のみ鼻もちならない事実がありました。ラスは、孤児なのです。裁縫が苦手ならば練習させればいい、不穏な身なりだって良い服を買ってやればなんとでもなる、しかしながら三百年以上の大昔より長く続くファウル一族の権威というものがあり、村だけでなく町や都心地方にだって関係者がそぞろといるファウル氏ひいてはファウル一族にとって、親元のわからぬ子を家に雇い入れるという行為こそがラスの人となりをいかに色眼鏡で見ようとも天秤にかけられぬほどに隘路となったのです。ラスはてきぱきと働いてくれるだろうし、どこかのお偉い様が来ようとも満足のいく挙措をみせてくれることは間違いありません、誰にだって気に入られる人間的な徳だってしっかりと備えている、それだけに、来賓から折に「この素晴らしい娘さんはどんな家系の子だい?」と聞かれでもしたなら、聞かれでもしたなら! どうにか答える術はあるのだろうか、どのように逃げれば良いのだろうか。目の前の少女は一体何者なんだ!
悲しいかな、ときに身分や家系とは人柄より人望より何よりも確実で優先されてしまうのです。ましてや教会を去ったラスは放蕩者のそれと何ら相違ありませんから、目に見える彼女の良さよりも何よりも体裁のためにはなかんずく優先して考えられてしまうのです。
ファウル氏にとって悪い方向に向かう想像が甚だ恐ろしく止めどなく、狼狽して表情を曇らせてしまいました。もごもごと口を動かしながら適切な言葉が出せない、そんな態度の変貌ぶりに気付かぬラスではありません。
彼女はおもむろに頭を下げました。
「いいえ、ごめんなさい、困らせてしまいました。今のは冗談なんです、どうぞ気を悪くしないでくださいまし、ファウルさん。本当のところは、私がいなくなった後、どうか教会のことをよろしく補助していただきたいとお願いにあがった次第なんですの。先程申しました通り、現在ではすべてと言っても差し支えのないほど村中が貧困にあえいでいます。皆が自分のことでいっぱいいっぱいな時分だからこそ、お願いするのはファウルさんを置いて他にはおりませんでしたので、こうして伺ったんですの」
ラスはそれらしい理由を咄嗟に並べてみせましたが、声は震えていましたし、言葉を出し切ってもまるで顔を見て欲しくないとばかり一向に頭をあげる気配がありません。彼女の強さこそがまた、ファウル氏を困惑に追い込みました。
「あ……ああ、それは構わないよ、ううん、そうだよ、言っただろう、ラスの頼みだったら当然協力しないわけにはいかないじゃないか。な、たとえば先程のお願いだって――」
「ありがとうございます、ではお邪魔しました」
ラスの声はもう掠れきっており、喉奥から必死にそれだけを声として絞り出したといわんばかりでした。ファウル氏の返答をろくに聞かずすかさず玄関のドアを閉めると、走って逃げる音がドアの奥より聞こえました。
なんと強い子なのでしょうか、なんと察しの良い子なのでしょうか、なんと純粋な子なのでしょうか。ラスがいなくなった途端、ファウル氏はあっという間に頭が冷静に返り、彼女の純粋な気持ちと願いを、大人の浅はかで邪な打算で深く傷つけたことをひたすらに悔いたのです。またそんな素振りを表にだしてしまった迂闊さと、それを悟られてしまった事実に悲しさがこみあげました。
彼女がいい子だということは誰よりもよく知っているというのに、今の彼女を助けられるのは自分しかいないというのに! なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうか!
ファウル氏は急きたてられるがままにドアを開けて辺りを見回しましたが、雲に包まれたおぼろな月だけが力なく照らす夜では、とても街灯一つない世界でラスの姿を捉えることはできず、後悔の念に駆られてその場に膝まづくのでした。
ラスは必死に暗闇を走りながら、ときには転びながらもすぐに立ちあがり駆け続けました。己の身勝手さと、ファウル氏に断られたという事実、そして返答に困らせてしまった悲しみであふれていました。なんてひどいことをしてしまったのだ、孤児だという事実を棚にあげて何を根拠にファウル氏であればきっとなどと童蒙な勘違いをして自分を売りに行ったのだ! 彼女は自分が悪かったと思い込んでいましたし、拒否された悲しみは自身が招き入れた不幸であることは重々に承知していました。だからこそ悲しみは言い逃れを許しませんでしたし、もどかしさをどこにぶつけてよいのかもわからずに走ることしかできなかったのです。
ラスがふと気付いたならば、月を覆っていた雲ははがれ、明るい満月が灯った世界で、丘を一つ越えた大通りにいました。このまま道なりに歩いていけば駅があります。町へ出るときはいつもそこから汽車に乗ったものです。
ラスは涙をぬぐい、ずれ落ち気味のリュックを肩に掛け直して道の先を見据えました。
「うんそうだ、町に行きましょう。私は料理もできるし掃除や洗濯だって曲がりなりにもできるんだもん。裁縫はちょっぴし苦手だけど、都会はあんなにたくさん人がいるんだからこんな私を住み込みででも働かせてくれる気立てのいい、そして裁縫が得意な人がいたってなんら不思議じゃないの」
言葉にしたならば町での生活が目の前に色付いて現れ、未来の希望を胸に抱き、濡らした目元をぬぐいました。お金を持っていないのですがそんなところにまで気が回る余裕はなく、お告げのように現れた明るい閃きにすがりついて先程のことを忘れようと必死になりました。
「私だってもう十一歳だもん、一人で町にだって行けるってところみせてやるんだから。町ではどんな人に会えるのかな……きっとこの村みたいに楽しい人たちが、この村とは比べものにならないくらいたくさんいるんだわ。夢みたい、そんな所に一人で行けるなんて冒険さながらなんだから。そこで私はティーショップで働いて、色んな方とお近づきになるの。あの人はフランスから来た貴婦人様、あの人はイギリスから研究に来た紳士様、近所の方々だって大歓迎! お店にいるだけでまるで津々浦々(つつうらうら)を旅しているような……いつもお掃除のときに一人っきりで世界各国をまたにかけて旅行する夢をみていたものだけれど、こんな形で実現するなんて思いもしなかったんだから。そう、夢の実現のための、この一歩なんだから!」
ともすれば風前の灯火のように力なく消え去ってしまいそうな意気を奮い立たせ、幾度と鼓舞を繰り返していましたが、次第に眠気を感じて頭の働きが鈍りだしたなら言葉数も少なくなり暗い感情が支配しだしました。道に寝るわけにはいきませんでしたが、ちょうど川べりに到着したので、石橋の下に場所をとり、リュックを枕にして寝そべりました。
暗闇のしじまにぽつねんとなり、忘れていた恐怖と現実が容赦ない牙をむき出しました。数日前にサディとこの石橋で「また来ようね」と交わした約束、子供たちの笑顔、神父の優しさ、人々の温かみ……すべてが砂上の楼閣のように頭の中でいとも容易く瓦解され、忘れたい出来事ばかりが何度と頭に反芻されます。神父は困っていました、サディは泣いていました、ファウル氏は当惑していました。すべての記憶の色どりが失われ、モノクロのように味気ないものとなり果てました。
自然に湧き出た涙目のままで、ラスはリュックの中から一枚の写真を取り出しました。簡易な木製のフレームに縁取られた、彼女とサディの写真です。三か月ほど前に偶然村に来ていた写真屋が教会に泊まった際に、たいそうラスを気に入ってサービスにと一枚撮ってくれたものでした。四角い木の箱に黒暗幕をかけて、突き出たレンズに木の板を当て、さらに板を上から抜き差しするといった具合で、カメラというものは知っていながら本当にこんなことで写真が撮れるのかと半信半疑でした。十秒間じっとしていろと言われ、緊張と戸惑いから無理矢理サディも一緒に入らせて、二人して肩肘を張ってどぎまぎしたものでした。次には木製ケースを取り出して何か液体を調合し始め、電気を消した暗室へと閉じこもってしまいました。そのあと手渡された紙切れを用意した水ですすいだなら、なんとそこには彼女たちがくっきりと映っていたのです。興奮する教会の子供たちの手から手に渡っていき、最後にはラスの元に辿り着き、その写真屋さんは特別サービスと言ってそっとポケットに忍ばせてくれました。
今となってはこれほど心強いものもありません、吹きさらしの橋げたでワンピース一枚を身にまとった姿で、ひきあがっていく汗に体温を奪われ、凍えながら写真を抱いて寝ました。川のせせらぎにできる限り耳を集中させ、孤独との添い寝を誤魔化そうとしますが寒さで冷え切った意識は鮮明に暗闇の怖さばかりを模索してしまうのです。
「サディ……寒いよ、サディ……」
これほど寂れて虚しい旅があろうとは、彼女は今まで想像だにしませんでした。