カルテ691 怪球カマグ(前編) その79
「では……いただきます」
ヒュミラはおもむろにソファに腰を沈めると、ティーカップにピンク色の唇をつけた。
(ああ……)
我知らず、官能的ともいえる声が漏れ出そうになる。彼女にとってはまさしく天界から滴り落ちる甘露だった。
「知っているか、クラリス。匂いというものは記憶に最も作用する感覚だと言うぞ。だから人はこの魔性の香りから逃れられんのかもしれんな……過去の幸せだった自分を求めて」
(確かにそうかもしれない……)
対面のソファに腰掛ける学院長が語るうんちく通り、ヒュミラはこの蠱惑的かつ刺激的な匂いを嗅ぐたびに、あの日の本多医院に立ち返っていた。今思えば一夜の泡沫の夢のような出来事だったが、あれは紛れもない事実だったのだ。いつしか彼女はカップを片手に中のコーヒーを一滴残さず飲み干していた。
「どうもご馳走さまでした」
「それでどうだ、味の方は?」
「……良いと思います。異世界で飲んだものとほぼ変わりません。すごいです、学院長殿! ついに成功されたんですね! おめでとうございます!」
彼女は手放しで、心の底からグラマリールを褒めたたえた。銀仮面の首が一瞬コキリと鳴ったのは、焦燥感ではなく照れ隠しのせいだろうか。
「まぁ、そう褒めずともよい。この自分にとって出来ないことなど何もないのでこの程度の案件は造作もないことだ。すでに原理は大方把握しているしな……とはいえ、意外と手間はかかったがな。誰かのせいで助手も一人いなくなったし、またもや半分徹夜の日々だったぞ、フフッ」
さりげなく皮肉を忍ばせながらも、グラマリールは仮面の下で軽く笑った。
「さて、お主に見てもらいたいものがもう一つ、否、二つある。これが何だかわかるか?」
「ひっ!」
学院長がローブの下から取り出したものを見て、ヒュミラは思わず手にしたカップを取り落としそうになった。




