十七 家族
十七 家族
次の日、シャルテムは改めてクリスの家を訪れて、開口一番こう言いました。
「私はもう、これ以上あの子を置いておけないよ」
「どうしたんですか、いきなり」
お茶を用意しながらも、そんな言葉が出てくるとは意外でならないとクリスはすぐにシャルテムの向かいに座って聞く体勢に入りました。少なくともシャルテム自身ラスのことを愛しており、誰よりも彼女を理解していることは疑いようもありませんでしたから、どうしてそんなことを言うのか皆目見当がつかなかったのです。
「私は怖いんだよ、私の中の悪いものが洗われていくのが」
「悪いもの、とは何を指すのかわかりかねますが、洗い出すに越したことはないですよ。シャムさん、あなたとラスとはまるで本当の親子のようだと僕は思って止まないんですがね」
「ああ、そんなこと言うのは止めてくれ!」
なるほど、相当参っていそうだとクリスは感じました。いつでも冷静さと厳かさを忘れなかったシャルテムが、こうも弱音を吐いて自棄っぱちになるのは相当だと理解できようものです。やつれた体にラスの帰還というショックはさぞや大きな負荷だったことでしょう。
ラスの存在は非常に健気でいたいけなものでありました。だからこそ今までスラムにて無慈悲に冷徹に生きざるを得なかったシャルテムは、人生と母性の反駁に苦しんでいるのではないかと、おぼろげにもみえてきました。
「シャムさん、実は僕はあなたに一つ、言いたいことがあったのです。この不幸をきっかけとすることは不本意でなりませんが、昨晩にようよう決心しました」
「なにさ、説教だったらお断りだよ。互いにそんな歳でもないんだから」
「いいえ。もし良ければ、ラスとあなたがこの家に来ないかと、そう提案したいのです」
シャルテムは一瞬何を言われたのだと目を見開いて、次に真剣なクリスの表情に気付くとばつが悪そうに目を背けながら、それでも強がって振舞ってみせました。
「下手な同情ならいらないよ、色々と施しを受けている身だけれども、そこまで落ちぶれてなんていないさ。あんたからも同情してみられるなんて、正直なところ耐えかねるから、口を閉ざしていてもらいたかったよ」
「僕の言い方が悪かったなら言い直しましょう、シャムさん、結婚しましょう。そしてラスを養子として貰い受けるのです」
クリスはここしばらくは、ずっとそんな気持ちを自分の中でもてあましていたのです。シャルテムという人間が、ラスにかかわった途端に現れるその優しさと厳しさの合間にみせる母性ともいえよう親らしい愛情に、強く惹かれていたのです。シャルテムはスラムの人間です、仕事内容だって知らないわけではありません。それでも次第に痩せて思い遣りをみせることで洗練されていく彼女は何にも増して美しかったですし、ずけとしたもの言いは知らず知らずの間に及び腰がちだったクリスも対等に言い合えるほどに自分を隠さなくて済む、最高の話し相手となりえていたのです。
シャルテムはおでこに手を当てて大きくため息をつきながら、紅潮する顔を隠しました。
「あんた、もの好きにも限度があるよ、たいがいにした方がいいさ。よりにもよって私みたいな旬を過ぎた婆あに目をかけるだなんて、どうかしているよ。それに今はあの子の話だ、すり替えないでおくれ」
「すり替えてなんていませんよ、あなたとあの子と、家族になりたいんです」
「バカバカしいね」
話にならないと言いたげに席を立ったシャルテムでしたが、そんな行動では決意に満ち満ちたクリスは少しもひるみませんでした。
「どうしてあなたはそんなにも自分が悪くありたいんですか? あの子が怖いだなんて、思い遣りをもったあなたは、とても魅力的ですのに」
「歯が浮くね、くだらないお世辞だよ。あんたそんな立派な言葉で何人の女を引っ掛けたんだい?」
「ゼロ人ですよ」
真面目腐って返答されるからやっていられない、あきれた様子でシャルテムは再び椅子につき直しました。
「いいかいあんた、スラムにいる人間なんて大したもんじゃない、それは私が身をもって知っているさ。あんたは一面的な場面しかみていないからそうやって言えるんだ、きれいだとか、美しいだとかありきたりな言葉で誤魔化しているんだ。素晴らしい風景を描写した絵画を見て一時的に陶酔しているにすぎないんだよ、たとえばその裏には戦争や殺人への皮肉が込められていたとしても、それに気付いていないんだ。ましてやその絵画自体がよくよく見れば大したものじゃないとくれば本当、同情の入る余地すらないよ。いいかいあんた、私があの子が怖いだなんて言うけれどね、私に子供がいないなんて誰が言ったよ」
ずばり言いきってやったが、やはりクリスは一歩もひるまずに真剣な目線だけを注いでいました。そして一度ゆっくりと頷いてみせると、「確かにそれは聞いていませんでしたね。ただ、聞いても僕の決心は何一つ変わりはしませんから結構です」
「遠慮しなさんな、聞きなさいよ。私は覚えているさ、一度だって忘れたことはないんだから、その四人の子供については」
さすがにそれだけの人数は意外だったのか、クリスは一瞬目を丸くしましたが、次には何かに気付いてバツが悪そうに目線を逸らせました。真剣な表情が苦痛にゆがみ、目の前のシャルテムを直視できなくなったのです。
シャルテムはこれみよがしに食いつこうとしましたが、次にはなんと惨めなんだろうと自分を憐れみ、目の前の男がどれだけ自分のことをおもんぱかって目線を外したのかと考えたなら、とても牙をつき立てることは叶わずに、想像を絶するほどに弱々しい声が口から漏れたのでした。
「そうだよ……全員流れたんだよ、流した子供だよ……」
だからこそシャルテムは自分には子供をもつ資格などないと思っているのでした。いまさら彼女の職を取り立てることはせずとも、何人もの子供を身ごもり流していったことは少し考えればわかりそうなものでした。そして母体を痛めつけた末、今となっては彼女は子供を授かることすらできぬ体になってしまっていたのです。
「卵巣を痛めすぎてね、当然の報いだよ。きっと神様が私に諭したんだろうね、もう人を殺すなと、私は子供をもつに値しないと。ろくな人生を歩んじゃないのさ、今こうしてあんたの家に招かれていることすら奇跡なんだ。私はあの子のように芯からきれいな人間とは違う、その辺りをしっかり弁えているんだよ。でも……なんだろうね、例え同情からきたものであったとしても、あんたの気持ちは本当に嬉しかった。それだけは勘違いしないでおくれ。それじゃあ」
「待ってください。それで、それならラスをどうするんですか」
そこを突かれてしまうと何も言い返せず、強がりもできやしません。話はめぐって頭に戻ってしまうのです。
「ラスのことは、あんたには心配は無用だよ」
「あなたは今日何の相談に来たのかもう忘れてしまったようだ」
ようやくクリスは自分のペースをみつけると、ゆっくりと立ちあがって放ったらかしにしていた飲み物の準備を再開しました。
「あと、僕の心を同情だとか、勝手に解釈するのも正直なところ腹が立ちました。あなたは何も解決せず、そうやって人の考えを決めつけて逃げるんだ。少々失望もした、と付け加えておきます」
クリスは判然と言いきり、飲み物を持って振り向きましたが、その場にシャルテムの姿はありませんでした。
シャルテムは帰るなり、日がな眠りこけているラスを起こし、向き合いました。
「ラス、あんたは一体いつまでそうやって悲しみにふけっているんだい」
「……どうぞ伯母さま、そう言わないでください」
「伯母さんだからこそ言うんだよ、私には甘やかせる趣味はなくてね」
強く言いましたが、ラスには一向にこたえる見込みがありませんでした。
「この際あんたにも聞いておきたいことがあってね。私たちは今こうしてクリスさんのお世話になりっぱなしなことはわかっているだろう。今後とも扶養してもらえればいいだろうけれど、私自身そんなことを頼りにしたくなければ、助け続けてもらえるとも限らない。……ああ、落ち込みなさんな、何もあんたが迷惑だと言いたいんじゃないんだから。もしクリスさんがね、あんたを引き取りたいと申し出たなら、あんたはどうするか、それを聞きたいんだよ。私なんかのところで黴たパンばかりより、よっぽど満ち足りた生活ができることは間違いないんだよ」
「どうするって……そんな、伯母さまと別れるなんて考えられません。絶対に嫌です」
「何を言うんだい、恵まれた生活をみすみす逃す手ったらありゃしないだろう」
「恵まれた生活なんて要りません、私はそれより何より伯母さまと一緒がいいのです、逆に伯母さまと一緒ならばどこへでも行きます」
「そうかい、それじゃ仕度しな」
「……はい?」
ラスは固まり切っていました。彼女を放っておいて、シャルテムはほとんどない持ち物を整理しだしました。まばたきすら忘れて首を傾げるだけのラスなど知らんぷりです。
「そうだね、あんたは特に持ち物がないんだったね。それじゃ、行こうか」
一切の事態が飲み込めぬといった様子で口をぽかんと空け、毛布を右手に掴んだままのラスの手を引いてやって来たシャルテムを見て、クリスは驚きを隠せませんでした。告白やらやり取りやら、次々にしてやられたシャルテムにとっては、こうした突然の行動だけが些細な反抗だったのです。
「私だけじゃあ無理だけれど、あんたとなら少しくらいこの子をしつけられるかもしれないからね」
「ずいぶんな返事の仕方ですね、これは先が思いやられますよ……まったく素直に喜べなくて困ります」
言うことにかいて、ラスを理由に婚約を受け入れられるとは想像だにしておらず、まったくの破天荒さにクリスは喜ぶことも忘れて苦笑しか出ませんでした。
他方ラスはまったく事情が飲み込めず、唖然と立ちすくむばかりでした。一体自分の受け答えのなかで何がどう作用すればこのような現実が舞い込んでくるのだろうかと考えましたが、どれだけ頭をひねろうとも答えは出ませんでした。
「さあ、ラス。正真正銘ここがあんたの家庭だよ、ずっとあんたが夢みていた家族さ。次に私のことを伯母さまだなんて呼んだなら閉め出すからね」
まだ目の前の出来事が信じられずにいるラスに、クリスはゆっくりと近付き、その頬に触れました。
「先が思いやられると思わないかい、ラス。シャムお母様には頭があがらないよ」
「……しゃむ、おかあさま?」
ようやくラスはその一部始終が飲み込め、顔つきを笑顔にしながらまぶたに涙をにじませました。
これが家庭なんだ、私の家族なんだ! 厳しいお母様と優しいお父様のいる、私だけの家族なんだ!
ふんっと鼻息を荒くしながらシャルテムは台所に行き、戸棚から幾つか調理具を取り出しました。「料理なんて何年ぶりだろうか」とぼやきながら、その場の食材を吟味して、何を作ろうかと頭を悩ませるのです。
「ラス、あんたはさっさと体を洗ってきなさい。こんないい日にそんななりでどうするの!」
「はい!」
返事を返すとそのままお風呂へ入り、出てきてからはクリス父からその日の一部始終を話され、シャルテム母の作った食事を机を囲いながら食べました。それはもう暖かく、本物の家族と相違ないものであり、ラスはこれが家族なんだとそのありがたみを噛みしめました。
「私、幸せです」
「そうかい。毎日それだけ感動してもらえたなら世話ないんだがね」
「でも……やっぱり私はここにいられません」
ラスの突拍子もない発言に、食事をしている金属の音はぴたりと止みました。彼女は二人に向かってねんごろに頭を下げて、できうる限りの感謝を表しました。
「どういうことだい、僕たちと一緒は何か不満かい?」
「そうだよラス、あんたは何か選べられる立場でもないだろう。何を言うかと思ったら……私と一緒じゃなきゃ嫌だの次には、一緒にいられないなんて言い出すんだから」
「私は、孤児です」
疑問を繰り出す二人への返答は、まったく不可解なものでした。
「私には愛というものがわからないのです、それは家族に向けるものだって、もうわからないんです。お二人のことが好きで好きでたまりませんの、ですが……怖いんです、いつかまた、感謝もできず人を愛せなくなる日がくることが。もう私は十二分に幸せをいただきました、本当に満足なんです、だから、だからありがとうございます。私は二人を本当に愛し通せる自信がないのです」
「何をばかなことを言うんだい、じゃあこれから旅にでも出ようっていうのかい?」
「それが私の本来の姿なんだと思うんです、もとより教会を抜け出した身ですから。そうです、愛を探す旅だなんて、しゃれこんでみますの」
笑ってみせたラスでしたが、その胸中の様々な傷は二人には十分にみえていました。どうしてこうも明るい笑顔をしながらこんな言葉が出てくるのかが不思議でたまりませんでしたが、だからこそ入り込む余地がありませんでした。彼女は恐れているのです、人を好きになることを。だから今もこうしてこの場にいることが怖いのです。
「私は世界中の街を料理しながら回って、いつかあらゆる料理を覚えるんですの。知っていますか、シャルロットだとか、ヌガーなんかはフランス語らしいですのよ、フランスにはそんな素晴らしいお菓子の起源がたくさんあるそうですし、フランス料理だって覚えたいです。また、東洋にも珍しい、私たちとはまったく異文化に当たる料理があるって聞きましたの。だから……だから、きっと……」
まぶたにこみあげてくるものがあり、歯を喰いしばって息を止めたならば、それ以上は言葉になりませんでした。親切が、優しさがこうも彼女を傷つけるなんて、怖がらせるなんて。
シャルテムは今すぐ彼女を抱き締めたくてたまりませんでした、抱き寄せて大丈夫だと声をかけたくてたまりませんでした。しかしそれら優しさが彼女を怖がらせるなんて、なんて可哀そうな子だろう!
ラスは昼過ぎで陽の眩しい外を眺めながら立ちあがると、続いて二人に向かい、笑顔を作りました。
「シャ……っ!」
すると涙が一気にかけあがってきました。嗚咽が混じり、言葉が言えそうにもありません。それでも言わないといけないのです。
ラスは顔中をくしゃくしゃにして、それでも最後まで口元だけは断固として笑顔を作って言いました。
「シャムお母様、クリスお父様……どうも、ありがとうございます。不肖娘は、旅に出ます。どうぞ、お止めにならないでください」
「ばか娘」
シャルテムはとうとうこらえきれなくなり、おぼつかない足取りでラスに近づいて強く抱きしめました。もう我慢ができませんでした、こんなに大切に思う気持ちがあるのに、こんなに愛しているのに! 愛がどんなものかなんて誰が知るものか、それでもラスを想うこの気持ちが愛でなければ何を愛というのか!
「私たちはいつでもあなたを愛しています、ラス。だからいつでも戻っていらっしゃい、あなたはどこへ行っても私たちの娘なんだから、それだけは忘れないでちょうだい」
「ええ、ええ、忘れるものですか。私にも愛するべき家族がいたことを、一生忘れやしません、シャムお母様……」
ラスは母から熱い接吻を受け、気持ちが冷めぬ前にと家を出ていきました。家庭を離れ、あてどない道へと歩み出していったのです。
それを見送った後、シャルテムはゆっくりと言うのでした。
「愛に疑心暗鬼になるだなんて、まったくどうしてあの子はたくさんの愛を振り撒いていることに気が付かなかったのだろうかね。私もスラムも変わった、あの子から愛を貰い、こうして幸福になったというのに……あの子を本当に止められなかったのかしらね、明日にはすごく後悔していそうで怖いのさ。ねえあなた、私はあの子と違うだなんて言ったけれども、引き留められず見送るしかなかった今のこの気持ちは……愛が叶わなかった、愛が相手に届かなかった辛さに違いないよ。あの子はこんなものに耐えているんだと思うと、なんて、なんてすごい子なのでしょう! 私はとても耐えられそうもない、あの子を離したくなんてなかった!」
クリスはシャルテムを優しく抱きよせ、そっと額に接吻をしてやるのでした。




