カルテ675 怪球カマグ(前編) その63
「以前にも説明したと思うがコピ豆はジャヌビア王国などの南国が産地で暖かい地方でないと育たない非常に貴重な代物だ。寒風吹きすさぶ北の果てのインヴェガ帝国でこれを入手するのは、たとえ権力の頂点に立つ皇帝といえども困難であろう。つまり……どういうことか、わかるな?」
「……」
クラリスは無言でこくんとうなづく。要はこの男は気に入った彼女を手元に置いておきたいがために、魅力的だが中毒性を有し希少価値の高い飲み物を彼女に与え、まんまとその虜とし、この地から脱出できないようがんじがらめに縛り上げた、というわけなのだ……心理的に。
「だが本当にここを立ち去っていいのか? どんな手を使ったのかは知らんが、あれの誘惑は生半可なものではない。一旦振り切ったと安どしても、そのうち焼けつくような飢餓感と飲みたくて飲みたくて居ても立っても居られなくなる衝動に襲われ、結局また手にしてしまうのだ。悪いことは言わん、思いとどまった方が身のためだぞ」
「……」
本当に痛いところを突くのが上手い男だ、とクラリスは押し黙ったまま舌を巻いた。さすがは人の上に立つ超越的存在、と言うべきか。確かにコピ豆に関しては彼女も今後どのように向き合っていけばよいのか現在悩んでいる最中だった。
本多医師のおかげでデカフェに切り替えることは出来たにしても、いずれ貰った分は底を尽くし、結局はカフェインの甘美な黒い沼から抜け出せたわけではないのだ。学院長の指摘する通り本国に帰れば入手手段は皆無であろうから強制的に止めざるを得ないが、欲求に耐えられるかどうかは定かではない。しかし……。
「しかし私はすでにスパイであることがバレていますし、何よりセフゾンさんをアリの餌にして死なせていますよ……まあ、直接手を下したわけではありませんが。この地に残れるわけがないではありませんか」
話しながらも、クラリスはグラマリールには本当に自分を害するつもりがないことに薄々と気がついていた。もし彼が本気を出せば彼女などひとたまりもないであろうし、何より人を呼ぶ気配すらなかった。つまり、全てを無かったことにする腹積もりが向こうにはある、と暗ににおわせているのだろう。




