十六 お母様
十六 お母様
新年が空け、クリスにとっての一番目の客人はシャルテムでした。最近では互いに頻繁に行き来をするようになっていました。ラスが出て行って以来シャルテムは元気がなく、夜の商売もしていない様子で日に日にやせ細っていくものですから、とてもクリスは看過できなかったのです。シャルテムはやせてからも気骨だけはしっかりとしたままであり、それは彼女を一層きれいにひき立てました。青白い頬をしながらも無粋に落ち着きはらっており、慎ましやかな素振りはまるでどこかの王宮の貴婦人そのものです。
しかしながら新年早々の貴婦人は、大きなため息を一緒に連れてきたのでした。
「大方こんなことになるとわかっていましたよ、いましたとも、そうでなければあの子が相談しに来た時点ですべてを包み隠さず話ししましたよ。ねえクリスさん、もう私はどうすればいいのかわかりません。一体私のような乞食がどうしてあの子に救いの手を差し伸べられましょうかね」
店から追い出されたラスはシャルテムのもとを訪れるなり、毛布にくるまって顔を見せぬように肩を震わせるのでした。シャルテムは何があったのかは聞かすにずっと背中を撫でてやり、半時間もしたならラスは疲れたのかゆっくりと寝息を立てて眠り込みました。そこで慌ててクリスの家へと駆けこんだのです。
「スラムじゃとても相談出来っこないわ、あの子ったらちょっとしたアイドルみたいなもので、皆から『スラムの妖精』だなんて呼ばれてちやほやされているんですから。もしひどい目にあって追い出されたと知ったなら、あの人たちは店に火をつけかねません。ええ、だからこそクリスさんしか相談できる人はいないのです」
実際、一週間ほど後にパン屋の店主はスラムに足を踏み入れることになるのですが、すぐにも逃げるように去っていくはめになるのです。そもそもにして、ラスの仕事量は生半可なものではなかったのですから、圧倒的な忙しさにトマスだけでは到底代わりは務まりませんでした。彼女は毎晩皆が寝静まってから一人懸命に掃除を繰り返していただけでなく、スラムに作り損ねのパンを持っていったことは立派な慈善事業だと、水面下で店の株を大きくあげていましたし、孤児院の帰り道ではいつも高原に立ち寄って野花を摘んで帰り、潤いをはらんだ草花を常にカウンターにいけていました。ときには自分のおこずかいから花屋で珍しい花を買って帰ることもありましたし、料理に熱心な彼女が絶え間なくかもし出していたパンや菓子の焼ける匂いは道行く人たちを立ち止まらせるのに絶好の寄せ餌であったのです。毎日来てくれる常連にも喜ばれるようにと試行錯誤を重ねてなるだけ目新しい商品を置けるようにしていましたし、愛想にもあふれていた彼女のこれら様々な功績はとても他人では賄うこと叶わないほどであり、彼女がいなくなってからというもの日に日に汚れて廃れていく店内に辟易し、常連客もあっという間に遠退いてしまったのです。もとよりラスがいることで回っていたお店は彼女がいなくなってはとても切り盛りできる状況ではなく、遊べない憤懣の溜まるトマスと店主の言い争いは毎日となり、お菓子や笑顔の消えたお店に魅力などなくなって、店主はとうとう彼女の功労に気付いたのでした。男手二人のお店ではとてもとても、お客を満足たらしめるだけの気配りは叶わないのでした。
さて、大切なラスが涙に暮れて戻ってきたために、シャルテムが相当参っていることはクリスにも重々理解できました。悲しい思いをしながらも本人のためだと見送った少女が、悲しみに塗れて戻ってくる、その辛さをどれだけわかりましょうか。
しかしクリスにもこれといった妙案などなく、ラスにどう声をかけてよいものかもわからないのでした。
二人が揃ってスラムに戻ったとき、ラスはすでに起きていましたが、毛布にくるまったまま腫れぼったい目でテントの天井を眺めているのでした。
「やあラス、久しぶり」
「クリスさん、ごめんなさい……」
笑顔で話しかけたクリスに、ラスは表情一つ変えず、上を見据えたままで応じました。
「せっかくクリスさんにもらった写真、私の宝物だったのに……きれいな服も、たくさん貰ったのに……。私ね、自分のものなんて何一つなかったの、この薄汚い服だけで、後は全部クリスさんに貰ったものだった……ごめんなさい、せっかくくれたのに、私なんかにくれたばっかりに、ごめんなさい」
ラスは言ってごろり転がると、二人に背を向けました。
「町の一員になっていた気でいたけれど、クリスさんの力がなければ私はやっぱり孤児で、汚くて……ごめんなさい」
「そんなことは気にしなくてもいいさ、それよりもラス、僕に唄を歌ってくれないだろうか」
「ごめんなさい、でも私は……もう歌えないんです。愛の唄なんて、もうとても歌うことはできませんの」
結局それ以上ものを言うことなく、クリスは食べるものだけを差し入れて帰っていきました。
シャルテムはラスを無理矢理起こして一緒に夕食をとりましたが、意気消沈しきっているラスはとても弱々しいものでした。時折テントからちらりと顔を出しては真暗となった空を眺めて、意味ありげに溜息をつくばかりでした。
その夜は、初めてシャルテムがラスの隣に寝転びました。ラスにはその行為がどれだけありがたく嬉しかったでしょうか、しかしながらこうも打ちひしがれている状況ですから引くに引けぬといった様子で背中を向けてみせましたが、シャルテムは背中からラスを抱きしめるのでした。
「大変だったね、すごく大変だったろう……」
私なんかに優しい言葉をかけてくれる人がいるんだ!
ラスはたった一言にしてたちまちまぶたから涙をしたたらせ、くるり振り向いたならシャルテムの懐に抱きつきました。ラスはずっと、シャルテムの前でだけは涙を見せまいとしていましたし、シャルテムにとっても仕事場が決まってスラムを出ていく時以来の、そしてラスがみせる初めての辛い涙なのでした。
ラスは以前にシャルテムのようになりたいと言っていましたが、それはお世辞でもおべっかでもなく真実だったのです。だからシャルテムの前では泣かないようにしていました、弱音を吐かないようにしていました、それらが彼女の見たシャルテムであり、理想の姿だったのです。それらの想いが今氾濫したのです。
「おばさま、おばさま、シャムおばさま……」
なんて優しい人なのだろう、なんて温かい人なのだろう。この人には絶対に敵わないと思いながら、いつも崇拝していたのです。
シャルテムはただ黙って頭を撫で続けました。この小さな子のどこにどれだけの苦労が詰まっているのだろう、考えたなら愛おしくて仕方なかったのです。
「シャムおばさま、どうぞ、どうぞ聞いてくださいまし。私は、私のことを……」
「ええ、何でも聞いてやるよ、何でも言いな」
「私は、私のお母様は病弱で、私を産んですぐに亡くなりました。お父様は二歳の私を教会に預けて、戦争へ志願していきました。消息は掴めなくなりましたし、これが劇か何かであればいつかきっと再会できるのかもしれませんが、そんな夢のような話ありはしないとわかっていますから、もう死んでいるのだと私は諦めています。なので両親の顔は白黒で静止している写真しか知りませんし、それも何年か前に擦り切れて見えなくなってしまいました。今ではもう記憶ばかりのおぼろげな姿しかありませんの。でも私はずっと、親がいないからこそ誇れるように生きていこうと思いました。誰もに感謝を忘れないように、神父様伝いに両親がそんな子供に育つことを願っていたと聞いていましたから、私は誰もに感謝をもつように努めました、神父様への感謝を形にしようと、五つの頃からずっと家事手伝いもしてきました」
ラスは自分の過去について他人に話すことはしないと、もの心ついたころからずっと決心していました。弱音を吐くことは妥協であり、間接的にも自分をダメにすると信じて疑いませんでしたし、自分のような孤児の過去ほどつまらないものはないだろうと自覚していたのです。下手な同情や酒の肴にされるくらいであれば胸中に秘めることで自分を奮い立たせるべきだと思っていたのです。実際、孤児のなかにはもっと惨憺たる過去をもった子たちがあふれかえっており、ラスのような過去はまだましな方で、悲しみに暮れる教会の子供たちに対しては毒にも薬にもなりません。むしろ恵まれていた自分こそが、より深い悲しみをもった子供たちの世話をしなくてはいけないと使命感を覚えるほどでした。
ただラスは、母親を知らない自分が他の子供たちの母親代わりとなっている事実に虚無感を覚えることがままありました。本当の母親とはどんなものだろう、本当の母親はどうやって子供たちを愛し、子供たちから愛されるのだろう……それらはとても想像の及ぶ範囲ではなく、またラス自身がずっと憧れていたものもそれでした。他の人たちを自分のように悲しませたくないと思いながらも、だったら自分にとっての母親とはどこにいるのだろう、どのように愛し愛されるものなのだろうかと考えてしまうのです。
「おばさま、愛って、愛って何なのですか……? 私も辛いことがありますの、泣きたいことだってたくさんありますの……恋しくなることだって、甘えたくなることだって……」
ラスはこの数カ月を通して、教会にいた当時には子供たちのお手本とならねばならぬと泣くことを忘れたかのように常々気丈に振舞っていましたが、いざ一人路頭に放り出されたならば従来の心強さなど嘘のようにぽろぽろと簡単に涙が滴り落ちてくる自分に気付いてしまったのでした。気持ちだけでも大人となって、母親となって子供たちの世話をしているつもりでありながら、その実ずっと縁の下で支えられ続けてきたのは自分であったと実感したのです。一人になった途端に何度人目を忍んで泣いたかしれません、ことあるごとに寂しいと弱音を吐いては教会の子供たちを切望しました。ままごとの母親役を演じていただけで、実際の心はこうも脆弱であったのだと、自分自身にどれだけ激しく嫌悪してみせたことでしょうか。
「シャムおばさま、どうぞ、私に泣くことをお許しください。そして、そして……どうぞ、お母様と呼ばせてください。シャムお母様と呼ぶ失礼を許してください」
シャルテムは今、この娘が与り知らぬところでどれだけの世知辛さに耐え忍び、頬を濡らしたのだろうかと感じ入りました。頭を撫でる手を止め、次にはぐっと強くその体を抱きしめました。この子はこんなに小さかったのだ、この小さな体に一体どれだけの悲哀を溜めこんでいたのだろうか、改めて彼女の幼さを認識すれば一層悲哀が増しました。
「お生憎様、私は母親なんて、ましてやあんたのお母様だなんて立派な役職はごめんこうむるよ。私はあんたが思っているほど立派な人間じゃないし、ラス、あんたはあんたが思っているよりはよっぽど立派な人間なんだよ。私にはとても荷が重い。でもね、私はあんたの伯母さんにだったらなれるんじゃないだろうか。あんたの身内くらいになら、なることを神様だって許してくれるんじゃないかと思うんだよ」
ラスはシャルテムの胸に顔をうずめたまま、くくっと小さく笑い声を洩らしました。そして美しい灰色の目をそっと上目遣いにしてシャルテムを覗くのでした。
「では呼び方は変わらないのですね、シャム伯母さま」




