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スラムの妖精  作者: 等野過去
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十五 告白

   十五 告白


 従来のラスにとって、愛とはおぼろげながらも一つの形をもっており、それは慈悲にあふれて感謝と喜びに満ち満ちとしたものでありました。それら元来抱いていた愛(ベスタール院長の言葉を借りるなら家族愛という愛)の形ですら跡かたもなく粉砕してしまうような、大切に思うだとか、感謝だとか、とるに足らぬことのように心の(ともしび)はすべてを炭と化し、囚われの身であるかのように束縛され(めくら)にされ、今となってはそれまでの楽しみがことごとく価値を失ってしまったのでした。それこそが愛の本性であり本質であるようにしか感じられず、それらまるで正反対のものが、愛という言葉で一絡(ひとから)げにされている事実は彼女を完膚なきまでにのめしたのです。

 しかし彼女が意識すればするだけ、トマスから離れようとすればするだけ、心は猛烈に彼を欲し、愛という言葉が重く彼女の心を締め付けるのでした。

 極めつけは、日に日に空想に屈することが多くなっていったのです。今までであれば、灰かむり姫(シンデレラ)のように身分の異なる人々が愛でつながれるのはあくまで本のなかだけの話だと理解していたにもかかわらず、今では現実に、目の前に起こりそうな気配がして止まないのです。起こりえない奇跡が自分の身に降りかかる気がして、そればかりが常に彼女を魅了しようと誘惑してくるのです。従前(じゆうぜん)その辺りの分別を十二分に弁えて自制していたというのに、それまでの自分が自らをもってして否定され、まるで絡みついた蜘蛛の糸を振りほどこうと必死にあがきながら、その実、体中に強く巻き付いてしまう悪循環となっている自分がいるのです。現実と夢想の狭間であてどなくたゆたいながらもがき苦しむ自分の姿がみえるのです、ただうず潮に飲み込まれるように、理解しようとも想像の魔の手から逃れられず、それでいてその手に素直に引かれてしまうような観念もできないのです。

 自分がもっときれいだったなら、孤児でなかったなら!

 ラスが必死に自分には不釣り合いだ、愛など無用の産物なんだと、どれだけ屈強で確固たる決意を建立(こんりゆう)しようとも、ひとたびトマスの前に立てばいとも容易く瓦解(がかい)せしめられるのです。何度と決意をし何度と屈する内に、何一つと為し得ない決意が情けなく、次第にひ弱ですぐに物事に折れるように移っていきました。

 何もかも手付かずとなることが多くなりました。町に来たばかりのときに抱いた人波を拒む心が再び出現しては疑心暗鬼に拍車をかけて、小間使い以外の外出はしなくなりました。

 次第に一つ、鮮烈に確信へと至ることがありました。やはりラスはトマスを愛しているのです。彼を避けようとすればするだけ次に話したときの喜びが大きいですし、会話の最中は彼の言葉の中からまるで救いのように希望を手繰り寄せていました。話しかけてもらえた、気遣ってもらえた、一つ一つの何でもない言葉や出来事が(かて)となり、想いばかりが膨大に肥沃(ひよく)していくのです。

 どうしてこの強まるばかりの想いを否定しながら毎日を過ごさないといけないのでしょうか、仕事だって全然(はかど)らない、寝るのも起きるのも辛い、食欲だって起きない。当時のラスときたならば非常に打たれ弱くなっており、些細なミスや人の気付かないような瑣末(さまつ)なことですら落ち込む要因となっていたのです。人前でだけはと常々気丈に振舞っていた姿は跡形もありませんでした。

 ラスが悩みあぐねた挙句に出した結論は、想いの丈を告白することでした。冷やかされるでしょう、馬鹿にされるでしょう、それでも構いませんでした。きっと、「ありがとう、でも……」といった具合にお礼を言われながらやんわりと断りを入れられるだろうとは考えていましたが、いっそ清々しく断られた方がこれからの彼女自身にとってもいいと判断したのです。

 きっとその場にシャルテムがいさえすれば、ラスの決心ですらまだなお生温いものであるとたしなめてくれたことでしょうが、あいにく叱咤(しつた)できるだけの人間は近くにおらず、ラスは一人で決心を固めて実行にまで(うつ)してしまったのです。

 年末の夜、店主は寒空のなか、沢山のパンを担いで年明けパーティへ出かけて行きました。外ではクリスマスに間に合わなかった雪たちがたくさん降りしきるなかで、残されたラスは自慢の焼き菓子を作りながら、トマスと二人きりのチャンスがようやく到来したと、失敗が前提であることなど忘れて緊張ともどもしゃっちょこばりながら、二人きりの喜びに浮かれきっていました。色とりどりの菓子を用意しながら、温かいミルクを注いで向かい合わせに座りました。

「どうぞトマス様、夜遅くまで起きていられるなんて今日くらいだから、たんと召しあがってくださいね」

「新年なんて何が特別なもんかって、いつも憎まれ口ばかりだったけどこうなると悪くないもんだね。遠慮なくもらうよ」

 言いながら次々にお菓子を食べるトマスを、ラスは夫婦のようだなんて思いながら至福を感じて眺めているのでした。何年後かも、こうやって二人して陽のあたる欄干(らんかん)に腰かけてお菓子をつまみながら話ができたならどれだけ幸せだろうか。料理ができることは幸せだった、私にも一つばかし取り柄があることは良いことだった、きっとトマス様も受け入れてくれるはずだ。彼が笑顔になっているというだけで、ラスの想像は不思議なほどに悪い考えを寄せ付けませんでした。

「そういえばトマス様、来年の抱負はもうお決まりですの?」

「そうだな……年齢の数だけホームランを打つってのはどうだろうか。なかなか粋な目標じゃないか?」

「まあ、いいですね、ぜひそのうち一本くらい私にも見るチャンスが欲しいです」

「一本といわずに、全部見せてやるよ。父さんには俺から言ってやるから、試合には全部来てもらいたいね」

 話しながらラスは律義(りちぎ)に暖炉に火をくべ、膝かけを渡してやりました。二人で話すときはいつでも時間の流れが早く、いよいよ日付をまたごうとしている時に、ラスは切り出しました。

「トマス様、お休みになられる前に、今日は一つお伝えしたいことがございますの」

「ラスから何かってのは珍しいね。どうしたんだ?」

「すごく、とてもぶしつけなお話ですので、気分を害されるかもしれませんが……どうぞ、深く考えずにありのままをご返答ください」

「俺にそんなにかしこまらなくてもいいっていつも言っているのにさ、そう言われたなら覚悟しないわけにはいかないな。ラスには日ごろから世話になってるし、まあ俺ができることなら何でも協力するよ、言ってみな」

 促されても、なかなか口にすることはできず、しかしラスが真剣な表情で何かを言い出すことは珍しいものだとトマスは無言でただ待ち続けました。沈黙という暖かい空気に触れ、ラスはとうとうその顔をあげて、トマスに語りかける決心をしました。

「ご協力なんて要りません、本当の心もちを聞くことさえできればそれだけで満足なのです。トマス様、どうぞ、どうぞ気持ちを落ち着けて耳を傾けくださいまし」

「おうよ」

「実はその……私、不肖(ふしよう)ラスは……トマス様、あなたのことが好きなのでございます、誰よりも何よりも、愛しておりますの!」

 ラスは言いながらぐっと強く目を瞑って(うつむ)きました。これがどれだけ差し出がましく失礼なことかを承知していましたが、自己矛盾に耐えきれなくなったが故、こうして本音を言うことを詫びるように。どうか悪く扱わないで欲しいと願うように。

 しばらくの無言は先までとは打って変わって、ラスには重苦しいものでした。何も言葉が出てくる気配がないので、意を決して顔をあげた彼女の目に飛び込んできたトマスの顔は、非常に恐れ慄いているものでした。その顔がラスに与えた衝撃をどのように筆致(ひつち)に尽くせましょうか、言葉などなくして、そしていかに自分の存在が彼にとってとるに足らないものであったかをまざまざと知らされたのです。分不相応だとは承知していました、それでも、まるで怪物か何かに襲われでもしたような表情を目の前に突き出されたのであれば、とても耐えきれるものではありませんでした。

 ラスは自分の惨めさを自分自身で存分に知って弁えているつもりでした。しかし現実とはかくも凄惨(せいさん)なものなのでしょうか、トマスにとっての彼女はラス自身が考えるよりもずっと些細であり、粗末であり、毎晩楽しく話をしていたからと同じ舞台にあがっているつもりでいたラスはとんだ間抜けだったのです。トマスにとって彼女は人対人ではない、何がしかの感情を抱くに値すらしえない存在だったのです。

 体が震え、嗚咽(おえつ)が起こり、涙を止め処なく流しながらもラスは撤回を試みました。

「ごめんなさい、ごめんなさいトマス様、違いますの。あの、好きだとか、その……違いますの、勘違いなさっています、私が言いたいことはそうじゃないんですの、……」

 取り成そうと必死にすがりつくラスの様は、一層トマスを恐怖に陥れました。この少女はあろうことにも、そんな目で俺のことを見ていたのか。自分の立場も弁えず、いつもそうやって自分のことを見ていたと思うと、まるで小間使いになり下がったように感じ、同時にいつもこの少女が掃除をしていたこの部屋が、自分の部屋が、いつものこの少女が作っていたパンが、菓子が、すべてが目に見えないおぞましい悪鬼(あつき)を放っているようにすら感じてくるのでした。それはトマスにだって、この少女を可愛らしいと多少なり異性を見る目で眺めたことはありましたが、あくまで彼側からの行為だったから不問の、男としての(さが)に過ぎないのです。

 小間使いから同等に見られるとは、なんと恐ろしいことだろうか!

 トマスは青白い顔をしながら、無言で立ちあがると自分の部屋へと歩いていき、拒絶とばかりにドアを閉め切ってしまいました。

 それはそうだ、こうなることはわかり切っていたのにどうしてこんな暴挙に出たのだろう、ラスはずっと悔やみながら居間で(むせ)び続け、店主が帰ってきたなら逃げる様に部屋へと駆けていったのでした。

 その日の夜はラスにとって今までにないほど寂しく心細いものでした。彼女は自分自身を謙虚にみていました、自身を過剰に大きく認識することはありませんでしたし、また孤児であるということについても己の中でしっかりと消化したつもりでいました。しかしながら現実とはそれ以上に過酷なものだったのです。孤児に自由などありはしないことを、村で育ったラスは知らなかったのです。胸の締め付けは彼女が思っているよりもよほど強く、辛いものでした。断る、断られる、そんな舞台に彼女は立っていなかったのです。ただ舞台に立っていると妄想しながら一人舞いあがっていたにすぎなかったのです。

 ようやく寝ついたのは空も()らむ明け方近くであり、昨晩から切れ切れに振り続ける雪のために突き刺さるような寒い時分でした。

「ラス……ラスッ!」

 店主の怒鳴り声が聞こえ、寝坊してしまったことに気付くとラスは飛び起きましたが、次にはこの冬一番の寒さに思わず身震いしました。次に昨晩のことを思い出し落ち込みかけましたが、ふと鼻先をよぎるけぶりに目を大きく見開きました。いつものパンが焼けるこうばしい香りではなく、もっと別のものが燃える気持ちの悪い不穏な匂いです。

 慌てて物置を出て調理場に下りたラスは、店主が仁王立ちして怒り露わに布を焼ききっているのを見て寒さとは別の体の震えを感じました。いましがた彼が炉に放り込んで焼いているものは、まぎれもなくラスがクリスから貰った服をはじめとする品々だったのです!

 トマスは部屋の隅でばつが悪そうに頭を垂れていましたが、ラスをちらり一瞥したならばすぐにも廊下の奥へと消えていきました。

「なんてガキだ、この恩知らずが! せっかく雇ってやったってのに、こともあろうにウチの息子に手を出そうなんてまったくいじきたない! 嫌な新年になっちまった」

「待って、お待ちください、ごめんなさい。でも……」

「言い訳は聞きたくない! さっさと出て行け! 俺のあげた金でいけしゃあしゃあと色々買いやがって、こんなものこうしてやる!」

「違う、それは私が貰ったものですの」

「お前なんかにこんな服をくれる誰がいるってんだ! 古着を買ったからって下手な言い逃れするんじゃない! さっさとその寝巻も脱げ、誰の金で買ったものだと思っているんだ!」

 ラスはいちどきに到来したあまりの不幸に、もう立っていることすらままなりませんでした。泣き喚くことこそしませんでしたが、延々と涙で頬を濡らしながらその場で新しく買った寝巻を脱ぐと、村から着続けていたぼろく擦り切れたワンピース(唯一店主が焼かずに置いておいたものがこれでした)に袖を通しました。トマスと一緒の時は寝巻のときが多いので、少しでも自分が良く見られはしないだろうかと、奮発(ふんぱつ)して買った黄色く可愛らしいフリルのついた寝巻は、目の前で赤く燃えあがり、すぐに黒ずみになり果てました。

 ラスはとうとう声をあげてその場にうずくまってしまいましたが、店主は襟元(えりもと)を掴んで持ちあげるなりすぐにも店先へ向かって放り投げました。

「ほら、さっさと出て行け!」

「待って、せめて、私の持っていた……プレゼントされた帽子はどこ、ねえ、写真は、写真っ!」

「そんなものお前が持っていたはずがないだろう、もう燃やしちまったよ!」

 ああサディ! この方ずっと心配していた、そして心の支えとなっていたサディ!

 店主はラスは初めは何も持っていなかったと思い込んでおり、一番ぼろい服以外はすべて燃やしてしまったのです。そもそもラスが仕事を探しに来たときは、クリスから貰った良い身なりをしていたはずなのですが、店主にとってはそんなくだらないことは覚えてもいないのでした。

 ラスには何も残っていませんでした、完膚なきまでに絶望に食い散らかされた彼女は、雪のちらつく町へ放り出されたのでした。

 服も、お金も、そして写真も何も残されぬ彼女は一人、途方に暮れました。あまりに酷過ぎる仕打ちに彼女は抗うすべを知りませんでした。雪の上に座り込み、着物もべっとりと濡れたなかでただうずくまって泣くばかりでした。道行く人たちは正月早々に嫌なものを見たと舌打ちをしながら通り過ぎるだけで、ラスは一体世の中に愛というものが存在しうる理由を一切理解できずにいました。

 こんなことなら他人など愛さない方がよっぽどよかった!

 体中が激しく震えだし、むきだしの膝が雪のために赤く()れあがってきました。このままではいけないと立ちあがろうとしましたが、立ちあがると同時にこれからどうすればいいのだろうかと考え、空を仰ぎました。真黒い雲から無数の粉雪が舞い落ちてくるばかりで、しばらく天候が良くなる気配はありません。寝癖がついたままの頭で、手袋もない手は早くもかじかみだしており、涙に濡れきった頬は冬風を一層冷たく受け止めます。

「もし何かあったら、いつでも私のところに戻ってきな。あんただったらいつでも歓迎するし、ここはみすぼらしくともあんたの家なんだから」

 ラスの脳裏に浮かぶのはシャルテムの言葉であり、元より彼女には行くあてなど一つしかありません。せっかく働きだしたというのに、情けない面もちで、ゆっくりと力なく路地裏へと歩いていくのが精いっぱいなのでした。

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