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スラムの妖精  作者: 等野過去
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十一 仕事場

  十一 仕事場


 昼の合唱練習が終わると、ラスはいつもの掃除の続きではなく、クリスから譲り受けた良い装いとともにリボンをあしらって身だしなみを整えると、町へと繰り出しました。もちろん仕事を探すためです。

 しかしどんなところに行けば自分を雇ってくれるだろうか、さっぱり想像ができませんでした。シカゴのように縦横に何本もの街路(ストリート)が交錯しており、所狭しとビルや工場が軒を連ねていれば事情もさぞ違ったでしょうが、あいにく特筆するほどに都会というわけでもない地方の町なのです。その上知識も常識も欠けていることを自覚しているのですから、結局はまだ辛うじて見栄えもしよう料理系統のお店にしか自分を売り込めないのは事実でした。しかし喫茶店やレストランはけんもほろろにあしらわれた嫌な記憶しかないので、それらに拘泥(こうでい)する気力は萎えきっており、自然足も遠のきました。かといってそれ以外でどんな店があるのか、村暮らしの長いラスには到底想像の及ぶ範囲ではありませんので、やはり実際に町で確認するのが一番です。

 このまま徘徊(はいかい)していても何ら進歩はないだろうと、試しに乳製品を取り扱っているお店に入りましたが、以前のこともあってどこかしらおどおどとしてしまい、断る素振りを見せられたならすぐにも頭を下げて飛んで逃げ出てしまうのでした。それでは駄目だとわかっていても、なかなか思いは行動に反映されず、次に入った肉屋でも同様に逃げるように出てしまうのでした。

 ラスが町で右往左往している頃、シャルテムのところにクリスが訪れていました。彼はラスが仕事を探しに出て行ったことを聞くといいことだ、と前置きした上で、シャルテムはそれで寂しくないのかと尋ねました。

「寂しいに決まっているさね、あんなにいい子がどうしてこんな私の手元に来たのだろうと疑問なほどにね。こんなにも悲しくなるなんて考えもしなかったし、いっそかかわりなどもちたくなかったとすら思えるよ。昨日の音楽会もみただろう、一体世界中を探したとして、どこの国にあんなスラム街があるもんですか。私はだからこそ、あの子を近くに置いておくのが怖いんだよ、そう……恥ずかしい話だけれども、私自身が洗われていくのが怖いのさ」

 何者にも反抗していた昔を忘れ、段々と敵愾心(てきがいしん)をなくしていく己と対面するのはシャルテムにとっては非常に怖いことでした。一人孤独でも構わないと勇んでいたはずが、いつしか次第にラスという存在に触発され傾倒しだし、同時にこんなところでラスが幸せになるわけがない、これじゃいけないと悩むことが耐えかねるほどの圧迫となっていたのです。

「私の仕事が何か、わからないほどでもないでしょうクリスさん。だからこそ私には、あの子を近くに置いておくことが怖いのですよ」

「それはそれは……あなたは僕に負けないくらい、いいえ、僕以上に彼女に甘いですね」

「当たり前じゃないかい、あの子と一番一緒にいるのは私だから、あの子の良さは一番知っていると自負していますよ」

 言いながら、やはりため息をつくのです。ラスと一緒にいたいという思いと、それではだめだとたしなめる思いとのジレンマは、なんともどかしいことでしょうか。

「いっそクリスさん、あなたがラスを引き取ってくれればと思うんですよ」

「ええ、それは喜んで引き受けたいですが、あの子から言ってきたなら……ですね。子供が頑張ろうとしているときは、黙って背を押してあげるのが大人の仕事でしょう」

「あらま、ずいぶんと立派なご対応ですこと。やっぱりあなたのラスへの甘さにはとても及ばないことで」

 言いながら互いに笑い合いました。クリスとしてもラスの提案さえあればいつでも受け入れるつもりでいましたが、問題は当のラスにあったのです。村で一番のお金持ちであったファウル氏、そしていつも果物を売っていたケプルト夫妻のお店、今まで懇意にしていた関係がラスの住み込ませて欲しいという踏み込んだ切望によって断ち切られた苦い経験があったので、彼女は身近な人にお願いすることはもうとてもできなかったのです。いやしくもクリスに頼み込んだがため、この関係が切れてしまったら……考えるだけでも恐ろしく、ラスは絶対にそれはしないと固く心に誓っていたのでした。

 町を回り続けたラスは、ことごとく断られ続け、せっかくもち直した決意があっという間にぐらつきました。おどろおどろしく積極的に出られない裏腹な態度が尚更自身を悲しくさせるのです。

 しかし五件目に入ったパン屋で、その店番をしていた青年が叫んで立ちあがるものだからラスも面喰らいました。すぐに駆け寄ってきた青年を尻目に、ただどぎまぎとして何も話せませんでした。

「なあなあ、あんたあのスラム合唱団で唄を歌っていた奴だろ、な。どうしたんだよこんな所に、スラムに住んでいるんじゃなかったのか? なんであんなところで歌っていたんだよ? もう歌わないのかい?」

 矢継ぎ早の質問攻めに頭を混乱させながら、ラスは目の前の青年を見据えました。ラスよりは少し年上でしょうか、背も非常に高く顔つきは整っており、茶色い髪の毛はふわりと非常に柔らかそうで、もの珍しそうに両手をとって大きな声で話しかけられたなら、あまり年ごろの男性と縁のないラスは頬に朱を差して黙り込んでしまいました。

 この偶然はラスにとっては幸いでした。通常であれば合唱活動をしていた夕刻の時間はお店にとって稼ぎどきでありますから、商いの人たちがスラムの音楽団のことを知る機会などなく、仮に噂で耳にしようとも実際に見に行く余裕などありはしません。一方で、たまたま店番を任されていた青年は普段は遊び回っているのですから、スラムの音楽団ひいてはラスを実際に見たことがあったのです。

 客もなく閑散とした店内にラスは座らされ、青年と向き合わされました。

「俺はトマスってんだ、あんたは?」

「ラスっていいます、ラス=メイシィ」

「そうかい、よろしくな、ラス。それで、買い物じゃないなら一体何の用だい?」

 ラスは住み込みで働きたい旨を、料理が得意だということを踏まえて熱心に話しました。パンを焼いたことはあまり多くありませんでしたが、パイやタルトはよく作っていましたのでその辺りを強調したならトマスは「それはいい」とお腹の減っている仕草を見せておどけました。

「もし良かったら、実際に作ってみますが……」

「そうこなくっちゃ、じゃあもうちょっと待っていてくれ。もうすぐ父さんが来るからさ」

 実際に作らせてもらえるのは、ラスには願ったり叶ったりです。何を作ろうかと頭を巡らしている一方で、トマスも様々に考えていました。家にはいつも売れ残りのパンがありますから、住人が一人増えたところで食事の心配はほとんどありません。寝床だって今までスラムだっただろうことを鑑みれば物置を与えたって文句ひとつないでしょう。なによりも、こうしてことあるたびに買い出しだ何だので店番を任されているトマスですが、彼女が働き手となれば店番の心配なく遊びに出られます。お菓子を作るのが上手ければいつでもそれらを焼いてもらうことだってできるのですから、さていいこと尽くしではありませんか。

 買い出しを終えた店主が帰ってくるなり、トマスはラスを紹介し、次に彼女自身からも紹介をさせました。

「それで店主(オーナー)様、もしよろしければ一度私のお手前を披露したく思います。どうぞ、一度ご確認の上で、返答をお願いしたいのです」

「どうだい父さん、困っているようだし、一度腕前を見てからっていうのも悪くないだろう? 仮に住み込みになったって、食事や場所についてなんら心配事はないんだしさ」

 トマスが一緒になって頭を下げたなら、店主はくすぐったそうに頭をかいて「仕方がないな」とラスを調理場へ連れて行きました。店主の後ろでラスがひっそり目配せと共にお辞儀したなら、トマスは親指をたてて歯を覗かせました。

 ようやくラスはその腕前を披露するときがきました。材料をひとしきり確認してパイを作ろうと決めると、卵に小麦粉にバター、果物を少し借りてすぐにも生地づくりを開始しました。教会ではいつも子供たちが邪魔をしたり急かしたりばかりだったので、それらの相手をしながら料理をしていたラスの手際の良さは際立っており、店主もまだ若いのにと目を見張りました。砂糖とシロップを使い(かま)できれいに焼き目をつけたならば、その出来はまことに素晴らしいもので、かたやラス自身こんな素晴らしい窯があるなんて素敵だと感動していました。

「味付けは、少し甘目を意識してみました」

 パイは見た目に劣らず味も絶品であり、トマスはすぐにもお代わりを所望して、あっという間に大きなパイはなくなってしまいました。

 正直に言うならば、店主はラスを雇う気などさっぱりありませんでした。実際にラスが料理している間も客足はまばらであり、決して売り上げの良くないパン屋だったのでそんな余裕はどこにもありません。しかしながら彼女は食事と寝床さえあれば賃金はいらないと言うし、こんなパイを料理させてしまっては断るべき理由を探すことは非常に困難です。かてて加えて溺愛している息子から懇願されたのであれば、首が縦以外に振れる理由はありはしません。

「わかった、いいだろう。その代わり、明日からさっそく色々と教え込んでやるから覚悟しておくんだね。出来次第ではいつでも追い出してやるんだから、その辺りは肝に銘じるんだな」

「はい! ありがとうございます、店主様、トマス様!」

 ラスは返事しながら、トマスと手を握り合いながら喜びを露わにしました。きっとここでもラス一人であれば断られていたことは間違いありません、トマスという存在によって好機を得、ラスは見事に認められたのです。ラスは何度とトマスにお礼を重ねました。

 働き場所がみつかったという報告は、シャルテムとクリスを喜ばせました。二人はどこかに悲しさと残念さをもちながらも、こうして一人の少女の成長を喜んであげたかったのです。

「明日はさっそく朝の五時に荷物を持ってパン屋さんに行くことになっていますの。といっても、ほとんど荷物なんてありはしないんですけど」

 夜には、ラスに別れを告げる、そして独り立ちを祝う合唱祭がスラム内で繰り広げられました。観客席にラス一人を置いて、それぞれの合唱団が精いっぱいの合唱を披露したのです。これはこの上なくラスを感動させました。

「こんな私が、こんなにも沢山の人に祝ってもらえるなんて……ああ、ああ、今を幸せといわずして一体幸せがどこに存在するのかわからないくらいです!」

 祭りの終わりにはそれぞれが「いつでも戻ってこい」や「寂しくなってしまう」などと思い思いの言葉を贈り、そして有志の集めたお金で至急調達したプレゼントをラスに渡しました。それは大きなつばのあるグレーの帽子であり、彼女には少々不釣り合いなものでしたが、それ以上になけなしのお金を使ってまでプレゼントしようという心緒(しんしよ)こそが嬉しく、ラスは宝物にすると言って大事に胸に抱きました。

 翌朝未明、ラスは帽子を括った大きなリュックを背負い、シャムの前に屹立(きつりつ)しました。いざこの場に立って、改めて自分を支え続けてくれた場所を後にするのだと実感が湧き出てきて、引き連れられてくるように涙が湧いてくるのでした。シャルテムの前でだけは泣かないように、立派に振舞おうと意識していたラスでしたが、このときばかりはどうしても止めること叶いませんでした。

「おばさま、すみません。私はどんなに辛くても泣かないように、泣かないようにと自分に言い聞かせているのですが……どうしてでしょう、感謝の涙だけはどうやっても止めようがないのです。私がどれだけおばさまに感謝しているのか、言葉に表わしたい表わしたいと思うのですが、できないばかりにこうやって涙が出てきてしまいますの」

「泣けないときっていうのが大体は一番辛いのさ、だから泣きたいときは泣けばいいよ」

「はい、ありがとうございます……。また時間ができましたらすぐにも来ますの、私の焼いた立派なパンを持ってきますから、忘れないでくださいね」

「あんたみたいな無茶苦茶な子を忘れるわけがないだろう、くれぐれも黴の生えていないパンを頼むよ。まあようやく一人になれたとせいせいするところだがね、もし辛くなったなら、いつでも帰ってきなよ」

「ああ、そんなこと言わないでくださいおばさま。おばさまと離れることがどれだけ辛いでしょう、毎日戻ってこなくてはなりませんことで」

 そうしてラスはスラムを離れ、いよいよ町のパン屋へと、その足を進めるのでした。

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