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スラムの妖精  作者: 等野過去
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十八 愛を探す旅

   十八 愛を探す旅


 ラスは町から一歩外に出ると、振り返ってしばらくぼんやり虚ろとなっていました。

 辛いことは多かったですが、どれもが大切な思い出となって懐古されました。酸いも甘いもひっくるめて、足早に過ぎていったように思うのでした。三ヶ月という月日は、一つの人生のようにさえ映りました。

 教会を、子供たちを、サディを忘れ、スラムを、パン屋を、孤児院を、家族を忘れ……一体これから先は何を求めていくのだろうか。正直なところ、ラス自身どうしてシャルテムの申し出を断ったのかはっきりしていませんでした。今戻れば間に合うんじゃないだろうか、訂正できるんじゃないだろうか、そう思ったなら一歩たりとも前に踏み出せないように感じました。

 しばらくは寒空の下で風に吹かれながら立ちすくんでいたのですが、ようやく足を動かし、町から離れる決心がつきました。

「私は、愛を探すの。どんなものだろうかわからないけれど、きっとみつけられたなら、晴れてもう一度ここに来てお母様に言ってやるんだから。本当の愛を与えに来ました、なんて」

 ラスはこの『愛を探す旅』というフレーズが気に入り、その響きだけが先のみえぬ途方もない旅の支えでもありました。背中のリュックに詰めてあるのは、毛布とパンが三つだけです。古ぼけた毛布はシャルテム母の温かみを知る唯一のもので、旅の寂しさを紛らわせる一番の宝物でした。

 これから一体どれだけ歩けばどんな場所に着くのだろうか、さっぱりわかりません。ただ目の前にずっと長く伸びゆく道を、ゆっくり確実に歩いて行くだけなのです。

 空は雲ひとつなく晴れ渡っていました。冬の乾燥した空気は身を切り裂くような鋭さをもっていましたが、眩しく照る太陽を見ていると前途は明るく思えました。先日に降り積もった雪も嘘のようで、冬としては温かめの日が続きそうな希望ももてました。

 歩くとすぐにも林通りに入り、縦横無尽に生え茂る木々の間をつづら折りに抜けて行ったならば、まだまだ道は長く伸びており、夕日に照らされる赤い丘を真っ二つに切り裂いてまっすぐに続くのでした。やっとこさ丘の上に登りきったなら、またその先はかなたへと導いていて、小高い山へとつながっているようでした。長く続く道ですが、あの山の頂上に登ればきっと素晴らしい眺望があり、近くの町々が一望できるだろうと思ってラスは必死に歩きました。道は延々と続くわけではありません、道がある限りその先には町があるに決まっているのだと信じながら歩を進めました。結局そのまま陽が落ちて夜を迎え、ラスはパンを一つたいらげると道端に埋もれた大きな石の蔭で毛布にくるまって寝ました。風除けをしても急激に冷え込む気温は容赦なくラスを責め立て、睡眠に入ろうとなれば体温が下がり、体を休めているはずなのに気力を根こそぎもっていかれそうなほど痛烈に素肌が刺激されるのでした。

 朝日が昇ろうという頃、更に気温がぐっと下がりました。道行く馬車から大きないななきが聞こえ、ラスは体を起こすと身震いして思わずその場に丸まりました。なんという寒さでしょうか、空は白い雲で敷き詰められており、雪が降っていないことが不思議なほどでした。

「よほど運がいいの、雪が降りでもしていたならきっとここでのたれていたに違いないんだから。それに馬車が通ったということは、この先に町がある何よりの証拠なの。だから、この今、進まないと!」

 体に鞭打って、パンをゆっくりと噛みながら進みました。食事をするだけでも体が少し温まる気がしましたが、同時に空腹も刺激されてしまうのでした。

 ラスは、東に行けば大西洋(Atlantic Ocean)があり、海の際には港町があると信じて疑わなかったのです。だからこそ前方にそびえる山のいただきに立ったなら、果てしない海と希望の町が見えるのだろうと信じていました。港町につけば、視界の隅々に至るまでが、あらん限り世界ほうぼうの物件で埋め尽くされる未だかつて見たことのない()()りな世界観の共存が拝めることでしょう。あらゆる船が行き来する港、有色人種が行きかう町、見たことも聞いたこともない様々なものに埋め尽くされているに違いありません。そのなかには料理やお菓子も含まれており、今まで味わったことのない食感のクッキーや聞いたこともない材料から作られたジャム、ゲテモノの食材などが陳列されていると羨望すれば、足取りは無理矢理にでもはかばかしさを取り戻そうものです。

 進むにつれ道は次第に低く下っていき、ついには谷に突き当りました。小高い程度の山だと思っていたものはもっともっと先で、小さな山だと捉えていましたが巨大な山脈の一角に過ぎないことがわかりました。頭をうっすら白く染めあげた山々は厳かなバリケードのように左右に長く立ちふさがり、ラスがどこへ行くことをも拒んでいるようにすらみえました。そうでなくとも頂上に雪が積もっているような巨大な山を越えられる気など到底起きえません。ラスは仕様なしに進行方向を山に沿って迂回(うかい)する形に変えました。山の(ふもと)であればどこかに町があるはずです、町へ町へと経由していき、この山脈をぐるり迂回したならば彼方まで広がる海が広がっているに違いありません!

 実はこの時、ラスは南南西に進んでいるのでした。そしてつき当った山脈を迂回しようと右に進行方向を変えたことで、希望とは真反対に当たる西へと進路を変更したのです。道を歩きながら遠目には見渡す限りの森が陸続きになっており、くすんだ枯葉をわずかに()らす針葉樹はその(こずえ)を雪で覆い尽くされており、不穏を連想させる燭台(しよくだい)のようで、有無を言わさずに残酷な現実を嫌らしく心に練り込んできました。それらが進行方向の左右に、果てしなく並行して無数に立ち並ぶ圧倒的な景観は、さながら刃物の壁であり、隙間からは凍てつく風を吹き出していました。このまま進んでいったなら、じわりじわりと両間隔が狭まっていき、いつか森に飲み込まれるのではないだろうか、そんな想像が頭をよぎって寒気がしました。

 凍りついて固かった地面は次第にぬかるみを帯びてきて、一歩一歩が泥で張りつくようにべちゃり嫌な音をたてました。一歩が重く、体力はみるみる間に奪われていきます。歯を食いしばって足を引きずるようにしなくては、とても前に進めませんでした。弱り切った足にはさっぱり力が入らすに、二度三度転んで体中は泥だらけになりました。汚れて濡れた体は寒さにあまりに無防備で、必死に体を動かして汗をかいているにもかかわらず次第に感覚が鈍っていきました。

「……危ないの、……危ないの」

 風が強味を増してきたので毛布を外套(がいとう)代わりに体に巻きましたが、その間隙(かんげき)を縫うように鋭く冷たい刃が入り込んできました。何かとてつもなく大きな恐怖に追われているように錯覚し、必死に前に進もうとしますが足の動きは(はかど)らす、まったく逃げ切れる予感がしません。そびえる山脈は、一向にその景観を変えようとせずにどしりと鎮座を続けました。必死に動こうとも、無意味さをまざまざと思い知らされるばかりです。

 ちらりと視界の端に白いものが映り、雪が降りだしていることに気付きました。慌てて駆けだそうとしましたが、足に力が入らずにそのまま膝をついてがくりと座り込んでしまいました。そしてしばらく呆然と(うわ)(そら)のような体で、自然という抽象的で茫漠(ぼうばく)なる恐怖に圧倒されていました。

 ラスは気付いてしまったのです、このままでは自分はのたれ死んでしまうだろうことに。町の隣には町がある、一日でも歩けばどこか立派な場所に辿り着くと何とはなしに考えていましたが、今こうして現実に向かってみれば、大陸のだだっ広い山と高原のなかで、たった一人小さくわずかな存在となって立ち往生しているのです。そんな悠久(ゆうきゆう)なる現実にいざ直面したなら、それはまさにラスが愛というものに感じた、あの一切の抵抗を許さない諦念(ていねん)でした。

 最後の一つのパンを口に含みました。本当であれば次の日までとっておこうと計画していましたが、そんな事態ではないと気付いたのです。すでに手の平はかさかさに乾き果てて感覚などなく、視覚で認知しているにもかかわらず真実にパンを手にしているのかがわからなくなりました。誰か他人の手と言われたならば鵜呑(うの)みにしてしまったことでしょう。

 ぽつぽつと、静かに確実に降り出した雪は一体私をどこに連れていくのだろう、そんなことを考えていました。ここで死んだならば雪がその姿を隠してくれるのでしょう、それはいいことか悪いことか見当もつきません。そもそも死んだ身にとってはどうでもよいことなのでしょうが、そんなことばかりを考えてラスは足を進めました。

 地面が次第に凍りつき、靴底に張り付きました。分厚い雲に隠れていた太陽が、更にその輝きを山脈に遮られようとしていました。夕刻特有の急激な寒気がしました。雪足は次第に増すばかりです。風が強く吹き始め、雪を吹雪へと変貌させようとしています。

「どこか、どこか雪をしのげる所は……」

 咄嗟に周囲を見回しましたが、すでに辺りは暗みを帯びており、左右にびっしり連なっていた木々すら満足に目視できません。慌てて地面を見ましたがいつの間にか雪が厚く積もっており、振り返っても土で濁った雪が足跡に合わせて掘り返されているのが見えるだけで、道の上に立っているのか確認できませんでした。思えばいつから道を意識せずに、百鬼夜行(ひやつきやこう)さながらただまっすぐを意識して歩いていたのでしょうか。おそらく道は外れてしまったことでしょう、だったらここで動くのは得策ではありませんが、こんな何もない場所で極寒の吹雪をどうやって耐えしのぐというのでしょうか!

 あまりの冷たさに、息が口内で凍り張り付きました。四方八方どこを眺めても景色など存在せず、白と黒の混濁する深淵(しんえん)ばかりが底なしに広がり、吹雪が獣のようなうねり声をあげて耳元にまとわりつきました。まぶたに雪が積もり、凍りついて視界を遮ります。耳に雪が入り込みましたが、指を入れたなら奥へ押し込む結果になってしまいました。外音が遮断され始め、両耳を塞いで発声したときのように自分の声が後頭部から聞こえて頭中に反響しました。

 吐く息の白さすら、降りしきる雪にかき消され、すでに手の平は凍りついたように半開きの状態から動かせず、唇は感覚もなくプルプルと震え、歯ぎしりを繰り返しました。

「水……温かい、お水が欲しい」

 ラスは上を向いて口を開きました。冷たい雪が口の中に張り付き、飲み込んだなら喉からすぅっと体内が冷え込んでいくのが感じられました。涙が出ましたが、それすらも頬に張り付く雪に吸収されてしまいます。雪の白さも今ではまったく確認できず、ただ暗闇に幾多もの飛散物が狂ったように舞い荒れているのが捉えられるだけでした。体中はあかぎれから血が伝っており、足は拳を握ったように大きくはれて一歩ごとに杭を打たれでもしたかの痛みがはしりました。

 もうラスには動く気力はありませんでした。動くにしても四方のわからぬ今、どこに向かって移動するというのでしょうか、きた道すらわからないというのに!

 雪山で遭難すると眠たくなるといいますが、それはこの観念こそが錯覚させる心境なのでしょう。雪の帽子が覆いかぶさった頭は、頭皮が後頭部辺りから全力で引っ張られているように不自然に引きつって固まっており、表情を司る筋肉がピクリとも動かせる気がしませんでした。体は爪の先まで至るところ満身創痍(まんしんそうい)であり、関節の組み方が感じられるほどの激しいひしめきを伴う疲労感と、どこへ行こうとも変わらぬ闇の世界で無意味にさまようだけとなるのっぴきらない徒労感を伴いながらにして、ややもすればたちまち感覚そのものを感じなくなってしまい、肉体をもたず精神だけの暗闇に放り出されてしまうのです。黒い雪の壁に埋まっているのだと、息もつけない今はそれを認めるしかありませんでした。いやに弾力ある壁は体全体を呑みこんでおり、一歩前に進もうと足を出したところで当座にてその行為をしたにすぎず、実際は一歩たりとも居場所が変わっていないのです。これこそが自然の強さであり、その前では人とはどれだけ無為な存在なのでしょうか。迫りくる鈍麻(どんま)は眠気などという生易しいものではなく、夢魔(ナイトメア)たる怪物が真後ろで大口を開けて今か今かと待ち構えているのです。かといって途切れそうになる意識を皮一枚でつなぎとめたところで感じられるのは疲労に徒労、そして冷たさがもたらす刺すような痛みだけです。いずれにしても待ち受けているのは針のむしろであり、なんという責め苦、悪夢でしょうか。辛さに向かって必死に忍んで逃げるとは、どれだけ決意がくじけそうになることでしょうか!

 ラスは目を(つむ)り、教会を飛び出してからの出来事を懐古しだしました。

 教会を飛び出して、村一番のお金持ちのファウルさんに雇い入れを断られました。あの時のファウルさんの動揺と、戸惑い。その夜は寂しくて寒かったですが、今はその比ではありません。汽車では音楽家や大道芸人に会って、皆で歌いました。これから幸運よりも不幸が多いとわかっている人たちが、一緒になって楽しく唄を歌ったのです。町に着いてからは立て続けに働くことを拒まれ続け、どうしようもなくさまよっていたところに手を差し伸べてくれたのが、シャルテムその人でした。それからスラム合唱団を作り、クリスに再会し、パン屋で働くこととなって、少しではありましたが学校にも足を踏み入れました。孤児院では、やはりここの人たちも歌っていました。そしてトマスに恋をして、追い出されて、家庭を与えられて……拒否をして、今こうしてのたれているのです。

 一体何を求めて、いや、愛を求めてきたこの旅は、一体何の意味があるのだろうか!

「……サディ!」

 人を愛し続ける自信がないなど体良く取り繕った言い訳に過ぎず、ただ臆病風に吹かれていただけで、すでに幾つも間違いのない愛をもっていたじゃないか!

 ラスは恐れていたのです、ずっと、ずっと自分は幸せになる権利はないだとか、いつか幸せは終わるだとか。不幸なことやひた向きにいる状態こそが自分に相応しく、安心していられる環境だと信じていたのです。幸せはこないのだと認めたくないがために、不幸を好んで選りすぐって生きてきたのです。どんなときでも不幸を不幸と思わない平気な素振りで、前向きな顔をしながら、自分を(あざむ)いて大変な道ばかりを選択してきたのです。

 不幸を求めて歩き続けた終着駅こそが、ここなのです。

「シャムお母様、クリスお父様……」

 幸せなど続かないのです、いつかサディと離れたように母とも父とも別れるのでしょう、遅かれ早かれそうなるならば、いっそその身を引いて、不幸の渦中へと自分をつき落そう。でも、

「やだ、やだ……私は、幸せになりたい……家庭が欲しい!」

 彼女がああもトマスへの愛に悩まされた最大の要因こそは、成功を、幸せな自分を描いてしまうことだったのです。矛盾とジレンマ、現実と建前の狭間(はざま)で、自分を見失っていたのです。今ならば心から本当の願いが言えます、幸せになりたいと、愛し愛されたいのだと!

 ラスは震える唇をゆっくり開いて、お腹の中から精一杯声を出しました。今まで出会ったすべての人たちへ、感謝を捧げる術は、これだけしかなかったのです。


  アア 愛とはかくうるわしき

  かの者を想わば 心は四季おりおりの 花に彩らるる

  いつかあの人も同じように 心にきれいな花を咲かせるだろう

  阡の春を越えて きみに歌おう 愛を謳おう

  アア 愛とはかくまばゆかしき

  かの者を想わば 心は四季とりどりの 月に照らさるる

  いつかあの人も同じように 心を眩き月がさやかせるだろう

  阡の時を越えて きみと歌おう 愛を謳おう

  アア 愛とは 愛とはかくこうごうしき


 もう歌うことができないと思っていた愛の唄を、これまでにないほど麗しく、のびやかに歌いあげました。その声は吹雪のなかでも少しも阻害されず、八方にあらゆる幸せの気持ちを込めて広がっていきました。何百回と歌ったものでしたが、このときほどたくさんの想いが込められたことはかつてありませんでした。

 ラスは満足げに膝を着き、その場に座り込みました。愛を探す旅とは言ったもので、まさに今、目標をなし遂げたのです。

 満悦だと頬を緩めながら、その場にうずくまりました。もう、これ以上苦しむ必要などないのです。

 そしてラスは雪に埋もれながら、細々った神経の片隅で、それでも確かに、確かに聞いたのです……馬のいななく声を!

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