十九 ゆく末
十九 ゆく末
ラスは暖炉の前に座らされ、温かいティーの入ったカップを持ち、その手の感覚が本物であることをしみじみと感じていました。毛布を三枚も羽織りながら、まだ体はガクガクと震えているのでした。どれだけ火に近づこうともなかなか体の芯から冷えが逃げ去ることはありません。それでもこうして意識もあり、手の平をはじめ少しずつ蘇ってくる感覚は、ラスが生きている何よりの証拠でした。
「……本当にありがとうございました、ブリックおじさま」
「もう何回目だい、いいってことよ」
ラスは幾月ぶりかに、御者のブリックおじさんと再会したのでした。ことによればラスが死を覚悟したあの極寒のなか、最後に捧げた唄がブリックおじさんの操る馬を荒ぶらせ、ラスの元へと導いたのです。ブリックおじさんといえども、この雪のなかで町から峠越えをしたいという婦人がいなければ、猛吹雪の危険ななかで馬車を走らせる無茶な真似はしなかったでしょう。危篤状態になった家族のために、急遽大雪が予想されるなかで山を越えねばならず、腕の立つ馬車乗りを探していたところブリックおじさんに白羽の矢が立ったのでした。視界の悪い雪道で突然暴れ出した馬に肝を冷やしましたが、走り出したその先には女の子が倒れており、それが数ヶ月前に教会を出たと噂のラスだったのですからブリックおじさんの驚きも相当なものだったでしょう。家族が危篤状態でありながらも、婦人だってそんな子を放っておけるわけもなく、一緒に乗せて山道を越えてきて今に至るのでした。馬車に乗っている間、ずっと婦人に抱かれていたことが良かったのでしょう、現にラスの体は冷え切ることなく無事意識を取り戻したのです。婦人を目的の建物に送った後、ブリックおじさんは大急ぎで宿をとり、暖炉の前でラスを温め続けてくれたのです。
ブリックおじさんも、ラスが教会から出ていったということはすでに耳に入れており、こんな形であれ再会できた喜びはありましたが、どんな言葉をかけてやればよいのか悩みました。一方でラスも教会を出たことを知られていると見当はつきましたから、何をどう切り出したものかと悩みました。
結局ブリックおじさんが出来あがったばかりの熱いスープをよそい、渡しながらゆっくりと声かけをするのでした。
「どうだい、温かいスープだ。これで少しは腹の足しになるだろう」
「ありがとうございます、いただきますの」
とても熱かったですが、構わずにラスは口につけました。飲み込む際には喉が焼けるように痛くなり、腹に入れば空の胃で熱いスープが暴れ回っていました。ほっと息を吐き、
温か味が染み渡りつつあることを感じて落ち着きました。
「それで、これから先の見通しは立っているのかい?」
「……いえ」
「だろうね。老婆心ながら忠告しておくがね、ろくな食料もなく、地図も持たずにこのアメリカ大陸をほっつき歩くことは感心しない。山も丘も見えない枯れた土地を何十マイルとさまよってのたれ死んでしまうのがオチさ。ましてやこの冬のたけなわに、なんて恰好でいるんだい」
ラスは体中がカサカサに荒みきっており、所々に切れ跡のようなあかぎれが痛々しく痕跡を広げていました。いまだに体全体は力を入れるのを拒み、椅子に体を預けているような姿勢で、拳を強く握ろうとすれば肘と手首の間で骨がきしみました。吐息がほのかに暖かさを帯びてきて、手の平を口にあてがうと、息を吐いて両手の感覚の促進に努めました。
「のうラス、ものは提案だが、学校へ行く気はまだあるのかい?」
「……!」
前触れもなく提示された『学校』という言葉は、ラスにはいつしか遠い話となっていただけに、にわかに現実味がなく、同時に夢の世界であるかのように耳に入りこんできました。脳裏を一瞬にして駆け巡った春先にそびえる学校の想像は何と温かかったことでしょう! 冷え切った胸にはどれだけ厳しく響いたことでしょうか!
「でも、私はせっかくの申し出を一方的に断りましたから、無理なんです。きっと校長先生は怒られているに違いありませんの、恩を仇で返したようなものですから」
「そのクエスター校長が、君を探しているんだがね」
「私を、ですか? どうして……いえ、咎めるためにじゃないんでしょうか」
「悪い想像ばかり達者じゃないか、お嬢さんはずいぶんと変わっちまったようだ。そもそもクエスター校長に君を紹介したのはこのわしだよ、話してなかったかな……とりあえず、その校長が君がいなくなったことにたいへんショックを受けているんだ。先だっての婦人が身内の危篤という急ぎの際に、わしが町にいたことは偶然だと思うかい? なんせラスが町にいるということが二、三日前に判明してね、探すようにって顔を知っているわしにお達しがきて、はるばる出向いていたんだよ。そんな矢先に猛吹雪のなか馬車を駆りだされるとは思わなかったが、お陰でお前さんを救えたんだから、この歳になっても世の中何が幸いするのかわからないと改めて感じ入るね、紙一重で一生後悔するところだったよ」
にやりと笑うブリックおじさんに失礼ながら、ラスは今この瞬間が現実ではなく、雪のなか倒れ込んだままの自分の夢であるとしか思えませんでした。きっとブリックおじさんは数日前にでも急死しており、雪で凍死した自分を迎えにあの世から来てくれたんだと何度と自身の頭の中に訴えかけていました。
ピントはずれな目線を送りながらも、律義にスープをすすることだけは忘れないラスを見ておじさんは一層面白そうに笑うのでした。
「どうした、まだ心は吹雪のなかにいるのかね?」
「……いえ、ブリックおじさまが、一体いつよりこれほどおしゃべりになられたのかと」
「言ってくれるね、だったら前のように色々と話を聞かせて欲しいものだよ。どうして教会を出たのかや、この三ヶ月間の経緯なんかをね。それにブリックおじさまだなんてくすぐったい、前のようにおじさんと呼んでくれよ、ラスにそう呼ばれるのを気にいっていたんだから」
それからラスは半日余りの深い眠りにつき、念のため医師の診察を受けてから再び眠らされ、翌日の未明にブリックおじさんと並んで馬車に乗せられました。そして町への長い帰路についたのです。
一日の間をおいたからでしょうか、白暗幕のように降り積もった雪はほとんど溶けだしていました。それでも指が埋まりそうなくらいはかさが積もっている道を、二人を乗せた馬車は延々と進みました。非常に速かったですが、馬の脚をもってしてもおおよそ六時間もの道のりだと知らされ、とてつもない道程を進んでいたのだと改めて思い知らされました。
「なんだ、だったら東に進んでいたつもりでいたのかい?」
「そうなんです、きっと町外れの森を抜けるまでで、ずいぶんとグネグネしていたからごっちゃになったんだと思いますの……でも、真反対に歩いていただなんていくらなんでも笑い話にもなりませんね」
「海まで出ようというからには、東に五十マイルは歩かないとならいね……そうさね、ここの爺には大層立派な笑い話だ!」
馬蹄が雪を踏みしめて軽快に走り続け、草の生い茂る広場をみつけたならば一度休憩をはさみ、昼ごろには件の町外れの森に到着しました。もう町までは幾程もありませんが、ラスはまだ気持ちが渋っており、素直に馬車に乗せられはしたもののこれから先をどうするかなど考えてはいませんでした。学校に行くことも、一度掌からこぼれた砂同然の出来事だけにさっぱり現実味を伴って考えられず、クエスター校長が腹を立てていないということも信じられませんでした。町の学校の校長ともいえよう立派な地位の人が、一体どうして村に住む孤児の子供に一方的に弄ばれて腹を立てない道理があるでしょうか。そして学校に行くとして、どこでどうやって生活をすればよいのか、見当がつきません。
「大丈夫だよ、寝泊まりする場所だって手配されているさ」
「でも、私には仕送りをくれる人もいないですし」
「仕送りなんて、不要だよ」
ラスは決心を渋りながらのらりくらりと返答しましたが、ブリックおじさんはもち前の老獪さで逃げ口上をぺしりぺしりと叩いていきました。本音を言うならばラスは学校へ行きたかったのです、しかしそれを声に出して言った途端にはかなく瓦解してしまいそうな恐怖が心の奥底に雌伏しており、また現実として受け止めたならば案の定校長が怒っていて手痛いしっぺ返しを食らったり……希望をもつことがもう怖かったので、結局こうして渋りながら問題点ばかりをあげつらおうとしていたのでした。
木々の隙間から時折光を差し込ませる太陽が眩しく照りつけてまぶたをひりりと刺激しました。鳥の鳴き声が聞こえ、風は冷たけれど気候は暖かく、清々しい気持でありました。
ふと、風に乗って何がしかの音が耳端を撫でました。
「おじさま、何か、聞こえませんか?」
「風の音だろう、もしくは葉がすれる音か、獣がいるのかもしれないな」
「いいえ、そんなではなくて、自然の音ではないのです。色々と入り乱れてはいますが、もっと明確な……」
音はだんだんと大きくなってきました。次第に何であるのかはっきりしてくると同時に、ラスの心臓は激しく鐘打ち、呼吸がみるみる荒くなって苦しくなりました。顔は上気し、体中が寒さとは異なる震えを帯びました。
森を抜けた先には、煌めく太陽に照らされた町の入り口で、沢山の人たちが合唱を行っていたのです!
向かって右側にはスラムの人たちがざっと五十人はいて、空き缶や葦の楽器を演奏しながら全員で肩を組んで、体を揺らしながら大きく歌いあげていました。向かって左では、孤児院の十数人の子供たちが腕を後ろに組んで、ベスタール校長の指揮のもとで顔を空に向けて必死に口を開いて歌いあげていました。正面には町の人たちがこれまた何十人と三列横隊となっていました、パン屋の店主にトマス、トマスのベースボール仲間こと学友たちにクエスター校長、ラスがいつも買っていた花屋の店主、ジャム屋のケプルト夫妻に誕生日にパイを作りに行った婦人の家族、店の常連客たちに合唱パーティでお世話になった音楽教室の人々、いつぞや汽車で一緒になった大道芸人までいます。左右の合唱団に負けないようにと追随しながら必死に声を張りあげていました。
アア 愛とはかくうるわしき
かの者を想わば 心は四季おりおりの 花に彩らるる
いつかあの人も同じように 心にきれいな花を咲かせるだろう
阡の春を越えて きみに歌おう 愛を謳おう
アア 愛とはかくまばゆかしき
かの者を想わば 心は四季とりどりの 月に照らさるる
いつかあの人も同じように 心を眩き月がさやかせるだろう
阡の時を越えて きみと歌おう 愛を謳おう
アア 愛とは 愛とはかくこうごうしき
ラスは顔全体を手で覆いながら、馬車の上で泣き崩れました。その泣き方といったなら、今までのように我慢を背景にむせび泣くような静かなものではなく、真反対の、子供のように声を高らかにあげながら涙を滴らせて喚き泣いたのです!
あまりに、あまりに大きすぎる愛!
彼女を乗せた馬車は門の手前に来ると、ゆっくりと制止しました。幾つもの音楽団に囲まれた馬車では、ラスがただわあわあと泣き続けるだけで、一向に止む気配がありません。嬉しさがとめどなくわきあがってくるものですから、とても涙が止まらずに、恥ずかしさも相まって顔をあげることが出来なかったのです。顔をあげればそこには数えられないほどたくさんの笑顔があることでしょう、それらに涙が促されないわけがどこにありましょうか。
そんなラスに痺れを切らし、馬車に足を掛ける者がありました。その者はラスの隣で腰をかがめ、彼女をゆっくりと抱きあげました。
「さあ、お立ちなさい、私の大切な娘よ」
この声は、この声は! すぐにも顔をあげたラスの目の先には大好きなシャルテムの顔があり、その微笑へとすぐさま飛びつきました。
「お母様、シャムお母様! 私は、不肖ラスは……!」
「ええ、ええ、何も言わなくてよろしい。ただ私はあなたがいることが嬉しいの、あなたをこうして抱きあげられることのほか、何も望まないのだから」
「お母様!」
二人はあらん限りの力で抱き合っていました。強く抱き合いながら、沢山の人たちより盛大な祝福を受けました。紙吹雪が舞い、「おかえり」の声がまばらに響き、抱き合う二人を囃し立てれば、楽器を演奏する者もいます。
「私は、不肖ラスは……世界一の果報者でありますの!」




