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スラムの妖精  作者: 等野過去
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十三 愛の唄

   十三 愛の唄


 ラスが孤児院の子供たちのために真っ先にしたことといえば、パンを持っていくことでした。現金ながらにもこの行為によって子供たちは見ず知らずのラスのことを、多少は信用したかにみえました。

 しかしいざ一緒に何かしようとすると、思いのほか難航しました。ラスがどれだけ必死に彼らに語り掛けようとも、本人たちが上の空なのでは、とてもそれ以上接近などできやしません。何を言ってもさも自分は関係ないといった(ひよう)(ひよう)とした態度と無表情を貫き、言葉を聞いているのかすら疑わしくなるほどです。

 そこでラスは、それぞれに名前を与えることにしました。孤児院にいる子は、事前に聞いた通り番号で呼ばれており、それぞれが数のついた木の札を首からかけていました。それでは家族の温かみなどほど遠いと感じたラスは、それぞれに番号にちなんだ名前を考えだしたのです。(one)のプレートを掲げた子をイーノ(eno)と、(two)の子をアゥト(owt)と呼びました。(three)の子はリース(reeth)など、ときにはアナグラムを加え、ひねくれた人がみれば番号呼びと何が違うのかと、結局は番号と何ら変わりないなどと皮肉を言うでしょうが、それでも孤児院の間では確かな名前であったのです。

 この効果は思いのほか絶大であり、名前をもってして、初めて人は自我をもつことができるのだと、これほどまで実感したことはありませんでした。人は名前がないと感情までをも失ってしまうものだったのです!

 それからというもの実に楽しい孤児院とのかかわり合いが出来あがりました。掃除をするときは唄を歌いながら、今日はどの唄を歌うのか誰が決めよう、昨日はクシス(xis)(6)だったから、今日はテネット(tennet)(10、tenのみどのように名前にするかで悩んだ挙句、このようにつづりをくっつけることにした)の番だ、といったあんばいです。すると自然に井戸の水くみも競争ような形になり、これはアゥトが一番早くこなしました。料理の腕はラスは一級品でしたから、誰もが羨望(せんぼう)の眼差しでその手際にほれ込みました。こと裁縫に限ってはラスよりも子供たちの方が格段に上手であり、男の子でも彼女よりはうまくやってみせたことから馬鹿にされ、ラスが怒鳴る仕草もみられてはまるで教会のような有様でした。

 ラスの灰色をした大きな目と栗色をした癖毛は洗練された無邪気さをかもし出しており、不思議と人目を惹きつけるものでしたが、彼女の本当の魅力は、周囲を動かずにはいられなくさせる、無意識の生命力を他人へ宿す不思議な力でした。村の教会はもちろん、汽車しかりスラムしかり行く先々の人々は、目を覚ましたように生気を(みなぎ)らせるのでした。水を得た魚のごとく生き生きと満ち足りた人たちを見ているときの彼女ほど、嬉しさにうっとりと酔いしれて、また彼女自身が魅力的に映えるときはありませんでした。

 スラムでおんぼろの楽器を幾つか購入して(働くにつけ、ラスは多少自由にできるおこずかいを与えられていました)、それぞれ得意そうな楽器を配り、休みの日には皆で精いっぱいに演奏をしました。教会を飛び出してからの程ない経験ではありましたが、ラスはその間に音楽の合唱をすることこそが仲間意識を生み、活気あふれさせる一番の方法であると信じて疑っておらず、またここでも音楽の力はいかんなく発揮されたのです。ときには楽器の取り合いをしながら、苦手な子がいれば誰かが一緒に練習をし、風邪をひいた子のために皆が歌い、客人があればおめかしをして合唱を披露するようになりました。寒い冬がいよいよ到来しようとも、子供たちは唄を歌って精いっぱいにその冷気を跳ね飛ばし、生気がひしめきほとばしっていました。いつしかベスタール院長も加わって朝晩の合唱が定例化され、そこには従来のもの憂げな空気が隙をみつけて侵入することを断固として許しませんでした。やがてはスラムの人たちとの共演ができれば最高だと、ラスは夢みるのでした。

 おおむね毎日は順風満帆(じゆんぷうまんぱん)に経過していきました。仕事面において、一日としてラスが寝坊した日はありませんでしたし、普段はよく働き、休みの時間には孤児院とスラムとを自由に行き来しました。少ないながらにおこずかいを与えられましたし(もっともこれは店主の持論、お金をまったく与えないことは暴徒(ぼうと)を生むというところからきていたのですが)、息子のトマスはラスが仕事をほとんど引き受けてくれるために自由気ままに振舞い、その分店主に怒られているときなどは彼女の肩をもちましたし、夜には話相手になったりしました。とりわけこの青年の話は、ラスの知らない世界観や価値観をふんだんに含んでおり、まるで夢物語のように華々しく聞こえるのでした。子供ならではの大人への反感を聞いたなら、幼少期より大人は敬うべきだと教えられたラスにとっては理念を覆しかねない真新しい考え方でしたし、学校に行ったことのない彼女にはこの近辺以外での出来事や風習を知る術はありませんから、(ちまた)の子供たちを魅了するような奔放な冒険劇やめくるめく寓話(ぐうわ)だって何一つ知りません。ちょっとした話一つにもラスはいちいちハラハラと興奮したりホッと胸を撫でおろしたりしており、目を輝かせて話をせがむ彼女がどこか子供っぽく面白く映ったもので、トマスは笑い飛ばしながら子供の頃に聞いた些細な物語や隣町での事件やお祭りを誇張して聞かせるのでした。

 ある日、孤児院が従前(じゆうぜん)ひいきにしていたパン屋がつぶれてしまったので、ラスとのつながりもあってパンの仕入れ先を彼女の働いている店でお願いしたい、とベスタール院長から申し出がありました。ラスが孤児院とかかわりをもっているとは露知らず(ラスは孤児院については、シャルテムやベスタール院長から口酸っぱく注意されていたために、店主やトマスには黙っていました)、店主は大量注文に浮かれっきりとなり、やはり自分にはパンを作る天賦(てんぷ)の才能があったのだと張り切っていました。そしてラスとトマスを呼びつけると、沢山のパンを持たせて挨拶も兼ねて孤児院へと遣わせました。一人でも大丈夫だとラスは訴えましたが、これからの取引先で粗相(そそう)があってはいけないということもあり、またパンの量も多かったので、トマスが渋々ではありましたが一緒について行くことになったのです。

 ラスは、トマスの隣にいて恥ずかしくないような身なりをしなくてはいけないと、スラムから贈られた帽子をかぶって風体を整えましたが、二人で外出するとなると初めてのことであり、一体何を話せばいいのだろうかと不思議にも心が落ち着かずにおろおろとしていました。夜寝る前に耳を傾けるときには感じない神経の緊張があり、頭の中は空っぽでした。

「ラス、どうせだしちょっと回り道してもいいか?」

「トマス様の赴くままにどうぞ、どちらにでもついていきますの」

 どこに行くのかとトマスの後をついていくと、彼は意気揚々といった様子でその足を巨大な塀の立ち並ぶ場所へと向けていました。

 なんということでしょうか、それこそがラスが夢みていた場所であり、取りこぼした夢であり、この町に来てからもずっと避けていた場所である、学校なのです!

 門へと入り行く人たちは皆立派な格好をしていますし、どこか知性のあふれたりりしい顔つきをしております。垣内(かいち)に飛び込むのだとわかるとラスは気が動転してしまい、目眩(めまい)すら覚えました。トマスはそれに気付きましたが、ただ学校という場所に驚いているだけだと思い、逆にいたずら心でラスの手をとると、中へと引き入れてしまいました。

 さあ、ラスの方は大変です。自分など田舎者がこんな場所に入ってしまってよいものか、突然の夢の実現と猛々(たけだけ)しい自身への非難とが頭の中をごちゃまぜにしてしまい、慌てふためき歩き方すら忘れたほどでした。ましてやこんなところを校長にみつかったなら、一方的に特待生を断った手前どんなお咎めを受けるのかわかったものではありません! トマスの手だけをぎゅっと握りながら、一体どれだけこのみすぼらしい恰好の田舎娘が目立ってしまっているかを考えて目を瞑りました。

 トマスは学校の玄関口にある掲示板を見て、何かの確認事項が済んだならすぐに満足いった様子で帰ろうとしました。

 さて厳しい苦難から逃れられるかと一心地がついたラスの先に、一人の男が立っており、片手をあげて挨拶を投げかけました。

「よう、トマス」

「おう」

 そうして二人はしばらく話し合っていました。どうやらトマスがここに来た理由は、掲示板に次の(ベース)(ボール)大会の予定を確認しにきたようです。

「でもな、手伝いの女の子がその日これなくってよ……当日は味気ないことになりそうだよ」

「だったら一人、マネージャーを連れて行こうか?」

 トマスが言いながら後ろを指した時、相手の男とラスは驚きながらその目を合わせることとなりました。

「あの子、すっごくいい働きをしてくれるよ、ここの女たちとは段違いだ。なにせ作る菓子のおいしさったらどんなシェフにも負けないね」

「誰なんだ? 見たこともない子だな、ぱっとしないし……」

「俺んとこの店で働いている子だけど、俺やお前よりはよっぽどよくやるよ、この子は」

 臆面なくぱっとしないと言われて怖気づいたラスでしたが、すぐにもトマスは彼女をもちあげました。学校に通うこの二人よりも勝っているなどとお世辞でも言われたことは、ラスにとってこの上ない賛辞であり、顔が紅潮するのを感じました。

「なにも否定するわけじゃないし、可愛い子が来てくれるってんならもちろん断ったりはしないよ。それじゃあ頼むな、一人いるだけでもずいぶんと違うんだ」

 そう言って別れた後、トマスはゆっくりとラスに説明を始めました。この休みに開かれる野球の応援と補助に来てくれないかというお願いでしたが、願いも何もラスは大はしゃぎで、実際に野球の試合が見れるのか、それのみかトマスが出場するのか、そんな立派なものの補助に自分などが参加しても大丈夫なのかと浮かびあがることは心配ばかり、次々に質問として投げかけましたがトマスは笑って問題ないと繰り返すのでした。

 めまぐるしく訪れる歓喜にラスはすでに我を失っており、右も左もわからぬ浮ついた状態でしたから手をつないだままでなければどうして孤児院までたどり着けたでしょうか。孤児院に着いてからというものラスの子供たちからの人気はとてつもなく、それまでにかかわりがあったと知らないトマスはただただ驚いているばかりでした。そして帰り道では始終、ラスが子供たちに人気だったことを褒めそやすのでした。一日で様々なことがあり、夕食時にまたしてもトマスが店長にラスの人気ぶりを熱心に語るものですから当人はただ恐縮して俯くしかなく、興奮して夜もろくに寝つけずに次の日に発熱してしまいました。

 褒められて熱を出すなど聞いたこともない可笑しな話でしたが、ラスがいなくなった一日の慌ただしさときたならすさまじいもので、店主とトマスは揃って日々彼女がどれほど精力的に働いていたかを思い知らされる羽目になるのでした。何につけてもラスの功労だと認めたがらない店主までが忙しさに舌打ちをし、「あの子ならもっとそつなくこなしたがね」とトマスに毒づくほどで、遊びに行けず手伝わされた挙句に小言を言われてはたまらないと、彼はラスの看病に努めました。

 教会では健康が自慢だった彼女は、この熱というものの恐怖をしみじみと感じていました。頭が熱さのあまりぼうとしていましたが、立ちあがったなら脳の中に岩でも入っているかのように激痛と耳鳴りを覚えるのでした。まぶたが重かったですが閉じたところで楽になるわけではなく、今度は真上から直に眼球を押さえつけられているように感じるのでした。眠ろうとしても体中が運動直後のように火照っており、止めどない発汗が体を不快へと導き、蒸し窯に入れられているような苦痛が伴ってくるのです。そんなときにトマスが持ってくるコップ一杯の水が、どれだけ彼女に救いだったことでしょうか。ただの働き手である彼女のために雇い主の息子ともあろう人がこうも律義に尽くしてくれる、その優しさに途方もない感謝の気持ちでいっぱいとなり、ラスはただ泣きじゃくりながら「ありがとう」と水を口に含むのでした。体を拭かれたり鼻をかまされるなど彼女にとっては初めての体験で、恥ずかしさの中に嬉しさがこっそり芽吹くのでした。

 何日ぶりかに仕事を一切行わずに体を休めたこともあり、二日にしてラスの体調は回復しました。それを誰よりも待ち望んだのはトマスであり、色々と面倒をみてくれたお礼を言いに行ったなら、両手をあげて喜んでみせてくれ、ラスをも喜ばせました。

 きたる休日には、トマスのお願いとあって店主も仕事を休ませてくれ、朝から大きなパイを焼いて野球の手伝いへ行きました。試合自体は滞りなく進行していき、初めてのことで居場所の定まらなかったラスはトマスを応援しながらレモンの飲み物を各選手に配っていました。スコアの取り方はわからなかったので、聞いたことをメモしながら観戦していましたが、初めての試合はとても興奮するもので、手に汗を握りながら声を張りあげました。トマスは結局あまり活躍できませんでしたが、ラスの声とパイは選手たちから非常に人気があったので、彼女を連れて行ったことが彼のこの試合での一番の功労だとちゃかされたほどでした。

 それからというもの、ラスは時折トマスとその学友のために菓子を焼くことにしました。様々なレパートリーを作り、評判を聞きながら色々と試行錯誤し、菓子を持っていくたびに良い評判を貰って鼻が高いとトマスが自慢しては、ラスを照れさせました。

 さて、ラスは朝に掃除をすると「床が滑って危ない」と店主に咎められたために、以来夜寝る前に三十分ほどかけて唄を口ずさみながら掃除をしていたのですが、その日の夜はトマスが野球大会での己の活躍を熱く語ったのでした。

「それで、あとボールひとつ分飛んでいたらホームランだったんだよ。この前ラスが来たときにも見せてやれたら最高だったのにな……あれ以来、また呼んでこいって皆がうるさくてさ。仕事が楽な日にでもまた来てくれよ」

「はい、はい! 私は絶対行きます、呼んでくれたなら絶対に行きますの。だから、トマス様のホームランも見せて欲しいです」

「任しとけ」

 トマスが切りあげようとしてもラスは必死に新しい質問で彼を引き止めて、その話に耳を傾けることだけに没頭していましたから、想像以上に話は長引いていました。孤児であり、料理は人よりも多少優れているくらいだと自分を弁え過ぎたラスにとっては、そのトマスの姿はとても輝いて見えており、話を聞くのは何よりも楽しかったのでした。最近では料理の最中にも彼の声が聞こえたなら耳をそばだてるようになっており、以前であれば料理をしているときは雑音など入り込む余地もなかったというのに、ずいぶんと集中力が散漫になっていました。彼女自身は慣れからくる余裕だと、軽く認識していましたが、日に日にその傾向は強まっていくばかりで、あわやパンを焦がしてしまいそうな場面が何度とあったにも拘らず、どれだけ気を引き締め直そうとしてもさっぱり集中できなかったのです。

 そうしてその日は二十三時まで話し込んでしまい、トマスにおやすみを言って、ラスは弾んだ気分でモップを手にとり掃除にとりかかるのでした。再び野球の試合に誘われたことが殊更に嬉しく、踊る真似事をしながら唄声だっていつも以上に浮かれてのびやかでした。


  アア 愛とはかくうるわしき

  かの者を想わば 心は四季おりおりの 花に彩らるる

  いつかあの人も同じように 心にきれいな花を咲かせるだろう

  阡の春を越えて きみに歌おう 愛を謳おう……


 さて、ラスはここで歌うことを止めてしまいました。何故でしょうか、顔が火照り、身体が固まりました。

 今までにないほど、唄が(とうと)いもののように感じられたのです。温かく柔らかく語りかけてくるようで、優しく心を撫でられるようで、ブルリと震わさせられました。「愛」という言葉を放つのがとても恥ずかしく、まるで裸で立っているかのような羞恥心を感じて戸惑ってしまったのです。

 ラスはあまりに体中が熱いのでまた風邪をひいたのかと思い、掃除を手早く済ませると、逃げるようにベッドへと突っ伏しました。しかし荒くなった呼吸は一向に収まる気配がなく、体中の火照りは止まず、心臓の音だけが大きく鼓動して耳に纏わりついたままずっと眠れずに一夜を過ごしたのでした。

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