悠久の本に挟むひとひらの栞
梅雨も明けきらない6月の中頃、
未だ初夏だとも春だとも言いきれない、なんともどっちつかずな空を見て悠はとても憂鬱だった。
「また雨が降りそうだ…」
無機質で温かみのない、真っ白なベットに横たわったまま悠はそう呟いた。
誰かに反応して欲しかったわけでもない。
気まぐれにふと零した独り言だった。
「そうね。近頃は雨ばっかりですこし憂鬱よ」
悠からすれば返ってくるはずのない返答はベッドから少し離れたスライド式の扉の奥から返ってきた。
「お前も暇人だなぁ、いつまでもこんな俺に構ってるなんて。」
悠がそうぶっきらぼうに返すか返さないかギリギリのタイミングで志織は部屋の中に入って来た。
その手には見舞いの品と思える青い花とフルーツバスケットの姿があった。
バスケットの中身には悠の苦手な柑橘系の果物の姿はなく代わりに悠が好んで食べているリンゴの姿が多いように見て取れた。
その様子を見て悠は『でかしたっ!』と心の中で歓喜の声をあげた。
もうかれこれ10年もの付き合いになる幼馴染の志織が悠の嫌がるものを入れて来るわけがないのは悠も分かってはいるのだがやはり好きなものを目の当たりにすると心が高揚するのは当たり前というものだろう。
「クラスのみんなも心配してるのよ?
でも私以外みんな面会謝絶にしてるそうじゃない。」
「そりゃあこんな姿誰にだって見られたくないだろ…
それにお前だって母さんに頼み込んで無理やり来てるって事くらい知ってるからな。」
心配そうにベッドサイドの花を取り替えながら答える志織に悠は思わず意にそぐわないことを言ってしまった。
コイツにこそこんな姿は見られたくなかったって言うのに…
それが悠の本音ではあったのだが今となってはどうすることもできない。
「そう拗ねないでよ、私だって悪いと思ってるわ。でも知っちゃったんだから逆に暇つぶしのない悠を哀れに思ってこうして毎日来てるんじゃない。」
悠が掛け布団の裾を引っ張って自分の肩くらいまでを覆おうとしたところを志織はそんな言葉で引き止めた。
「毎日来て欲しいだなんて一言もいってないからなっ!」
悠は素直になれない心のままに天邪鬼な言葉を返した。
「はいはい、わかりましたよ。
ツンデレさん。」
「ツンでもデレでもないっ!!」
志織の悠の心を見透かしたような言葉に悠はいつも言い合っているようなセリフを普段ではあり得ないくらいに声を荒らげて言い放った。
志織はあまりの悠の態度にどうしたらいいのかわからないと言った感じでキョトンとしてしまっている。
言葉に力を入れすぎて肩で息をする悠と呆然と立ち尽くす志織。
二人の間に重く冷たい空気が流れ始めた。
「もう帰ってくれ…
今日はそんな気分じゃない。」
志織に当たってしまうような態度で返してしまった自分が情けなくて、せっかく自分の為に見舞いに来てくれているのにこんな空気を作ってしまったことが申し訳なくて…
でも、このまま一緒に居たらまた志織を傷つけそうだと感じた悠はそんな言葉を言い放ってしまった。
「そう…
じゃあ、また日を改めて来るわね。」
そう言って志織は見舞いの品を律儀にベッドサイドのテーブルに置いて病室の扉に手をかけた。
志織も押しかけるような形で"彼"の秘密を知ってしまったことにそこはなとない罪悪感を感じていた。
だからこそ志織は悠に対して強く出ることができなかった。
"彼"と居られる時間がもう今日しかないと分かっていてくも志織はそうせざるを得なかった。
今からでも遅くないのではないか、ここで自分が振り返って嫌だと言えばすこし言い合った後にいつものように戻れるのではないか。
そんな思いが志織にはあった。
そんな思いが重くなるはずのない引き戸を重く感じさせた。
「あのさ、またな。」
「うん。またね…
明日…頑張ってね…」
寂しげに引き戸に手をかける志織の背中に悠は精一杯の素直さを振り絞ってそう声をかけた。
志織もその悠の素直さを汲み取ってなるべく普段と変わらない口調で返すように努めた。
そうして別れればまた明日何も変わらず会えるような気がしたからだ。
「おう…またこいよ。」
悠の消え入りそうな返事を聞き届けるか否か志織は引き戸から手を離して病室の外へ消えて行った。
悠の言葉が志織に辿り着いたか悠には知る由もなかった。
悠だって本当は明日の不安だとか術後はどうしたいだとか志織に話しておきたい事はたくさんあった。
そうすることのできなかった自分を、その愚かな選択を鑑みて悠はひどく自己嫌悪に陥った。
この狭い病室のちっぽけなベッドから眺めることができるのはせいぜい外のどんよりとした空気だけで、その空を見るとさらに気が落ちそうだったので悠はふて寝を決め込む事にして掛け布団を頭までかぶった。
ただ、さっきの会話で一つ救いだったのはぎこちないながらにもつい最近まで交わしていたようなやり取りで会話を締めくくれたことだった。
あのやり取りだけで手術の不安なんかは乗り越えられるんじゃないかというくらいには悠は勇気づけられた。
また明日何かが変わってしまってもまたこうして何気なく相対して何気なく会話を交わせるだろうとそう悠は思えたのだ。
志織の側もあの短いやり取りだけできっと同じ気持ちになれただろうと思う事で悠はすこしだけ救われたような気になった。
ただ志織の側はそれどころではなかった。
明日には違う"彼"と対面することになるのに"彼"と過ごす最後の時間をこんな風に終わらせてしまった。
明日からどう接すればいいのだろうか、
自分は嫌われないだろうか。
このまま疎遠になってはしまわないだろうか。
色々な考えが頭によぎって瞳から涙が溢れてしまう…
"彼"への伝え切れてこなかった思いの数だけ涙は溢れて来る。
悠の病室から十分に距離をとって病棟端の階段まで涙を我慢しながら駆け抜ける。
その姿はさながら酷い言い様で振られたかのような姿だったが幸いそんな志織の姿を気に留める者はその場には居なかった。
病院の階段に座り込むのは良くないとわかりつつも志織は堪えきれずに座り込んで泣きじゃくった。
「うぐっ…えぐっ…」
悠への想いがそこまでだったとは自分でも少し驚くくらいだった…
正直今の今まで悠のことをただの幼馴染くらいにしか思ってなかったから何故こんな感情が溢れてくるのか理解に苦しかった…
幼馴染の彼がどう変わろうと自分には関係ないではないか…
そう感じつつも志織は溢れてくる感情を抑えることができなかった。
※
ガラガラ…
「あら、今日は志織ちゃん来てないのね」
志織が帰ってから暫くして母さんがやってきた。
「いや、さっき来たけど帰ったよ」
あえて悠は理由は言わなかった。
「あんたまたなんか志織ちゃんに言ったでしょ!
まったくもうなんであんたはいつも一言多いのかしら」
あんたに似たんだよ。そう言おうとして悠は口を噤んだ。
そういうセリフの事を言われてるのだと気づいたからだ。
「別にそんなこと言ってねぇし、それになんだっていいだろ?
これが今生の別れってわけじゃないんだし」
悠は母親の前ですら素直な自分を出す事はできなかった。
まだ高校に入学したての思春期男子としては当たり前のことであろう。
母親とは案外良好な関係を維持している悠でも流石に親にそんな弱みまでは見せることはできなかった。
「まあ、私には関係ないしあんた達の問題だから勝手にすればいいけど今度会った時にちゃんと志織ちゃんに謝っておくのよ?」
「だから何も言ってねぇから」
「はいはい、それで……」
…身体の調子はどう?」
悠の母親はさっきの話をいつものように軽く流したところで軽く逡巡した後そう切り出した。
「ん?んーまあ、ぼちぼちなんじゃない?
まだまだ身体の感覚は微妙だし正直どうなのか分からないよ。」
悠は意外といつも通りのさらっとした感じで返す。
母親から見ると言葉とは裏腹に悠の表情は痛々しかった。
「まあ、正直身体のどこが悪いってわけじゃないんだし明日の手術さえ乗り越えれば何も心配いらないって先生言ってたじゃん」
悠は心配そうに自分を見つめる母親の顔を見てなるべく元気な感じになるように返した。
沈鬱な表情でそんなに見つめられたらこっちこそ不安になってきてしまう。
そんな考えから言った言葉だったけど悠は案外その言葉に違和感を感じなかった。
このままいけばすぐにまたいつもの日常に戻れるかもしれない。
そんな考えが頭によぎる。
でもそうはいかない事を悠は分かっている。
だからこそ志織に対してあんな気持ちになってしまったのだとわかっていた。
明日が不安だと言うよりも明日からの毎日が不安で仕方がなかった。
変わってしまうことよりも明日の手術が終わればこの身体で日常に戻らなくてはならないことが不安で仕方がなかった。
「ねえ、母さん…
明日俺の何かが変わってしまったとして母さんは何も変わらないでいてくれる?」
不安から溢れ出た言葉だったのかもしれない…
でもただただ変わらないものもあるっていう確証が欲しかった…
「うーん…正直言うと分からないわ。
でもね、私が貴方の母親である事はどうやったって変わらないわ?
それだけは絶対に変わらないからね」
そう言って母は悠を抱きしめた…かったが、ベッドからいまだ自力で起きだせない悠をしっかりと抱きしめることはできなかった。
「母さん…恥ずかしい。」
ベッドの機能で起き上がらせていた体に寄りかかるような形の母を押し退けようとしても今の悠の身体ではどうやっても押しのけるどころか大きく動かすことすら出来ない
そんな悠の言葉も気に留めず母は悠を抱きしめ続けた。
「ああ…、ごめんなさいね」
そう言う母の声音はとても複雑だった…
「ねぇ、母さん…
そう言っておいて離さないのは何故?」
「いいのよ。もう少しこうさせてよ」
母の声音はいつの間にかいつものような声音に戻っていた。
「なにがいいのっ?俺がよくないんだけどっ?」
いつものようにつっかかろうとしても今の悠ではどうしても可愛い感じになってしまってプリプリしてるみたいになってしまう。
「はいはい、お母さんが悪かったですよー」
こんなやり取りをしたのは久しぶりだった。
こうして普段通りの会話をしたことで悠は少しだけ明日の手術に対して前向きになれた気がする。
「これで明日の手術も頑張れる気がするよ。」
悠は母親に向かってボソッと呟いた。
※
リハビリは正直嫌いだ。
手術をしてから1週間と少し…
悠は毎日動かない身体を動かすためのリハビリに励んでいた。
『手術してから10日もすれば日常生活を送るには何も支障のないくらいには身体を動かせるようになるはずだよ』とは悠の主治医の談である。
ただ、主治医の話とは裏腹に悠の身体は未だに歩行すら困難なほどであった。
毎日リハビリをして何もないこの狭い部屋に戻るだけの退屈な生活が悠にはそろそろ耐えられなくなって来ていたのだった。
結局志織もあの一件以来悠の病室には来ていない。
それがまた悠を退屈にしている要因でもあった。
ガラガラ…
どうせこの病室にやってくるのは担当の看護師のおばさんが講義と言う名の説教をしにくるかリハビリ担当の先生が迎えにくるか母さんが様子を見にくるかくらいである。
だから悠は特に扉の向こうからやってくる人物に声はかけなかった。
「悠?…もしかして寝てるの?」
入口の側から聞こえて来た声は看護師のおばさんでもなくリハビリ担当の若い男の先生の声でもなくもちろん母の声でもないみずみずしい女性の声だった。
もちろん悠にはその声に心当たりがあった。
志織だ…
「いいや、別に寝てたわけじゃないよ
久しぶりだね、志織。」
悠は勤めて冷静に物静かな様子で志織の言葉に返した。
顔はいつもの通り窓の外に向けたままであったが…
そのまま寝たふりを決め込むと言う選択肢もあったが志織が来てくれた事の嬉しさの方がこの前の事の気まずさより勝った為に悠は志織の言葉に返してみる事にしたのだ。
「うん、久しぶり…」
悠のなるべく普段通りにと言う思いとは裏腹に志織の反応は素っ気なく病室には微妙な空気が流れ始めた。
なんとなく悠には志織のその素っ気なさと言うか不自然な態度の原因に心当たりがあった。
それもまあそのはずだ、この前の手術で自分でも驚いてしまうほど悠は変わり果てていた。
志織もそのギャップに悩んでいるのだろう…
悠でさえまだまだ受け入れきれてないのだから始めて”新しい”悠の姿を見た志織はこうなる事が分かっていたとしてもしばらく受け入れきれないのは当たり前だろう。
だからこそ悠もあえて顔を見せないでいるのだ。
まあ、そうしたところで横顔でチラチラと悠のそのみずみずしい顔がのぞいていたのであまり効果はなかったのかもしれないが…
「身体の調子はどう?
リハビリが順調ならもうそろそろ歩ける頃だって聞いたけど…」
結局そのどんよりとした空気に耐えきれなくなったのか先に口火を切ったのは志織の方であった。
「うーん…あまり順調じゃねぇかなぁ…
正直喋れるようになったのだって一昨日のことだし…」
「喋れなかったって…
そんなにひどかったなんて…」
悠が明るく言った一言は志織に大きな衝撃を与えた。
本当のところ声が出し辛かっただけで全く喋れなかったわけでもないのだがそんな事は些細な違いだと悠はあえてそう言う表現をした
実際声が出し辛い事で喋ることに相当苦労していたのでほとんど意味に違いはなかった
「まあ、いくら自然な流れを補助するための手術だったとしてもいろんなところがそっくりそのまま変わった訳だしそれくらいはあるでしょ。」
ケロっとした顔をして言われても志織は納得はできなかった。
悠がそれだけ大変な状況にあるとは思っていなかったのだ 。
悠が手術をするまでの2週間寝たきりでほとんど身体を動かすことすら出来ない状態だったのにも関わらず毎日志織が出向いても体調が悪そうに見える日はなかったしいつも通り会話を楽しむ事が出来ていた為に志織は悠の病状の深刻さに気がついていなかったのだ。
「まあ、そんな深刻な顔すんなよ。
別に死んじまう訳じゃねぇんだし…おっと…綺麗にしゃべんねぇとまた看護師のおばちゃんに怒られちまう…」
「ふふっ…もうその時点で綺麗な喋り方じゃないじゃない」
志織は悠のコミカルな言い草と表情を見てふと笑みが零れた。
そうしてやっと志織は普段の調子に戻る事ができた。
悠がそこまで気にしてないことを自分が気にしてもそれはそれで悠に悪いかと思ったからだ。
「それもそうだな…あ、そうそう。
順調じゃないって言っても手術する前よりかは快方に向かってるんだから大丈夫だよ。
回復の仕方が人より遅いってだけで十分回復してるから心配しないでよ。
こうして上半身は結構動くようになって来た訳だし…」
そう言って悠は少しだけ無理をして上半身を大きく左右に振った。
これでも手術するまでほとんど動かせなかったことを考えると大きな進歩だった。
久しぶりに悠が身体を大きく動かしているのを見て志織は深く安堵を覚えた。
見た目は違っても寝たきりになってしまっていた悠があんなにも大きく上半身をひねっているのだ、あのままだったかもしれない心配はほとんどなかったが実際に快方に向かっているのを目の当たりにした事でまた昔の悠が戻ってくるのだと、倒れる前の悠に戻るのだとそう思えたからである。
ただ、それと同時に小さく華奢になってしまったその身体と可愛らしくなってしまったその動きを見て元の悠はやっぱり帰ってこないのだと志織は痛感させられた。
「ほらな、だから歩けるようになるのも時間の問題だよ。
歩けるようになったら退院だか頑張らねぇと…頑張らないとダメだよね。」
「早く歩けるようになって学校戻ってこないとだものね」
「ぬぐぐぐ…
しばらくは自宅療養じゃダメですかね
クラスの奴らに顔を合わせる勇気まだねぇし…」
「そう言ってどうせゲーム三昧したいだけでしょ?
早く戻ってこないと留年しちゃうわよ?
嫌でしょ?私が先輩になったりするなんて」
「まあ、そうだな…」
「そう言えばクラスのみんなに手術成功したみたいって話したらみんな喜んでたわよ?」
「あいつらはどうせ珍しいもの見たさで言ってるだけだよ」
そんな流れで悠と志織は結局面会時間が終わるまで取り留めのないことを喋った。
学校の話に始まり悠の看護師が担当が変わって色々とうるさい人になったせいで毎日ガミガミ言われてうんざりしている事とか志織の部活の事とか2人が好きなアーティストの話とか…
とにかく色んなことを2人は話した。
手術の前日に過ごせなかった時間を埋めるかのように2人は会話に華を咲かせた。
看護師の女性が面会終了時間を告げに来た頃にはすっかりあたりは真っ暗になってしまっていた。
「ごめんな、付き合わせちゃって…こんな時間まで。」
帰りの支度をする志織に悠はそう声を掛けた。
「ううん、こっちこそごめんね。
まだまだ病人なのに居座っちゃって」
そんなことない…
悠は心からこの時間が楽しかった
ただ、そう言葉を紡いでしまうともうこの想いは止められない気がしたから怖くてそう口に出せなかった。
「そうだな、もうちょっと労わるんだな。」
「もーあんまり調子乗らないの。
じゃあまた明日来るわね。」
「おお、気を付けて帰れよ」
「うん。ありがと」
そう言って引き戸の前で降りかえった志織の姿は悠から見てとても素敵だった。
志織のいなくなった病室を見渡して悠はふと実感した。
いつでも自分の近くに居てくれたのは志織だったと。
志織といると楽しい気分になれること。
自分が志織のことを好きだという事…
その気持ちを自覚した途端不思議と涙が溢れて来た。
悠は分かっていた、もうその気持ちは叶わない事を
志織にその気持ちはぶつけられない事を。
悠は消灯時間が近く病室で泣いた。
ここが個室でよかったと思うほどに泣いた。
逆に志織の側は帰り道で胸をなでおろしていた
悠の態度が手術前と大差なかった事。
自分も不思議と悠に対して変わらない態度でいられた事。
何よりも大きく変わった姿を見ても悠を悠として認識できた事。
さっきまでの会話の全てが志織を安心させる要素だった
少し時間はかかるかもしれないけどまた1ヶ月前までのように過ごせるのだろうと志織は思っていた。
1ヶ月弱前、突然悠が検査入院したと聞いた時から心配していた事からようやく解放された気分だったのかもしれない…
これから悠がどう変わろうとも自分は変わらず友達でいようと志織は決心する事ができた。
※
「やっと今日から登校できるね。
昨日その話をしたらみんな喜んでたわよ?」
手術をしてから約2週間、悠のリハビリも終わり学校に復帰する日がやって来た。
「こっちからしたらどんな顔して会ったら分からなくて憂鬱だよ」
結局リハビリ中も悠の口調はほとんど治ることはなく退院の日まで看護師の女性にガミガミ言われ続けたらしい。
ツラいリハビリとお小言の毎日でも耐えられたのは志織が毎日遊びにきてくれたからであった。
「まあ、そんなこと言わないで。
新しい制服似合ってるしきっとみんなもそう言ってくれるわよ」
「どうせ物珍しいものを見るかのような目で見られて珍獣のように扱われるだけだろ」
悠は志織の言った嬉しい一言にひねた表現で返す事しかできなかった。
そんな悠のいつも通りな様子を見て志織は安心だった。
「ふふっ…悠の毒舌は変わらないわね」
「別に毒なんて吐いてないだろ?事実だからな。」
「はいはい。ツンデレさんなんだからぁー」
そう言って悠を見下ろす形で悠の頭を撫で撫でする志織。
今まではなかったスキンシップに悠は思わずドギマギしてしまうと同時に少し困惑した。
志織を見上げる形になっている事に、志織に撫でられている事に、そもそも志織からのスキンシップに慣れていなかったからだった。
「んん…別にツンデレじゃねぇからな?」
「そう言ってると本当にツンデレさんみたいに見えるからやめたほうがいいわよ?」
そう言って志織は撫で撫でするのをやめた。
「はいはい。気をつけますよーだ。」
そういう悠の顔はなんだか物足りないような顔をしていてふと志織は笑ってしまった。
「な、なんだよ」
「ふふっ…あんまり可愛らしい顔をしてたもんだからつい…」
そう笑う志織の顔を見て悠はお前の方がよっぽど可愛いよと思ってしまった。
いけない、いけない。
志織に対してそう言う事を考えるのはやめようと決めたばかりじゃないか
悠はそう自分に言い聞かせた。
「可愛いって褒められてる気がしないんだけど…」
「今となってはよっぽど褒め言葉よ?」
あっけらかんとして言う志織の表情は今までと同じでその表情を見て悠も平常心を取り戻すことができた。
「はいはい。そう言うことにしておきますよ。」
そう言って悠は学校に向かう足を早めた。
※
志織は違和感を感じていた。
悠がいつもの空間に帰って来たことで今まで悠に対して感じていなかった違和感を感じていた。
今の悠の体ぴったりに作られた新しい制服、自分より後ろになってしまった出席番号、休み時間になると彼の周りにできる人だかり、自分の方が高くなってしまった目線。
そういうちょっとづつの小さな違和感が大きな違和感になってしまっていたのだ。
その違和感は結局拭えることはなく2人の間に1週間の月日が流れようとしていた。
その間悠とは前よりも一緒にいる事が増えたはずなのにそのモヤモヤ感の原因すらわからないままだった。
いや、その原因はもうすでに明らかだったのかもしれない。
ただそれを志織が認めたくなかっただけなのかもしれない。
悠のことを特別に思っていないとここまで違和感を感じ続けるなんてあり得なかった。
そろそろ年貢の納め時なのかもしれない…
志織はそう思った。
悠がこうなってしまってから自分の気持ちに気づくなんて。
きっと私はずっと前から悠のことが好きだったんだ…
志織はそう言う結論にたどりついた。
たどり着いてしまった。
たどり着いてしまって自分の愚かさに気づかされた。
自分の思いに蓋をしていた、気づかないようにしてた…
そうして来たがために彼が彼ではなくなってしまった。
自分の思いはもう届かないのではないか。
いや、心は悠のままなのだからまだ間に合うのではないか…
そんな思いが堂々巡りを繰り返していた。
「ねえっ、悠…」
堂々巡りを繰り返すうちに志織は無意識のうちに少し前を楽しそうに歩く悠の袖を引っ張って悠を引き留めていた。
「ん、?なに?…」
「い、いや…」
志織は自分の無意識の行動を恨んでいた。
悠に対して自分がどういう態度をとるのか明確に答えの出ないまま見切り発車のごとく動き出してしまったことに…
そして何よりこんな状況になっても想いを伝えることのできない弱虫な自分を恨んでいた。
2人の間に微妙な空気が流れ始めた。
「ねえ、志織。言いたいことがあるならハッキリした方がいいよ。」
悠はまるで自分にでも言い聞かせるような口調でそう言い放った。
こういう言い方は少し狡いような気がしたが悠もまた弱虫であったが為に志織の言いたいこと、その気持ちを汲んでいながら自分から話を切り出すことができなかった。
「う、うん……あのねっ…」
悠が作った少し曇りがちだけどまっすぐな表情を見て志織は覚悟を決めた。
「私、悠のこと好きかもしれない。」
このいつもなら軽いノリで『あー、俺もだぞ?友達として』なんて返しそうなセリフを前に悠はいつになく神妙な表情をしていた。
「志織…俺も最近、ここ1ヶ月くらいでおんなじ気持ちにたどり着いたんだ。」
悠の言い放った言葉に志織は感極まっていた。
これ以上悠の言葉が続けば志織は今にも泣き出してしまいそうだった。
ただ、志織は一つ見落としていた。
悠の表情が曇ったままな事を、その何かを諦めた様な表情を。
「志織、でもね。
君の気持ちに答えることはできない…」
志織は悠の言葉の意味がわからなかった
「え?…」
「ごめんね。
"私"は志織の気持ちに答えることはできないよ。」
悠は自分の心も志織の心も突き刺す追い討ちを言い放った。
勤めて丁寧に、看護師のおばちゃんに散々直されてきた口調を使って。
「な、なんで……ううっ…だって…」
志織はそんなあまり意味のない言葉をポツポツと大粒の涙とともに溢すことしか出来なかった。
「だってそんなの志織に悪いじゃん。
俺はこれから変わっていくと思うしずっと昔のままじゃいられないから。
口調だって姿だってきっとそのうち中身だって。
大人になるうちにこの間までの悠の面影は無くなってくわけで…
この間までの悠を好きになってくれた志織に悪いから、そんな事。
それにその気持ちに応えてしまったら俺は前に進めない。
だから、ごめん。」
目の前で泣きじゃくる志織に対して悠はオロオロすることもなく自分の今の考えを伝えた。
今までにないほど真剣なトーンで、真剣な顔で真っ直ぐに…
「そ、そんな顔でそんな事言われちゃったら…諦めるしかないじゃない…」
悠の真っ直ぐな言葉を聞いて志織はそんな言葉くらいしか捻り出す事が出来なかった。
本当は志織の中に悠の気持ちを応援したい気持ち、悠がこれからどう変わっても好きでいられるよって言葉、一緒に成長していけばいいって思ってる事、いろんな感情が溢れてるけどそれを言葉にすることができなかった。
それでも志織は悠の気持ちを優先する事にした。
溢れて来る思いは蓋をしておけばいい。
今までのように…
志織はいまの悠の決意が揺るがないならせめて自分は悠の親友でいる事にしたのだ。
「私たちはこれからも変わらず親友って事でいいのよね?」
涙を拭って志織はそう言った。
少しでも悠の近くでいる為に、今まで埋めてこなかった距離を縮める為に、志織はあえて親友という言葉を使った。
「変わらずって表現はなんだかおかしい気がするけどそういう事でいいんじゃないかなぁ」
悠も志織の気持ちを汲み取ってかはたまた自分もそう思ったからかさっきまでのシリアスな口調とはうってかわっていつものゆるい口調で同調した。
「じゃあ、これからも親友としてよろしくだね」
志織はそういって悠に抱きついた。
「…ちょっ…やめろって…」
悠は恥ずかしそうに顔を赤らめながらそう言うけど本気で詩織を引き剥がそうとはしなかった。
「へへっ…いいでしょ?親友なんだし」
「お前なぁ…」
側から見たらイチャイチャしてる様に見える構図だが2人の間に芽生えていた感情は確かに友情だったのかもしれない。
「だって、今はもう女の子同士なわけじゃない?」
二人は志織のその一言に合わせて笑いあった。
二人を包む太陽の陽は夏の到来を大きく主張していた。