二 校長の視察
二 校長の視察
日曜日、ラスは朝から大わらわで、寒い夜明けどきに井戸から水をくみあげて食事の準備にとりかかりました。子供たちが起きてからは一緒になって教会を今一度掃除し、机や椅子を説教できるよう配備しました。なんといっても学校の校長が遠路はるばる来るのだからと、ラスの掃除への執着は生半可なものではなく、いつもよりもそれはもう一層きれいに、光が反射しないところがないようにあたりかまわず拭き回ったのでした。
朝食が終わってからは後片付けから説教までの間隙をぬって裏の野原へ小さな花々を摘みに行き、小瓶にさしてほのかに甘い芳香を漂わせることで、いつもにも増して晴れやかな日曜の説教の演出が整ったのです。
ブリックおじさんが五人の紳士淑女を連れて来て、村に散在する家々からは蜘蛛の子が集結するようにあらゆる親子が一同に会し、教会は日曜日ならではの盛りあがりとなりました。ラスは終始忙しさにかまけており、とうとうブリックおじさんからどの人が校長にあたるのかを聞くことはできませんでした。ロット神父の説教が始まると、彼女はその脇でたおやかに身じろぎひとつなく立ちすくみ、大勢の前で説教の補助を見事にやってのけました。毎週のことでありましたが、サディが言うにはこの神父の補助こそが唯一ラスが一端の女性と見えるときらしく、実際、若いながらにも堂々とした風采や身のこなしが身についていました。
説教が終わったならラスとサディを含めた教会の子供たちが一堂に集まり、サディの指揮を頼りにラスが主音を務めた合唱を披露しました。ラスの声は花の香りのような声であり、力強さはないまでも、誰もの耳に透き通るように優しく入り込み、信仰曲や子守唄、いわんやミサにはもってこいの美しいソプラノでした。この合唱は大変な好評を博しており、終わりには拍手喝采が小さな教会を揺るがさんとするほど響き渡るのでした。
合唱が終わると息をつく暇もなく子供たちに後片付けを指示し、ラス本人は広間へと主賓の方々をお連れします。それから改めて料理の最終支度をし、大慌てでテーブルに並べるのです。その日は村の中心人物たるファウル氏を含めた馴染みの顔触れ四人、そこに町から来たらしい三人の紳士にロット神父が合わさった八人でありました。ラスは食事の用意でてんやわんやとしながらも、町から来たらしい三人のうちの一人が学校の校長なのだと思うと気が気ではなく、戸を静かに閉めたり足音をなるだけ忍ばせながら、上品と愛想を心がけてたどたどしく食事の準備を終了させました。他の子供たちはいつもであればラスの怒り声がこだまする廊下がいやに静かで粛々としているものですから、疑問を抱きながらも怒られない分には良いことだといつも以上にはっちゃけていたので、食事の用意が終わったと同時にしこたま怒鳴られるはめになりました。その声ときたなら透き通るようにドア二つを透過して食卓へとしっかりと伝わっており、大人たちの談笑の肴となっていたのでした。
子供たちが食事を終え、大人たちもあらかたの重要議題を論議し終えたなら、ようやっと解散となり日曜日は終わりを告げるのです、……いつもであれば。その日は後片付けをサディに頼んで(こんなことは初めてであり、子供たちは殊更不思議に思ったのでした)ラスはロット神父と共に、一人の紳士と別の部屋へと連れ添って入っていきました。その紳士というのがまた、ふくよかな頬肉を携えた笑顔以外を想像することが容易ではない顔つきをしており、風采はお腹周りが大きけれど瀟洒な身なりと表情相まってそれはもう誰もが自分の孫だと言わんがばかりで、一目見ても神父にも負けぬほど人柄の良さを感じ取ることは容易であったことでしょう。
部屋に行くと早速、自己紹介となりました。
「はじめまして、ラス。ロット神父から話は聞いてくれているだろうけれど、私は隣町の学校で校長をやっているクエスター=リーデンスという者だ、よろしく」
「ええ、事前に神父様より伺っておりましたが、お名前やお姿までは聞いておりませんでしたので、こうして面と会える機会を設けていただき光栄に存じます。同じくすでに伺っておられるでしょうが、この場をお借りして改めまして、私はラス=メイシィでございます」
深々と頭を下げるものだから、クエスター校長は苦笑しました。
「なあに、そんなに肩肘張ることもない、普段通りでいてくれることが一番だよ。何せ礼儀正しい素振りを見せられると誰もかれも同じに見えてしまいまったく印象に残りはしなくてね、先だっての台所で怒っていたくらいの方がよっぽど印象的、個性的に映るものさ」
「聞こえていましたとは、お恥ずかしい限りです……」
ラスは顔を真っ赤にしてしゅんとしましたが、クエスター校長の人徳に押しやられ、気にしていても仕様がないと開き直ってすぐにいつもの体をとり戻すことができました。
台所からティーセットを運び込み、校長の目の前で先日買ったばかりのハーブティーを注いで勧めました。続いてロット神父のティーを注ぎ、最後にラス自身の分を用意して、ゆっくりと椅子に座りました。あまりに慣れぬ上品すぎる素振りがまるでままごとのように思えたのでしょう、ラスはそこまできてとうとう我慢できず、再び赤面しながら茶目っ気のある笑顔を覗かせました。
「いい笑顔だ、いい子というのは笑い方を見れば大体わかるものでね、その点ではなんら文句のつけようもないよ。さあ、それではラス、改めて少しおしゃべりに興じようじゃないか。そんなに大したものじゃないから、毎日が暇で暇でどうしようもなくていつも同じコースを散歩をしている近所のお爺さんに接する程度に思ってくれればいい。それでだ、ラスはどんなことが得意だい?」
「はい、私は料理がすごく好きですの、先程食後にお出ししましたブラックベリーパイとゼリークッキーは、今日のために特別気合を入れて作ったものでしたが、お味はいかがでしたか? 甘すぎてもいけないと……普段は子供たちのためですから目いっぱいシュガーを含ませるんですが、今日はちょっぴり大人の風味に仕立てあげてみたのです」
「なんと、それは誠かい? てっきりこの村一番の職人が作ったと思ったよ、あそこまで立派なパイは町でも焼ける人がいやしない」
クエスター校長は大袈裟に椅子の前足を浮かせて驚いてみせ、笑いを誘いました。
「お口にあいましたようで何よりです。あの卵を産んだのはこの教会が飼っている鶏なんですの。金の卵は生みませんが、とっても美しい黄金色の黄身をもつ、それは大変立派で大きな卵を産むんですから。ここいらでもあんなに立派な卵を産む鶏はまたといません、後で一緒に小屋まで行きましょう、きっとおったまげること間違いなしです」
「そうかい、それは楽しみだ」
自分のことよりも、何よりも楽しそうに飼っている鶏のことを話すものですから、クエスター校長は大変好感を持ちました。あらかじめ毎日の掃除から料理、あらゆる家事から子守、雑務に至るまでをそつなくこなしていること(実際は良く失敗するのですが、それは当然黙秘されました)を神父から聞いていたのですが、なるほど立派な娘さんだと感心しました。
「本は読むのかい?」
「恥ずかしながら、子守りのときに絵本を読む程度のもので、その他はさっぱりですの。もし聖書をご本に入れていただけるならば辛うじてといったところですが、それもまた罰あたりでしょうか……?」
「いや、いいことだよ。聖書はまた普通の本よりもよっぽど教養にあふれているからね」
クエスター校長はラスに好きな聖書の一節を暗唱させ、その解釈を尋ねました。ラスの解釈は非常に独創的で、他人に教えられたものではなく真に自身が考えだしたものであり、彼女の想像力の豊かさがよく表れていて、これもまたクエスター校長を満足たらしめました。
「面白いね、普段から色々なことに興味をもっている証拠だ。そして暗唱向きのいい声をしている。どうだろう、一つ唄を歌ってくれないだろうか?」
「今ですか? えっと、では、恥ずかしいですが……こほん。私が良くお掃除のときに歌っている唄を歌います」
アア 愛とはかくうるわしき
かの者を想わば 心は四季おりおりの 花に彩らるる
いつかあの人も同じように 心にきれいな花を咲かせるだろう
阡の春を越えて きみに歌おう 愛を謳おう
アア 愛とはかくまばゆかしき
かの者を想わば 心は四季とりどりの 月に照らさるる
いつかあの人も同じように 心を眩き月がさやかせるだろう
阡の時を越えて きみと歌おう 愛を謳おう
アア 愛とは 愛とはかくこうごうしき
歌い終えて一礼をしたならば、クエスター校長は大きな拍手をしてラスの頬をまた赤く染めさせました。
「いやぁ実に良かったよ。しかしどうだい、料理に唄に、いやはやラスは得意なことが多いね」
「そうでもないんですのよ。私ったらよくよそ事を考えて料理を焦げつかしちゃいますし、裁縫が何よりも苦手なんですの。先日も洋服のつぎはぎを直そうとしたんですが、ほら見てくださいこの中指、刺さった跡が二つもあるんです。これでもまだ良い方で……この服も裏向けて見てください、この通り、当て布をするだけですのに長さの違う毛虫があっちこっち勝手向いて這っているような縫い跡が精一杯なんですの……あっと、もしかしてあまり悪いことって言わない方が良かったでしょうか?」
「毛虫とは、ずいぶん愉快な比喩だね。なーに、得意ばかりの人間とはどうしても図に乗るもので、一つや二つ欠点を併せもつのがいいものさ。ましてやその欠点を自覚している人というのは一番いい、学校の校長が言うんだから間違いないよ。……ただし、そうやって人前で着物をめくることはいただけないね。ほらほら、かわいいおへそが見えてしまっている」
「あ、すみません!」
それからクエスター校長は花瓶にいけてある花の名前であったり、教会の自慢などを聞きました。ラスは何か聞かれるたびに嬉しくなって、いろんなことを話し、果てはクエスター校長の手を取って、教会中を案内してみせました。元気いっぱいの子供たち、おしゃまだけど優しくてしっかり者のサディ、黄金色の黄身の卵を産む鶏、どれもこれもが教会の、ひいてはラスの自慢だったのです。はじめて見る客人の校長に興味津々と群がってかまびすしい子供たちをたしなめながら、いつまででも話ができるほどにこれら教会の仲間が大好きだったのでした。
一通りを説明しきると、時間は予定よりもずいぶんと過ぎており、太陽も黄色く輝きだして西の空を赤銅色の天幕で覆いはじめていました。玄関先で校長を待っていたブリックおじさんに会うとまたラスの話が始まりそうでしたが、クエスター校長が時計に目配せして見せたなら口をつぐみ、逆に申し訳なさそうに頭を下げ始めるのでした。
「すみません、ずっと一方的に話しっきりで……なんて失礼だったのでしょうか、お時間も限りありますのに」
「気にしなくてもいいさ、こちらにとっても時間を忘れるほどに充実し、実に楽しいひと時だったよ。そしてラス、私はあなたをたいへん気に入った。そこで最後に聞きたいんだが、もし君が学校に来ることになれば、今まで住んでいるこの村とはまったく違う新しい世界だ。知っている人だって、一人もいないが……心配事はないかね?」
校長の質問に、ラスは一瞬きょとんとしましたが、次には満面の笑顔を返してみせるのでした。
「私、人って大好きなんです。沢山の新しい人に会えることに楽しみこそあれど、心配なんて一つとしてありませんの。きっと、きっと楽しい毎日が待っているんだろうなって考えただけでもすごく心が弾んでくるんです。今朝だってずっとそのことを考えていて、ついパイ生地を一枚焦げ……あえっ、今のは忘れてください」
クエスター校長は満足そうに町へと帰っていき、翌日に電報にてラスの特待生許可を認める旨が知らされたのでした。